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第60話 神使

「あの、どうかしましたか?」  雑踏をかき分けてくる人物。それを見てリーンは思わず口をあんぐりと開ける。  そこに現れたのは、ひとりの青年だった。  後ろでひとつに結われた、どこか物哀しい光悦茶(こうえつちゃ)色の長い髪。薄い桜色の唇に、はっきりと大きな紫の瞳がなんとも神秘的だ。  肢体を覆う着物は緑っぽい青。丸の周りを取り囲む複数の三角といった、太陽に似た金糸刺繍が施されている。  そして何より目を引くのが、頭上から伸びる立派な二本の角。空に走る稲妻のような形をしており、紫の組紐で飾っている。  同じ角でも、先ほどの鬼族のような禍々しい気配は一切感じない。威圧感で言うなら似たようなものがあるが、なんというかこう、圧迫されるものではなく、神聖という言葉がふさわしいだろうか。そんな清らかな空気を纏っている。  騒ぎを聞きつけやってきたのか、はたまた誰かが報せたのか。  フリーたちのすぐ近くで歩みを止めた彼は、ちょっと状況が呑み込めないといった顔で顎に手を添える。 「ええっと。揉めている人たちがいると聞いて、やってきたのだけれど――」  着てみれば、土下座青年と青年の頬を伸ばしている幼子。そしてそれをただ眺めている少年。  紫の目でそれらをまじまじと眺めて、青年はひとつ頷く。  ――なるほど。何も分からない。  青年は考えるのをやめ、ひとまず夜空の着物少年に親しげに声をかける。 「喧嘩……ではない、のかな? これは?」 「アキチカ、様……」  少年は呆然と言った様子で、自分の名を口にする。  紫枝鹿(しえだしか)族。  正真正銘、神の使いである。  ニケは無意識に、神と対極にいる邪悪(人族)と神使の青年を交互に見比べた。アホ度が高くて忘れかけていたが、こいつは人族なのだ。猫妖精に灰色鼠(はいいろねずみ)族を近づけたときような、なんか激しい反応を起こすかもしれない。何かあれば自分が庇ってやらねば。手のかかるやつである。 「……」  十秒くらい時間が過ぎたが、特に何もないし、何も思わない様子。神使にケツを向けたまま、ひたすらニケの顔色を窺っている。  神使の青年も首を傾げているだけだ。  ニケ自身も何も思わない。  伝承でどれだけボロクソに書かれようと、ニケにとってフリーはフリーでしかないのだ。  雇い主らしくフリーにいい加減立つように伝え、自分も神使に向き直る。 「騒がしくして申し訳ありません。はしゃぎすぎてしまいました」  ニケが頭を下げているのに、自分が棒立ちしているわけにはいかない。後を追うようにフリーも低頭する。 「すみません! 俺がふざけたんです。俺を殴ってください」  素直に謝る二人に、神使はホッとしたように人差し指で頬を掻く。 「ああ、そうなんだ。お祭りを楽しんでくれているのは、嬉しいよ。でもここは神楽殿の近くだから……。うちの巫女たち、ほら、人気があるから。ここで騒ぎを起こすとすぐに通報されちゃうよ。ほどほどにね? あと――殴らないからそろそろ頭上げてもらえるかな?」  言われた通りにすると、紫の目はほぼ同じ高さにあった。  おおっとフリーは少し感動する。  ――首を下に向けずに会話出来るなんて。  ニケとリーンが聞けば助走をつけて殴ってきそうなことで、さわやかに喜ぶ。 「ところで、うちの巫女たちっていうのは、どういう……?」  彼女たちのお兄さんかなにかだろうか。種族は違うけれど、養子とかで兄妹(姉弟?)になった可能性も否定できない。というか、彼女たちの身内だなんて、羨ましいにもほどがある。毎日あの埋もれるようなモフモフ×3に囲まれているということになる。歯を喰いしばりすぎて歯ぐきから血が出そうだった。  この言葉に、神使の青年ではなく周囲がどよめいた。誰もが知っている有名人に「貴方誰?」と言った人に向ける反応に近い。  言われた本人は恥じたように苦笑する。 「……失礼。