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第34話 魔物の襲来 ③

 その寸前で、一陣の風が魔物とフリーの間に滑り込んだ。  ガキィ!  耳障りな音を立て、天熊の爪がフリーの額スレスレで止まる。いつまでたっても襲ってこない衝撃に恐る恐る目を開けると、はらりと、白い髪が二~三本舞い落ちた。  ニケとフリーが目を見開く。  爪による斬撃を防いだのは、宿泊客のレナだった。ほっそりとした肘から突き出したヒレと、魔物のごつい爪との衝突。弾かれたのは天熊の方だった。 『ギャアアァ?』  悲鳴を上げて魔物がのけ反る。なんと、ヒレを叩いた爪が砕けたのだ。レナのヒレの方が硬いことを示す。  守ってくれたレナが振り向く。  その目つきは、魔物などよりよほど険しく怖かった。 「何をしている貴様ぁ! 逃げ出そうとする暇があるなら、ニケ殿を守らんか! 怪我ひとつさせたら殺すぞ!」  山が震えるような大喝に、ニケを追って迫っていた黒小僧までもが竦む。  耳がキーンとなり放心状態のフリーに、ニケは飛びついた。  しっかりニケがつかまったのを見てフリーの襟首を掴み、レナは大きく跳んだ。  魔物たちから距離を取る。  レナと合流できたことにより、ニケはホッと息を吐いた。 「すいません、レナさん。こやつに逃げろと言ったのは僕です」 「怪我はないか? ニケ殿」  ニケとレナの早口が重なる。一瞬目を点にしたのち、二人は頷き合った。 「そうか」 「はい。怪我はないです」  ニケに抱きつかれている青年に軽く殺意が湧いたが、今はそれに構っている場合ではない。  きっと魔物を睨む。 『グオゥ?』  黒小僧は天熊を心配するかのように手を伸ばし、天熊は「ほっといて! このくらい平気よ」という感じで腕を振り払う。  それを見て、レナは眉をひそめた。 「変だな……。黒小僧はともかく、天熊は他の魔物とは慣れ合わないはずだ」  それどころか、視界に入っただけで襲い掛かる獰猛な性質である。これはおかしい。  ニケはよく分からなかったが、魔物に詳しい彼女が言うのだから、何か異変が起きているのだろう。 「レナさん。もう一人のお客様を見ませんでしたか? 赤い袈裟を身につけている方なのですが――」 「そんなことより、身の安全を第一に考えてくれ。私がいれば必ず安全、とは言ってやれん」  そんなこと扱いされたヒスイが不憫だったが、ニケの鼻は血のにおいを捉えていなかった。まだ、生きているはずだ。  しかし、以前のニケならレナの制止もきかず、客を探すために宿に戻っていただろう。客を守るのは主の務めであるという思いから。無茶をしたはずだ。  なのに、今は身体が動かない。急に現れた魔物に怯えているから、というのも確かな理由ではあったが……  ニケの両手は、魔物の恐怖よりも客の安否よりも、まるでフリーを失いたくないと言うように白い着物を強く掴んでいた。 「……? ……ッ……??」  そんなフリーは、現状が呑み込めず混乱の坩堝にあった。表面上は平静さを取り繕ってはいたが、頭の中は「何が起こっているんだァァ」と走り回っている状態である。冷や汗が止まらない。若干魔物よりレナの方がこわ……いや、魔物が怖い。  それでも発狂せずに済んでいるのは、小さな子が左腕に引っついているからだろう。フリーの腕はほぼ無意識に、ニケを抱きしめていた。  両腕と背中が大きく開いた中華ドレスから背ビレを突き出し、レナは狩りモードに入る。  どうして魔物がここに入ってこられたということも気になるが、今はこいつらをどうにかするのが先決。二体はちときついが、どちらの魔物も魔獣龍虎よりは弱い。ならば、倒せずとも追い払えるはずだ。  手当てと宿の温泉の効果もあり、龍虎に負わされた傷はなんとか塞がっている。が、長引かせればこちらが不利。ならば、  ――先手必勝。  レナは魔物の意識がこちらを向く前に駆け出した。気づいた魔物が視線を向けてくるより早く、彼女は地面に飛び込む。 「えっ?」  土竜や蚯蚓(ミミズ)族並みの速度で地面に消えたレナに仰天する。  ニケは見たことがあるのか、驚きはしなかった。冷静にフリーの腕の中から下り、もっと離れるように指示する。 「フリー! 魔物の相手はプロに任せろ。僕らは邪魔にならないよう、下がるんだ」  地面から突き出た背ビレが、風を置き去りにする速度で魔物に迫る。狙いは、黒小僧だ。レナは土中で鮫の姿へ変化――正確にはとある薬の力で鮫の姿になっただけ――して、泳ぐように移動することが出来る。ごく短時間のみだが。  ニケに引っ張られ、よろけたフリーは確かに見た。大型の鮫が、魔物に食らいつく瞬間を。  土を大量に巻き上げ、黒小僧の巨体が宙を舞う。 『グウウッ!』 「!!??!」  フリーは開いた口が塞がらなかった。  足元から鮫が出てきた黒小僧はそれ以上の衝撃だっただろう。いくつもの歯が食い込んだ肉体はミシミシと嫌な音を立て、口から青い血液を吐く。 『グ、ググウ』 『ギュアアアアァ!』  余波で転びかけた天熊だったが、四つ足の強みを生かして踏ん張り、なんと、まだ宙にいるレナ目掛けて攻撃態勢を取った。 「!」  レナ(いたちざめの姿)は黒小僧に噛みつきながらも、天熊からも意識を逸らしてはいなかった。