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第40話 薬師

 意識が浮上する感覚があり、フリーは身じろぎする。  なんだか生暖かいものが頬を撫でており、非常に気分がいい。それに反して、身体の方はずいぶん重たく、指一本動かすにも大変な苦労がいった。 「う……?」  まつ毛に絹糸のようなものが当たるのがくすぐったくて、二度寝したかったが観念して瞼を押し上げた。  古びた色合いの、木造りの天井。  眼球だけ横に動かすと、犬耳黒髪の幼子が真剣な表情で、フリーの頬を舐めていた。くすぐったいと思ったものは、そのたびに触れるニケの前髪だったようだ。  ぺろぺろ。ぺろぺろ。 「……」  顔がしっとりしているわけだ。フリーが目を覚ましたことに気が付いていないのか、真っ赤な舌はフリーの頬を懸命に舐めている。  ――ううん。ただただ可愛い。  この行為にどんな意味があるのかは分からないが、とにかく可愛い。  天井を見つめ、しばらくこの時間を堪能していたかったが、フリーの視界に知らない人物の顔がひょいと映りこんだ。 「おや。目が覚めたかい?」 「!」    これにいち早く反応を見せたのはニケだった。夢から覚めた顔で舌を離すと、赤い瞳がさっとこちらを見る。金緑の目と視線がかち合ったニケの顔は、みるみる真っ赤になった。 「「……」」  見つめ合うこと数秒。  伸びてきた小さな手が、フリーの頬を摘まむ。そしてみよーんと引っ張った。 「目ぇ覚めてたら僕に挨拶せんかい!」 「しゅみません!」  いきなり怒鳴ってしまったが、フリーのいつもの反応にホッとしていた。しかしフリーの分際で心配かけやがったので、頬をめちゃくちゃに引っ張ってやる。 「このっ、この!」 「あー、うー。ごへん(ごめん)よぉー」  その喧しい光景を知らない人物は止めるでもなく、のほほんと眺めていた。  紅葉街。  都への交通の便が良く、他の街よりは気軽に都へ出かけられるため、ヒトの出入りが多い宿屋街の顔も持つ。彼らはこの街が第二の都で、自分たちは田舎者ではない。雅人という自負を持っているため、プライドが人一倍高く若干面倒くさいのは、まあご愛嬌。  流行にも敏感で、いち早く都で流行ったものを持ち帰るため真似っ子……この街は影都(かげと)とも呼ばれている。  都の影響を色濃く受けた街並みは、見渡す限り幡(はた)が翻り、濃紺ののれんが揺れている。「藍一色」に染まった街は、夏の晴れやかな空とマッチして目の覚めるようである。  影都でこうなのだから、都の方はもっと青々としている……のかもしれない。  街名と真逆の色に染まっているが、ここに暮らすヒトが満足しているのだから、これでいいのだろう。  そんなピカピカの街の中で、年季の入った古臭い建物は、明らかに異彩を放っていた。  表には今にも落ちそうな看板に、「くすりばこ」と書かれているだけ。初見では絶対に病院だと分からないこの家が、ニケ祖父の代から交流のある薬師の住居兼職場であった。  ――というざっくりした説明をニケから聞いたので、薬師は相当なお年寄りかと思えば……。 「……」  フリーは、包帯を巻きなおしてくれている人物を盗み見る。  ぱっと見は二十代前半くらいだろうか。華奢で背はレナよりも低い。たおやかな雰囲気を纏い、どこか箱入り娘のようにも見えなくもないが……下半身はどっしりと胡坐(あぐら)をかいていた。  白緑(びゃくろく)色の髪をさらっと結い上げ、馬の尾のように背中に垂らしている。瞳も同じ薄い緑色。包帯を器用に巻く指は細く、汚れのない白羽織(白衣)には鈴蘭の刺繍がされ、落ち着いた中に華やかさがある。