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第29話 変なおじさん②

「「……」」  夜も遅いというのに、宿でニケたちを出迎えたのはレナだった。鎌状のヒレと背びれを突き出した臨戦態勢で、こちらを見下ろしている。  玄関でイタチザメが仁王立ちしている。陸地だというのにその迫力は凄まじく、申し訳ないが人間と犬と鳥は揃って回れ右しかけた。 「何やら悲鳴が聞こえたが、ニケち……ニケ殿の悲鳴か?」  どうやらお腹が空いたから待ち構えていたのではなく、ニケの身を案じて部屋から出てきてくれたらしい。心配げにニケに駆け寄ってくる。  風呂上がりで浴衣姿の彼女から、ふわりと良い香りが漂った。 「ほう」  レナの美貌に、初手セクハラおやじが感心した風に顎を撫でている。レナは大胆に背中が大きく開いた色っぽい浴衣を身につけているので、視線がうなじに固定される。  これは彼女の趣味でもなんでもなく、背中に羽を持つ鳥族用の浴衣で、大抵の宿や旅館は種族にあった浴衣を用意している。ヒレを出す時に邪魔にならない浴衣を選んだのだろう。  一瞬、このおやじのことを言おうかと迷ったが、この状態のレナにセクハラされたなんて言えば、迷わずヒスイを殺す気がする。  腕の鎌で首を跳ばす様が容易に想像できる。 (レナさん。優しいからな……)  彼女の細い指が、ニケの黒髪をよしよしと撫でる。目を細め、ニケはされるがままだ。  幼子限定の優しさだとは気づいていなかった。  玄関とはいえ宿を汚したくなかったので、首を振る。 「いえ。従業員がバッタに驚いて悲鳴を上げただけですよ」 「んえ?」  変な声を出してしまったが、ニケの意図を読み、フリーは口をつぐんだ。  立ち上がり、「なんだお前の悲鳴かよ」みたいな目を向けてくる。 「そう、か。ずいぶんビビ……小心者な従業員なのだな」 「あ、あはは……」  どういう仕組みか分からないがスコンとヒレを仕舞うと、波模様の肩掛け(ストール)を羽織り、廊下の奥へと消えていく。  ニケはヒスイに声をかけておくことにした。一応客なのでな。一応。 「彼女もお客様なのですから、手を出さないでくださいね。手痛い反撃をくらいますよ」  ていうか殺されますよ、と告げる。  意外にも、おじさんは真顔で頷いた。 「うん。あれは捕食者の目だった」  鮫なのだからまごうことなき捕食者である。海の民は陸地に上がれば弱体化するが、海中では生態系の頂点付近をうろうろしているような生物だ。  おじさんは残念そうに肩を落とす。 「悲しい話だ。美しいものには棘がある。あれでは迂闊に触れんなぁ」  触るんじゃない。 「やはり花はしとやかな方が魅了的よな?」 「あの……」 「愛でるなら激情を放つ太陽の花より、穏やかな月の花にぐあッ!」  おじさんが変な声を上げた。目線を下げるとニケの雪下駄が、ヒスイの足を踏み抜いていた。これは痛い。  おじさんこりもせず、フリーの顔を触りまくっていたせいなのだが。  戸惑うフリーを背に庇い、両手を広げてグルルルルと威嚇する。  足を押さえて「ぐおおお」と唸るヒスイの尻をトドメに蹴って、フリーの腕をしがみつくように掴んで宿に入る。  最後に振り返り、低い声で告げる。 「お前さんの部屋は角の「立秋(りっしゅう)の間」だ。どうぞごゆるりとなさってください。あ、もう風呂の時間は終わりましたから。寝ろ」  ぺいっと秋口の間と書かれた札を投げて、ピシャンと扉を閉める。  もう客だと思っていなかった。叩き出さないだけありがたいと思ってほしい。 「おー。元気な幼子だ。いちち……」  木札を拾ったおじさんは尻を押さえ、よろよろと部屋へ向かうのだった。

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