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第79話 変化
恐ろしいことを言い放ち、鬼は折れている腕を掴む。
このままだと腕をねじ切られてしまうだろう。
だというのに、フリーは脱力したまま動かなかった。
もういいや、とすら思ってしまっていた。
――ニケと先輩は逃げ切れたんだし。自分はもういいや。
心の停滞だった。
(懐かしいな……)
ニケと出会う前。村にいた頃、自分はいつもこんな風だった。辛いことも痛いことも、みんな考えないようにすれば少しは楽になる。
心残りがあるとするなら、もう一度「あの子」に会いたかった。
――?
なんて言っていたかはもう覚えていないが、檻の中の自分に話しかけてくれた、見慣れない子。村にたまたま訪れた旅人の連れ子だったのだと、あとから知った。
ほんの一日だけだったけれど、たくさん話をしてくれた。他愛もない内容だったが、檻の中が世界だったフリーにとっては、旅人の子の話は未知でいっぱいだった。
あの村での、唯一色の付いた記憶。
どこかニケに似ているのだ。年も背に生えた羽も違うのに。黒髪だったからだろうか。
ニケにあれほど固執したのは、その子と重ねていたのだろう。幼い子が好きなのも、あの子の影響があるかもしれない。初めて光をくれたヒトが、記憶の中ではいつまでも子どものままだから。
左腕から、ミヂミヂと嫌な音が聞こえる。幸せな記憶に浸っているのに、邪魔しないでほしい。
薄目を開けると、気づいた鬼が笑う。
「ところでこの刀、なんという名前なのだ? 我の角と同じ黒い所が気に入ったぞ。神の力という点は少々気に食わぬが」
「……」
「ん? ああ、案ずるな。寂しくないよう、あとで犬耳と、用済みになった小僧もあの世へ送ってやる。仲良くするがいい」
思考が止まった。
――え?
「な……」
「ん?」
「なん、で?」
ニケまで? 関係ないじゃないか。それに先輩もいじめないでよ。
と言いたいのに唇が震えるだけで声にならない。
ミヂミヂ。
腕から血が噴き出す。
鬼は構わず続ける。
「星影の小僧は……目の前で誰かを痛めつけてやれば、剣を造るだろう。あの犬の小僧は、毛並みが黒というところが気に入った。毛皮を剥いで我の手袋にでもしてやろう」
金緑の瞳が凍りつく。
「やめ、て……よ」
「ふっ。笑わせるな弱者が。まあ、もう貴様には関係ない話か」
呼吸が止まる。
「貴様はここで死ぬのだからな」
フリーは初めて、「誰かを守る」という意味を理解する。自分はバリケードなのだ。ニケたちを守る、壁である。その自分が動けなくなったり死んだりしたら、後ろにいたヒトはどうなる?
自分の命に執着がなかった。誰かの命令を聞くだけの日々。相手が死のうが命令主が死のうが自分が死のうが、心底どうでもよかった。生きる理由もなく、生きる意味もない。
そんなフリーが、初めて生に執着した。しがみついた。離してたまるものか。
自分が死ねば、誰がニケを守るのだ――
目の前が、真っ赤になった。
「ん?」
あと少しで左腕を千切り取れるというところで、
遠くの空で、ゴロゴロと重たい雷鳴が聞こえた。
空が急速に曇っていく。発生した背の高い雷雲はやがて紅葉街の空を完全に覆いつくし、不気味に渦を巻き始める。
鬼は空を見上げたまま眉をひそめる。
似たような現象を起こす種族はいる。花霊(はなたま)族の怒りを森で買うと、森全体が意志を持ったかのように襲い掛かってくるという。さすがにこれは鬼とはいえ圧し潰されてしまうだろうが、それは魔九来来(まくらら)などではなく華霊族が森に、植物に愛されているが故の現象だ。
では、これは?
太陽の表面温度を優に超える、龍にも見える光が雷雲を縫うように泳ぎ、地上では冥(くら)い風が吹く。
頬に、一筋の汗が伝う。
鬼である我の、動きが止まる?
これはなんだ? この感情は――
やがて伸びてきた手が、鬼の身体を優しく押しのける。「起き上がるからちょっとどいて」そんな気楽な感じに。
あり得ない話だが、鬼男はすんなりどけた。両手はかすかに震えている。
これは、この感情は、
(恐怖?)
信じられない思いでよろめくように下がると、フリーはふらりと起き上がった。幽鬼の如き動きで。
死にかけていたはずだ。血だって流れ続けている。
ふんわりした空気を纏っていたのに、もはやどこにもない。
そしてどうしたのか、鬼の存在など忘れたように頭を、髪を掻きむしっている。
「うあああああああ! ああっあああ!」
血を吐くような叫びだった。
許せない。許せない。許さない……!
自分が死のうが、世界中の誰が死のうが構わない!
ニケは、ニケだけは。俺を生き物として、「人」として扱ってくれたニケだけは。
箸の使い方が下手な自分を見て、苦笑するニケの顔。ずっと見ていたい。
あの至高の頬をもっと堪能したい。
ていうか、犬耳にまだ触っていない……っ⁉(今気づいた)
(力がいる)
この鬼の言う通りだ。弱くては駄目。
レナさんの助言通りに、のんびり強くなろうと思った。駄目だ! それでは遅すぎる。
今、俺にあるものはなんだ……! 使える物を探せ!
「うあっ、うあああああああああ!」
咆哮。
壊れそうだった。ニケが死んでしまう。それを考えただけで。脳が軋む。焼け付くように痛い。早く。早く探せ。
「……っ」
鬼は絶句した。
白い小僧が、変わっていく。
根元から毛先へ。髪が黒に塗りつぶされていく。星のように美しい瞳も。
艶のない黒へ。
何かが目覚める寸前の気配。
「嘘、だ……」
鬼が呟く。
「なんだ」
爪を引っ込め、拳をぎゅっと握る。
「何だ貴様はああああぁ!」
視界に移る、曇天色の手甲。
見つけた。
「応えろ――呼雷針!」
ドクンと、手甲が脈打つ。
十八年。目的も信念もなく、適当に振り回されていた刀。それを、それが今。ようやく、使い手から――心から求められた。
応えるように、歓喜するかのように呼雷針が震える。
招く。その名の通りに、呼び招く。
天を割き、雲を貫き、雷がフリーに落ちる。
恐ろしいまでの黒い輝き。
しかし、目を背けずにはいられないほどの眩さ。
立ち上る砂埃を、一陣の風が払う。
耳鳴りを無視し、鬼は目を見開く。
風になびく黒い髪、黒い瞳。目から涙のように血を流し、肌だけが抜けるように白く、身につけた衣も墨色に染まっている。
黒い人。
まさにそう表現する他ない。別人がそこにいた。
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