白と緑の二色しかないこの人物は、鈴蘭の妖精のようだった。  包帯をしっかり巻き終えると、薬師のおじいちゃんはにっこりと微笑む。 「はい。もういいよ。他に気になるところはあるかい?」  額や耳、胴体が包帯で厚く巻かれてミイラ状態だった。行儀よく正座したかったのだが、楽な姿勢でいろと言われたので、布団の上でフリーも胡坐をかいている。 「や、大丈夫です。ありがとうございます……。ええと、キミカゲ、さん?」  おじいちゃん――キミカゲはこくんと頷く。  声も若々しく笑顔には皺ひとつないが、これでこの街にいる誰よりも年上なのだとか。  信じられない思いで、患者用の着物に袖を通す。ちなみにこの間、ニケはずっと腰にしがみついていた。くっつかれているおかげで背中にじんわりと汗がにじむ。酷く心配をかけたようだ。 「ニケ。もう大丈夫だよ? 心配かけたね」  首だけ振り返りなるべく優しい声を出すも、ニケはフンと顔をそらす。 「別に心配なんてしとらんがな」  そう言っても離れようとしないので、思わず苦笑してしまう。  すると、キミカゲさんがぽんっとフリーの頭に手を乗せた。優しい手つき。てっきり撫でてくれるのかと思いきや、 「まだ全然大丈夫じゃないからね? それなのに軽々しく「大丈夫」とか言わないの。君は治りが遅いみたいなんだから、まだまだ安静にしていること。……いいね?」  鼻先がくっつきそうな至近距離で囁かれ、フリーの苦笑が引き攣る。 「ふぁ、はい」  何度も頷くとキミカゲはあっさり身を退いた。 「いい子だね」  そう微笑み、キミカゲは木製の薬箱を背負って部屋を出て行った。引き出しが三つあり、その中に薬がみっちり仕舞われている箱は、かなり重量がありそうだったのだが、おじいちゃんはすたすた歩いていく。 「……ぴえ」  レナとは違う「すごみ」があった。  部屋中から薬草独特のにおいがする。好き嫌いが分かれそうだが、フリーは平気な方だった。  畳張りの小さな部屋で、隅に鈴蘭が描かれた行灯がちょこんと置いてある。それ以外にはとうに絶滅した樹木・炎樹(えんじゅ)で造られた、古びた机があるだけの簡素な部屋。ここに寝かされていたようだ。  いま、部屋にいるのは自分とニケだけ。 「レナさんは?」  彼女も酷い怪我だった。まだ眠っているのだろうか。  返事は背中から聞こえた。 「今朝がた「治った」って言って出て行かれたぞ」 「治ったん⁉」  彼女は目覚めるなりニケの安否を訊ねたので、キミカゲに呆れられていた。  ギリギリまで心細い自分の側に寄り添ってくれたが、彼女は帰って行った。後ろ髪引かれまくった様子で。故郷に幼い弟妹を残しているので、あまり長いこと家を空開けられないのだ。  ふさふさの尻尾が畳を叩く。 「キミカゲ翁(おきな)は「まだ治ってない」って怒っていたけど。……まあ、レナさんは元気そうだったよ」 「そ、そっかぁ……」  フリーはそっと額に手をやる。なんだかさっきから頭がぐらぐらするのだ。  それに気づいたニケが、キミカゲが座っていた座布団に移動する。やっとニケの顔がまともに見れた。 「頭痛いか?」 「うん……少し」  吐き気もする。 「血ぃ流しすぎたんだろう。まだ横になっとけ」  さぁ早くと言わんばかりに、枕をたしたしと叩く。 「俺……どのくらい、寝てた?」  瞼が落ちてくる。痛み止めの副作用なのか。泥のような眠気がのしかかってくる。 「二日ぶっ通しで寝てたぞ。おかげで二日もここにいる羽目になった」 「それは、ごめんね。……はやく元気になる……よ」  そこでフリーの意識は闇に沈んだ。横に傾いた身体をニケは慌てて受け止める。  鈴蘭柄の布団をかけてやり、寂しそうにフリーの寝顔を見る。 