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第35話 フリーの魔九来来 ①
ニケたちを置いて。
魔物の反対側へ。
森の中へと――逃げてくれたらよかったのに。
現実はニケの真横を通り過ぎ、黒小僧へと突っ込んでいく。
「っ! フリー? 馬鹿っ」
気づいたニケが咄嗟に手を伸ばすが、白い着物に届かなかった。ニケとレナは呆然とする。あまりの恐怖でおかしくなってしまったのだろうか。
一番弱い彼が立ち向かったところでなにができる。
実際、黒小僧もフリー相手に魔九来来(まくらら)は使わなかった。首を鳴らし、面倒くさそうにただ腕を振り上げただけ。これで殴られれば、フリーの身体など丸めた紙屑のようにくしゃくしゃになって仕舞いだろう。
時間稼ぎにすらならない愚行。
顛末を悟ったニケが涙を流す。
それでも目を逸らさなかったのは、最後まで彼を見ていたかったからだろう。その感情を何と呼ぶのかニケは知らなかった。
目にもとまらぬ速度で拳が向かってくる。そんなものには構いもせず、フリーは天へと届と言わんばかりに叫んだ。
「落ちよ!」
その呼びかけに応じるかのように、雪雲から黒い雷が落ちる。
『!』
全身に鳥肌が立った黒小僧は殴るのをやめ、咄嗟に後ろに飛び退く。本能に従って正解だったと三つ目は悟る。
三つの目が捉えたのはさっきまで立っていた地面に突き刺さった刀。雷だと勘違いさせるには十分なほどの衝撃と破壊力を纏って、天から降ってきたのだ。
遠くの空で、ごろごろと低い音がする。
それを無造作に引き抜いた青年が構える。彼は背が高い方とはいえ、人間が振るうにはあまりに長い。まだフリーより黒小僧が持っていた方が違和感がないであろう大太刀。
刀は黒く、霧のような靄が全体にかかり、しかも煙のように動いている。まるで刀身に雷雲が閉じ込めているかのような不思議な模様。
『……グウ』
「「……」」
あっけに取られる周囲のすべてを置いて、久しぶりの愛刀を握る。それはフリーの手にしっくりと馴染んだ。
「走れ!」
長大な刀を担ぐように構え、叱責と同時に跳躍した。黒小僧があっと思った時には、もう青年は眼前に迫っていた。
『グッ――』
黒小僧が目にしたのは白い衣と、大太刀を豪快に横薙ぎした跡……虚空に刻まれた黒の軌跡だった。
胸元を豪快に横割にされて、それでも魔物特有のしぶとさで生きていた黒小僧だったが、コンマ数秒の間を置き、天から今度こそ本物の、黒雷が駄目押しの如く直撃した。
空が、山が、黒銀に染まる。
『グオオオッッ!!?!』
全身に流れる電流に、黒小僧は悲鳴じみた呻きをもらして痙攣した。
――なにが……起きたんだ。
それはこの場の誰にも分からない。ただ一人を除いて。
炭化し、白い煙を上げる身体が膝から崩れ落ちる。
斬られたと同時に、雷が降ってきた? そんな偶然あるものか。ならばこれは、間違いなく魔九来来(魔物の力)。
白い青年に伸ばした腕は届かずに、半ばからぼろっと崩れる。
その頃には、黒小僧は絶命していた。
「……っ?」
ニケがぽてんと尻餅をつく。
「……ほう」
この一連の出来事を、赤い袈裟姿の男が遠い木の影からじっと見ていた。
ニケはレナの腕に抱えられていた。衝撃が大きくて、すぐに立てそうになかったからである。それを理解してくれたレナが抱えてくれたのだ。魔物と戦うのが本職なだけあり、彼女の立ち直りは早かった。
凍光山は寒すぎるので、宿に向かって走っている最中である。
天熊はフリーとレナの二人がかりでボコされ、地に伏している。左腕が折れ曲がっているとは思えない奮戦ぶりに、フリーは若干引き気味だった。
レナは黒刀に目をやる。
「貴様、それはなんだ。魔九……いや、幽鬼族の持つ力か?」
まだ魔物が襲ってくるかもしれないので、警戒しつつの会話。走力はレナの方が上なので、フリーはゼイゼイ言いながら追いかける。
「こ、これは~生まれつきのあれで……。待ってぇ~」
不格好にだばだば走っている青年を見てレナは素直に呆れた。この幽鬼族、魔物を圧倒してみせたくせに、なぜこうも頼りないオーラを十全に纏っているのだろうか。
たまに強さを隠して弱者の振りをする者もいるが、それとも違う気がするので頭が混乱する。
夏エリアに戻ると宿の惨状が嫌でも目についた。
厨房の壁は崩れ、廊下も魔物がいちいち壊しながら歩いたせいで壁や屋根がない。ニケの姉が植えた花も、潰されぐちゃぐちゃである。
「……」
花壇の前で立ち尽くすニケの背中に、レナもかける言葉がない。痛ましげな表情を浮かべる。
「ぜーはーぜーはー。ゲホゲホッ! オエッ。……吐きそう」
横で咽ている青年がうるさい。
寒かったのか、大げさなほど両腕を摩っている。
「ひいいい! 吹雪と初夏を行ったり来たりすると身体、壊れそうだわ。ああもう。寒いのか暑いのか、身体がバグってる気がする。あの、レナさん平気ですか?」
空気読めコラ。
腹が立ったので蹴っておこう。
青年はダンゴムシのように身体を丸め、頭を庇っている。
「痛い。痛いです! なんで? なんで蹴られてるの俺」
「うるさい。なんだ貴様は」
「……」
感傷に浸りたかったが、背後がうるさくて嫌でも引き戻される。ニケは雑に裾で涙を拭くと、振り返った。
青年が女性に踏まれている情けない光景が見えたので、見なかったことにしようかなと思った。
幼子の視線に気づきレナははっと動きを止める。
「に、ニケ殿! そんな目で見ないでくれ」
「あまり激しく動かないでください、レナさん。腕が……。薬箱を取ってきますね。薬で骨折は治らないでしょうけど、包帯があったはず!」
「いやいい。大丈夫だ」
駆け出そうとしたニケがつんのめりかける。
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