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第28話 変なおじさん ①

 相変わらずの重低音だったが、こちらを気遣う声音だった。  客という単語に反応し、暴れるのをやめる。 「お、おひゃっ、お客……さま?」 「うむ」  フリーの腕から手を離し、挨拶代わりに雪の積もった笠を外す。  現れたのは、四十代後半くらいの男の顔だった。  短い髪に、優しそうな目。暗くて配色は分からないがとても穏やかな顔つきだった。……だから余計に錫杖のしゃれこうべが違和感を放つ。作り物だと信じたい。  流石に今は笑顔を浮かべる気にならなかった。  どう反応していいか戸惑うフリーを、男はしげしげと眺める。 「清らかな雪のような髪に肌よな。星々の光が映り込みそうで、わし色に染めたくなる」  言葉の意味は理解できないのに、背筋が寒くなった。  顔を強張らせるフリーに、男は笠を被りなおす。 「おっと失礼。貴公はこの宿の者か? それとも客か?」  会話せずに宿に逃げ込みたいというのが本音だったが、客だというなら無礼な態度は取れない。  気合いで踏みとどまり、何とか笑みを作る。口角が痙攣するように引きつっていたが、こう暗くては良く見えていないだろう。とりあえずふたりして崖の上に戻ってから名乗った。 「お、俺はじゅ、従業員です。えっと、フ、フロリアと申します。フロリアです」 (なぜ二回言う?)  男は疑問に思ったが、自分も腰を折った。 「これはご丁寧に、フロリア様。わしはヒスイ。生百舌鳥(なまもず)族のものだ」 「もず……?」  フリーが呟いたところで、こちらに走ってくる足音が聞こえた。 「フリー! どうしたっ」  この声は、ニケである。  悲鳴は宿にまで届いていたようで、黒髪を振り乱し走ってくる。 「ニケ」  他のヒトが来てくれてホッとする反面、こいつとニケを合わせて大丈夫だろうかと不安な気持ちも湧きあがる。  まだ寝間着に着替えていないニケは、なかなかに俊足だった。多分、追いかけっこしたら永遠に捕まえられないだろう。 「え?」  だが何を思ったのか、自分で止まるのが面倒くさかったのか、フリーにそのまま体当たりしてきた。 「おぶっ」  一メートルほど飛び、地面に倒れる。  そこに両手で胸ぐらを掴まれ、強引に起こされた。 「おい。すごい悲鳴が聞こえたぞ。どうしたんだ!」  がくがくと前後に揺さぶられ、フリーは白目を剥く。 「あ、あ、だ、大丈夫です。ちょっと驚いただけで……」  指を差すとニケはやっとヒスイに気が付いたようで、無意識で手を離す。ゴッと痛そうな音がしたが、構わず男の前へ移動する。 「失礼。僕はこの宿の者で、ニケと申します。……あなたは?」  ヒスイは笠を押し上げて顔を晒す。 「夜分遅くに申し訳ない。わしは客だ。ヒスイという。旅をしていたら夜になってしまってな。一泊よろしいだろうか?」  ニケは目を見開く。 「お、お客様の御前で、失礼を!」  この山は旅人がふらっと来られる場所ではないのだが、今はいいだろう。  慌てて頭を下げるニケを手で制す。 「なに、気にすることはない。ああ、それと手持ちが少ないのでな。一番安い部屋を頼む」 「かしこまりました」  身を翻すと、頭を摩るフリーの手を掴んで宿へと戻る。 「まったく。厠から大声が聞こえたから、てっきり穴にハマったのかと思ったぞ」 「ご、ごめんね」  たははと苦笑し頬を掻くと、ヒスイが会話に割り込んできた。 「すまんなぁ。その白き者に悲鳴をあげさせたのはわしだ」 「え?」  振り返るニケに、おじさんは何故か自慢げに頷く。 「わしは美しいものを見るとつい触ってしまう癖があるでな? そこの者にセクハラしていたら悲鳴を上げられたのよ」  ニケの顔から表情が抜け落ちる。  はっはっはっと上機嫌に笑うおやじを見て、治安維持隊の者を呼ぶか真剣に迷った。  ちょうど宿にレナさんがいることだし、金を払ってこやつの退治を頼んでもいい。  ニケの顔色から悟ったらしいヒスイが、降参するように両手をあげる。 「……もうしないので、通報はやめてください」 「……ここはそういう宿ではありません。次はありませんよ」  幼子の眼光に怯んだわけではないだろうが、おじさんはコクコクと頷いて見せる。  やれやれと被害者を見上げる。 「フリー。大丈夫か?」 「え? うん。腕を掴まれただけだし……。ちょっと大げさにしちゃったね。ごめんね」  この言いように、ニケはため息を堪えられなかった。 「お前さんは世間知らずだからなぁ。痴漢は犯罪なんだから、大げさにしろ」 「大げさにするの?」 「ううん。そうは言うが、少し腕を触ったくらいだぞ? 滑らかな肌だったが、どうせなら尻のひとつでも撫でてから……すいませんなんでもございません」  懐から白い棒を抜いた犬耳少年を見て、おじさんは口を閉じる。  ナチュラルに会話に入ってくるなと言いたい。ニケはがりがりと骨を噛む。  こんなセクハラ野郎を宿に入れたくないのが本音だ。軒下で寝ろと言いたかったが、次なんかやらかしたら問答無用で蹴り出そうと決めた。 (それに……)  ちらっとフリーの顔を見る。能天気な顔をしていやがる。  大声を上げたのは及第点だが、痴漢の対処法も教えておかなくてはならない。  フリーの手をぐいぐい引っ張り、早足で宿に戻った。

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