「人族って、脆いんだな」  かすり傷程度なら舐めとけば治るニケや、骨が折れても動き回れるレナと比べると……いや、比べられないほど回復が遅い。  なのに、魔物を一蹴してみせた、あの力は何なのだろう。あきらかに戦闘慣れしている。戦闘用奴隷だったのか。  なんの魔九来来かも気になるところだ。普通に考えれば「雷」か。同じ魔九来来使いなことが嬉しくもあったが―― 「お前さん……もしかして強すぎるから封印されてたんじゃ、ないだろうな?」  キミカゲにもフリーの正体は明かしていない。「幽鬼族です」って言ったら「え?」って言われたけれど。  いろんな患者(種族)を診てきた薬師の目は誤魔化せなかった。「幽鬼に見えないなぁ」とほっぺや耳をつんつんされた。それでも、黙秘を貫いた。  キミカゲは嫌な性格ではないので、無理くり聞き出そうとはしてこなかった。 「早く良くならないと、また頬を引っ張るからな」  無事だった方の耳の側で独白し、さっと部屋をあとにする。ずっとそばにいたかったが、ニケにはやらねばならないことがある。  隣は診察室で、その奥は狭い書斎と炊事場のみという、小さな家だ。もっと広い家に住まないのだろうか。彼の稼ぎなら庭付き一戸建てでも……まぁ、個人の自由か。  ニケは書斎の前に行くと、声をかけた。 「キミカゲ翁。入っていいですか?」  声をかけてみるも、部屋の中は空っぽな気がする。  耳に神経を集中させていると、返事は扉の向こうからではなく、真横からした。 「いいよ」 「ぴぃっ?」  一センチほど飛び上がる。  泡を食ってそちらを見ると、二人分の湯呑を持ったおじいちゃんが立っていた。  赤犬族の聴覚や嗅覚をもってしても、キミカゲの足音は捉えられないし、あれだけ薬草のにおいが染みついた部屋にいるというのに、キミカゲ自身はなんのにおいもしない。  かくれんぼしたら、多分一生見つけられないだろう。心臓に悪いおじいちゃんである。  目を丸くするニケにふんわりと微笑み、持っていた湯呑のひとつを手渡す。 「熱いからね?」 「あ。ありがとうございます」  そこらの大人より礼儀正しいニケに、感心した風で湯呑に口をつける。 「アビー似だねぇ。ニケ君は」 「え?」  一瞬、何だっけと頭を捻り、思い出す。アビーとはニケ祖父のあだ名だった。  いきなり出てきた祖父の名に、ニケはじっとキミカゲを見上げる。 「まあ、あいつほど堅苦しい性格に、なる必要はないと思うよ」  何の話だろう。  小鳥のように首を傾げるニケに、おじいちゃんはなんでもないと首を振った。 「ところで、何か用だったのかい?」 「あ、はい。居候させてもらっている身なので、なにかお手伝いできればと思いまして」  それは初日に言うべきセリフだろうが、フリーとレナが目覚めるまで気が気ではなかったのだ。頭から飛んでいたのだからしょうがない。  ぽかんと口を開けたキミカゲだったが、すぐに破顔した。 「それは助かる。私は年だからねぇ。助手が欲しいなと思っていたんだよ」  その外見で年とか言われても鼻で笑ってしまうが、ニケ祖父の代より前から生きているのは事実なので、相当なお年なのは間違いない。  ニケはきりっと表情を引き締めた。片方の拳を握りしめ、やる気満々である。 「お任せを!」 「ではこちらにおいで」  書斎の戸を開けたキミカゲに続いて中にお邪魔した。  広くもない部屋の壁一面本棚で、色褪せた書物がみっちり並んでいる。入りきらなかったとおぼしき書物が、足の踏み場もないほど床に積み上がっていた。  左側の棚には封がされた壺がびっしりと並び、薬研(やげん)まで置いてある。

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