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第64話 蜘蛛男
フリーは死ぬなら今が良いと、本気で思った。
「うおおおおおぉぉっ!」
歓喜を叫んでいる。無人島に流されて十八年、ようやく救助が来たひとのように。膝立ちになり両拳を突き上げ叫び続ける。神楽見終わったリーンのようだ。
言ってしまえばただ叫んでいるだけ、なのだが普段穏やかな人が叫んでいるのは正直、ヒスイの髑髏の怪しい光を見た時以上に怖い。言い知れぬなにかが背筋を冷やす。
「……」
亀のように布団に頭をすっと引っ込めた幼児を見て、フリーは我に返った。
「ああ。ごめん! 待って引かないで!」
「引くわ。なんだお前さん」
「だ、だって。ずっと小さくてかわいいなぁとか、犬耳FOOOO! とか、触りたいな~やわらかいんだろうな~ぐへへェと思っていたほっぺに! つ、ついに本人の許可付きで触れたんだよ? 叫ぶでしょ? えへへっ」
なんだか早まった気がした。
あれ? フリーってこんなやつだったっけ? というのがまず浮かんだ疑問だった。人格変わってないか。それともこれが本性だというのか。
「あのっ。もっとぷにらせて! あ、摘まんでみてもいい? はあはあ! はあはあはあっ!」
息が荒いのが怖い……。
引きすぎて翁の布団の上まで後退していくニケを、強烈な笑顔のフリーが這って追いかける。昔読んだ怪談小説「蜘蛛女」に、こんなのが出てきた気がする。子どもにはまだ早いと言われていた祖父の書物をこっそり読んだのだが、あれは怖かった。夜中、しばらく一人では庭にも出られなかったほどだ。
「……っ」
それと目の前の生き物が重なり、久しぶりに恐怖を感じたニケが叫ぶ。
「ち、近寄るな!」
「ぎゃあ! 嘘でしょ。せっかく上がった好感度が地に落ちた気がする……っ。でもめげない! せっかく合法的に触れる幼子ほっぺに出会えたんだ。絶対に逃がさない!」
最後の言葉は蜘蛛女も主人公に向けて言っていたな。この恨みは忘れない。絶対に逃がすものか、と。いかん。脳が現実逃避をしている。
なんてこった。こやつは妖怪蜘蛛女だったか。
近寄るなと言ったのに、しゃかしゃかと距離を詰めてくる。普段何気なく星のようだなと思っていた目が見開かれており、すごく怖い! 目が怖い!
どん。
「ひいっ?」
後ろを向く。ついに壁に足が当たった。これ以上は下がれない。
布団にくるまれた身体がカタカタと震える。逃げられない。逃げ場がない。
絶望する幼子に、化け物は容赦なく躍りかかった。
「ニイィケエエエエェェ!」
「わああああああんっ! おきにゃ(翁)あああああ!」
今思い出しても、怖い。漏らすかと思った。心細さから大人の名を叫ぶもここには蜘蛛男だけ。戦慄の二人きりである。ニケのものとは思えない頼りない悲鳴がくすりばこに響く。
クワガタのように広げた両腕に、布団ごと抱きしめられる。
「ばぎゅっ」
変な声が出た。そのままの勢いで押し倒される。
だが重みは感じなかった。土下座に近い姿勢でぎゅうぎゅうと抱きしめているだけ、である。
「むぎゅう」
ちょっと苦しかったが不思議と気持ちは落ち着いていた。あれだけの恐怖を感じたのに、抱きしめられると霧が晴れるように怖くなくなった。
……なんで怖がっていたんだろうか? フリーなのに。……いややっぱあれは怖いわ。
フリーの白髪が顔に落ちてきてくすぐったい。飯を食うようになった白い肩は姉のものより逞しく、なんだか、ふと、父親に抱きしめられたことを思い出した。
父ちゃん……。
こんな化け物と尊敬する父を一緒にするなど不敬だったが、どうしてか重なってしまう。
「むぅ……」
最後に、父に抱きしめられたのはいつだっただろうか。いつも笑顔で抱き上げてくれた。まばゆい光景。
そう思うと途端に心地よくなり、眠気が押し寄せてくる。
うっすらと目を細める。