そんなレナは不振に思う。こんな、相手の隙を見逃さず攻撃しようと動けるほど、天熊の知能は高くない。  それに――黒小僧の三つ目が、一斉にレナを見た。腹に鮫が噛みついているのだ。もう気を失っていてもおかしくはないというのに。  彼女の不安をよそに、黒小僧は痛みを感じていないかのように、力を解き放った。  レナのヒレが引き攣る。これは、魔九来来を使う前兆!  長年磨かれた猟師の勘が、彼女の身を助けた。  地面に叩きつけるのを諦め、彼女は咄嗟に黒小僧から口を離す。その瞬間、魔物の冷気が鼻先に叩きつけられた。 「チィッ!」  冷気は吹雪のように氷雪を伴って吹き荒れ、レナの身体を白く凍らせていく。噛みついたままだったら、口内に冷気を直接送り込まれて即死だった。危ない。  それでも逃れたわけではない。あまりの寒さに呼吸が出来なくなる。その隙を待っていたかのように、天熊も力を放つ。 『ギャアアア!』  大きく羽ばたき、瞬間的に台風じみた強風を生み出す。 「レナさん!」  ニケが叫ぶ。  その風は凄まじく渦を巻き、竜巻へと変化すると自然界ではありえない動きを見せ、レナへと襲い掛かった。 「ぐっ!」  ただの風ではない。竜巻の中で、巨木をも両断する天熊の羽が花びらのように舞っている。ミキサーと化した竜巻に切り裂かれ、レナの全身から血が噴き出した。 「ぐ、あああ!」  たまらず悲鳴を上げる。  奇異なことに、魔物たちは明らかに連携していた。大きく吹き飛ばされたレナの血は瞬時に凍り付き、赤い雪が、夏エリアに降り注ぐ。  通常では考えられない強力な魔九来来を使った天熊と、連携してみせた黒小僧。こいつら、もしや――  鮫の姿を維持する力を失い、レナが女性の姿へと戻る。 「ッ!」  フリーは咄嗟に駆け出すが、どんなに速く走っても十秒以上はかかる。  どすんっ。  レナは夏エリアの外、吹雪の山へ落下した。  ドレスはズタボロで、その下の雪がじわじわと赤く染まっていく。手足は千切れてこそいなかったが、左腕は変な方向へ折れ曲がり、もはや治療したところで戦闘は出来ないであろう。 「レナさん……ッ」  なんとか魔物より早く彼女の元へたどり着いたが、のんきに治療する暇などない。魔物たちが追いかけてくるのだ。あれだけの魔九来来を使ったせいか動きはのろいが、そもそも歩幅からして違う。彼女を抱えて走ったところで、逃げ切るのは無理だろう。  雪の冷たさも忘れて膝をつき、呆然となる。  ――ビュウウウ……  聞き慣れた凍光山の風の音が、どこか遠くに聞こえる。光りすら凍らせる山の冷気に包まれて、ニケは酷く落ち着いていた。赤い目が、じっと魔物たちを見つめる。  懐から骨を抜き取り、ゆっくりと立つ。 「フリー。とっとと逃げろ」 「え?」  こんな事態も想定し、何度か避難訓練は行った。宿に魔九来来防具だって何個か置いてある。だというのに、うまく立ち回れなかった。レナさんに大怪我させたのも、僕の責任だ。 「早く! 僕が足止めをしておいてやる」  気丈に振舞うも、数秒足止め出来たら良い方だろう。情けないことに両足の震えは止まらないし、火の力はせいぜい料理に使える程度。ニケがいくら人間からずれば怪力の類とはいえ、目の前の巨人型魔物には遠く及ばない。なによりこの凍光山は彼らの領域。  生存は絶望的だ。  一分一秒も時間を無駄にできないというのに、それなのにフリーは逃げてくれなかった。血まみれのレナを支えて、立ち上がろうと頑張っている。女性一人も持ち上げられないのかこやつは。 「それならニケが逃げてよ。足速いんだし! ここは俺が」  その先は聞きたくない。 「うるさい! 言うことを聞け」  こんな言い合いをしている場合ではないというのに。どうしてこういう時に限って言うことを聞かないんだ。 「う……ぐ」  レナがうっすらと目を開ける。血と雪にまみれた秀麗な顔を歪ませ、ニケの方へ目をやる。 「こ、この幽鬼族の言う通りだ。ニケ殿が逃げろ……。ごほっ! 私とこいつで、なんとか……時間を稼いでやる」  挙句に、レナまでこんなことを言う。  レナはいつもニケを気遣い、ちょくちょく様子を見に来てくれた。お得意様であり、ニケにとって第二の姉のような存在。今もなお、こんな傷を負っても庇おうとしてくれている。優しくて、大切な人。  赤い瞳に涙が滲む。  フリーは必死に立とうとする彼女を支える。 「無茶ですって! 左腕、折れているんですよ」 「うるさいぞ軟弱! 骨が折れたくらい、なんだ」  血を吐きながらも、支えの手を振り払おうとする。  ニケに何かある方が嫌だ。 『グオオオッ!』  雄叫びを上げ、黒小僧が走り出した。腹から血をこぼし、鈍足という噂を蹴散らすように。  吹雪を浴びて回復が早まったのか、目をぎらぎらと血走らせている。  ニケはそれを見つめることしかできなかった。 「――すっ、すいません!」  背後から、申し訳なさでいっぱいの声がした。 「え? ……おわっ」  突然、立とうとしていたレナが顔から倒れ込む。支えがなくなったからだ。フリーが走り去っていく。  ニケたちを置いて。  魔物の反対側へ。

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