自分の紹介は不要だと、自惚れていたようだ。今後、自重しよう。私は神使のアキチカ。我が神、染紅大河乃秋神(そめべにたいがのあきがみ)に仕えている者だ」  フリーの顔が福笑いのように崩れた。  ――やばい。名前以外何も分からない。  こんなにも丁寧に自己紹介してくれたというのに、フリーの頭には「?」しか浮かばない。  神使って何! 染紅なんとかって何! 誰か、誰か辞書を下さい!  引きつった笑みのまま頭からぼたぼたと冷や汗を流すフリーに、ニケとリーンは悟り切った顔で付け加える。 「染紅大河乃秋神は豊穣の女神の名だ」  と、ニケ。 「んで、神使は文字通り神の使いだ。加えてこのお方は神楽を教えているヒトでもある」  と、リーン。 「ありがとう、ふたりとも」  ぱああと、無邪気に喜ぶ。分からないことがすぐに説明されるって、いいよね。  そこでリーンは「そういえば」と、アキチカに目を向ける。 「今年は、人長(じんちょう)舞いをなさらないんですか?」  「人長舞い」は人長一人が舞うもので、神々しい舞いということで尊重されてきた。特に彼はマジモンの神の使いということもあり、舞を見ただけで得られる御利益が計り知れない。別に彼は神のために舞っているのであって、見物人のためではないが、それでも「おこぼれ」には預かれる。  現にそれ目当てでやってきたヒト(主に百姓)が、なかなか帰ろうとしない。  だから通報されたのだろうけども。  アキチカはのんきに手をポンと叩く。 「ああ、そうそう。人長舞いは、今日は中止になった旨を伝えにきたんだった」  祭りは二日に渡って開催される。  つまり人長舞いは明日――最終日のみ観られる、と変更になったようだ。理由は分からないが。 「「「な、なんだって?」」」  それを聞いて、愕然としたのは周囲だった。  信じられないといった面持ちで、野次馬の一人がよろよろとアキチカに歩み寄る。だが、絶対に触れようとはしない。  ぺこりと一礼して話し出す。 「ど、どうしてですか。アキチカ様ぁ。わしらは今日を待ち望んでたってのに」 「そうっすよ。それとも、なにかありましたか? ま、まさか神が怒っておられるというので……っ?」  慄く参拝客に、アキチカは照れたように自分の角をこつんと叩く。 「いやあ、なに。実は昨日の夜ね~。お酒飲めないのに、水と間違って飲んじゃって。朝まで吐いていたんだよねぇ。もちろん絶不調でも今日は舞う予定だったんだけどぉ~……、キミカゲさんに膝蹴りされた挙句、我が神にまで「やめとけ」って言われちゃって」  周囲が静まり返る。  静寂の静霊は無表情だ。  ニケとリーンも、フリーを見るような目を神使に向ける。  よく見れば、彼は頭をふらふらさせている。角が重い、とかではなく。手も少々震えている。コンディションは最悪、といった具合か。そりゃ神も薬師も止めるだろう。 「いやぁ、我が神の方からお言葉をいただけたのは初めてだよ。感動した」  彼は両手を広げ、恍惚とした表情で天を仰ぐ。いつもは神使の方から声をかけ、神からお言葉を頂戴するのだ。  たとえ一言でも彼にとっては嬉しいことらしい。  今日のリーン火傷事件も含め、豊穣の神は呆れっぱなしだったことだろう。見捨てられていないといいな。  百姓の方たちは一様に肩を落とすが、神が中止したというのに「やれ」と頼み込む度胸はないようだ。  「明日には元気になってくださいよ」や「お見舞いの品でも、今度届けます」など声をかけ、とぼとぼと帰っていく。 「あ、見つけた」 「先生っ……じゃない。アキチカ様!」  声がする方を向けば、なんとあの双子巫女が駆けてくるではないか。  一気に華やぐ空間。帰ろうとしていた者たちの足が、根が生えたように動かなくなる。  リーンも実に興奮した様子で「ほ、本物。本物!」と、白い着物を掴んで前後にゆすぶっている。いや、ずっと本物だっただろうに。

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