「ニケえええ。可愛いよ。可愛いよおお~。ふああああ、あったかい! すごくあったかい。やわらかいかわいいいい~。髪の毛やわかい(やわらかい)いいいぃ~!」
眠気が引っ込んだ。声がうるさい。
「もっちもちしてるうううっ。あはっ、あはあは、あはっ!」
頬ずりまでされ、ニケの目が据わる。
フリーの頬はすべすべしていて文句はないが、いつまでも簀巻きにされているのは我慢ならない。ニケだって抱きしめ返したい。
これならフリーはどこにも行かない気がする。
そう思えると、驚くほど胸のつっかえが取れた。ずっとニケのことだけ見ているといい。
頭を引っ込めると、その倍以上の速度でもう一度突き出した。
不審者撃退案二十一・その六のニケ頭突きである。
「ほぐっ?」
黒き脳天が顎に命中する。顔を跳ね上げられ、フリーはニケを離して横に転がった。
チーンという幻聴とともに動かなくなる。
「ふう。やれやれ」
自身を封じていた布団をぺいっとはがし、軽くストレッチしてからフリーに向き直る。
「おい。もういいぞ」
さぁ、もう一回抱っこするのだ。早く早く、と言いたげに白い背中を蹴るが、うんともすんとも言わない。もう寝やがったのか。
「なんだよ! 自分だけ満足したらそれでいいってか」
悔し気に地団太を踏むも、返事はない。
「むうーっ」
頬を膨らませると、背後で急に扉が開いた。完全に油断していたニケは飛び上がる。
「あれれ? まだ起きていたのかい? 夜更かしは……」
穏やかな声。
顔を出したのは、家主のキミカゲだった。心のどこかでキミカゲだろうと分かってはいたが、やはり驚いてしまう。
天井付近まで跳んだニケが、どすんと白い背に着地する。
「お、翁。神使殿を追いかけていたのでは?」
おじいちゃんの口元がひくっと引きつる。
「あの子なら心配いらないさ。明日は神楽やるって息巻いていたし」
付け足すように小声で「薬、口にねじ込んできたし」と聞こえたが、聞こえなかったことにした。翁の白衣はうっすらと汚れ、森の木の葉や枝がついている。もしかしてあれからずっと鬼ごっこしていたのか。目線を落とすと、おじいちゃんの足ががくがく震えている。お年なのに無理するから……。
その場(フリーの上)でニケは、ちょこんと正座した。
「お疲れ様です。お茶でも、淹れましょうか?」
キミカゲは少し悩むが、首を振った。
「いや。明日の用意をして、もう寝るよ。ニケ君も寝なさい」
「はい」
「うん。良い子だ」
なぜかボサついている黒髪を整えるように撫で、キミカゲは水を飲みに炊事場へ向かう。
水甕の蓋を開けると、水面に揺れる月が映った。
「おや、風流だねぇ」
柄杓で掬い、のどを潤す。夏場の水は生ぬるかったが、底に水晶を沈めているので、水が腐ることはない。この水晶は薬のお礼にと、まだ小さかったアキチカがくれたものだ。神の力を込めたので、水が痛みませんと言って、手渡してくれた。……昔は可愛かったなぁ。
私室へ行く前に足を、患者を寝かせておく部屋へと向ける。今ではすっかりニケたちの部屋となってしまったが。
ニケがちゃんと寝たか、確認するためだ。
そっと戸を開け、口元を緩めた。
「おやおや。仲の良いこと」
小さな犬耳は、白い腕の中で心地よさそうに眠っていた。フリーも、心なしか幸せそうな表情を浮かべている。……部屋のど真ん中で寝ているのはこの際良いとして、ニケ用の掛け布団が翁の布団の足元にあり、敷布団までくっしゃくしゃなのはどうして?
枕投げ大会でもしていたのか。それは見学したかった。
眉尻を下げ、息をつく。
「まあ、いいか」
子どもは元気が有り余っているものだ。近所迷惑になるほど騒ぐならともかく、部屋を荒らすくらいは可愛いものだ。
まさか蜘蛛男が這いまわっていたなど思いもしない翁は、起こさぬようそっと戸を閉めるのだった。
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