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第80話 渦巻く不安

 どこかの空き家。  荷物(仲間)を下ろした頭(かしら)は追手がないことを確認し、扉を閉める。 (しっかし……。なんだこりゃ)  彼が蛇でなかったら、冷や汗を拭っていただろう。さっきから警鐘が鳴りっぱなしで、背筋が冷たくてたまらない。  星影は惜しかったが、さっさとあの場を離れて正解だった。  空を見上げて、彼は忌々しげに舌打ちする。  羽梨(はねなし)神社。辺りがいっそう暗くなり、境内がざわつく。祭りを楽しむ声はなく、人々は不安に駆られていた。親はさっと我が子を抱きしめる。  先ほどから、何かがおかしい。生ぬるい風は亡者の叫び声のような音を出し、上空は稲光を伴った雲が渦を巻く。  この世の終わりのような光景。  ――ぽつ。ぽつ。  化け物の誕生に怯えているのか、空が泣き始める。  その全てが目に入っていないかのように、ニケはキミカゲを探し回っていた。 (翁! ……くっそ。こういう時厄介だなあのヒトっ)  自慢の嗅覚聴覚が、意味をなさない。神社に着いて真っ先に休憩所に飛び込んだのだが、彼の姿はあいにくなかった。  近くにいたヒトに尋ねると、キミカゲは数分前境内の見回りに行ってしまったとか。 (ああもうっ、なんでこんな苛々するんだ)  キミカゲに腹を立てているのではない。なんだか先ほどから――あり得ないことだが――フリーが助けを求めている気がしてならないのだ。 (あやつが? もしや苦戦しているのか? そんな馬鹿な)  相手は鬼だ。単純な殴り合いなら、敵う者はいないであろう種族。殿堂入りしている竜は除くが。それなのに強者を求め、勝負を吹っかけてくる迷惑な生き物。  それでもフリーなら大丈夫だという思いが抜けない。相反する二つの思いが混ざり合うから、イラつくのだ。  このときのニケは、フリーは大丈夫だと思い込まなければ、立っていられなかったのだろう。  焦りが気を逸らさせる。不安と焦燥が理性を麻酔させ、ニケの五感をさらに鈍らせる。すぐそばをキミカゲが通りかかったことに、気づかないほど。  翁を探して走り出す。神社の奥へと。  異変を感じつつなんとか神楽を舞いきった双子巫女は、ざわつく観客に本殿へ避難するように告げると、即座にアキチカの元へダッシュした。  彼を盾にするように背後に隠れる。 「先生ぇ~。なんでしょうかあの雲」  怯えた声を出し、マチルダは足元にきた末っ子を抱きあげる。  姉はそんな妹を抱きしめ、優しく髪を撫でた。 「神の怒り、ですかね~? 先生、何をやらかしたんです? 早く土下座決めて鎮めてきてください。怖いですー」 「待って。なんで僕がやらかした前提なの? これは……」  この日のために厳選した榊の枝を持ったアキチカが、黒い雲を見上げる。  アキチカの着替えをいつものように手伝おうと、双子巫女の姉、スイーニーが着物を畳もうとしたが、妹の腕が離れなかった。 「およ~?」  下を見るとマチルダが「怖い。離れん」と言わんばかりにしがみつき、胸に顔を埋めている。末っ子にいたっては親指を銜えて熟睡中。  長女は仕方なく、妹ズをよしよしと撫でまくる。 「だってー。先生ってヒトを怒らせる天才じゃないですかぁ。キミカゲ様しかり、どこかの竜さんしかり。常に誰かの血管切れさせて~。仕える神様、間違っていません? 煽りの神にでも仕えてどうぞ~」 「なんてこと言うのこの子!」  教え子に言い返すも迫力もなにもなく、紫の目には涙をいっぱい貯めている。  ぐすんと鼻をすすり、アキチカは人差し指を立てる。 「あれはキミカゲさんとオキンさんが怒りっぽいだけであって……、僕のせいじゃありません。断じて」  双子は顔を見合わせると、はぁ~とため息をついた。 「はいはい。そういうことにしておきます」 「ていうか先生。また一人称が「僕」になっていますよー」 「おっと」  榊の枝で口元を隠す。  一人称矯正中だというのに、またやってしまった。でもつい忘れちゃうんだよねえ。  それを微笑まし気に眺めていた水色袴の中年の背後で、声かけもなく扉が開かれた。  ばんっ。 「え? き、君! ここは立ち入り禁止だぞ」 「すいません。邪魔します!」  揃って声のした方に目を向けると、夜空柄の着物の少年が飛び込んできたところだった。  見覚えしかない少年だ。  アキチカは教え子たちを庇うように前に出る。  ……そんなアキチカ守るように、双子巫女が侵入者に立ちはだかる。 「あれぇ? 君たち?」  後ろで情けない声を出す神使を無視して、最小狐姉妹は少年を睨む。 「なんですか、貴方」 「迷子ですかー?」 「ぐああああっ。眩しい!」  少年は眼前に太陽でも出現したかのように、目を庇って腕を眼前で交差させる。 「ぐっ……。目がやられるかと思った」  侵入者の少年――リーンはごしごしと目を擦ると、ポカーンとする双子巫女に尋ねる。 「あのっ、アキチカ様おられますか? 緊急事態で――あっ、居た」  訊ねるまでもなかった。双子巫女が壁になろうと、小柄な彼女たちでは長身の男性は隠せない。  リーンは巫女の横をダッシュですり抜けると、一瞬躊躇したのち、アキチカの手を取って反対側の出口へ駆け出した。 「え? うそっ、速い」 「ちょっとぉ。そのヒト誘拐してもいいことなにも、ありませんよー? 神使である以外に、取り柄とかない方なんですからー」 「スイーニー? ちょっと後で話がある!」  引きずられながらも指差しながら教え子に怒鳴る。 「おのれっ」  水色袴が護身用の薙刀を手にするが、アキチカに目で制された。薙刀を構えた腕がビクッと止まる。 「アキチカ様っ?」 「すぐ戻るから。君はマチルダたちの側にいておくれ」  それだけ告げると、むしろリーンを抱えて走り出した。 「え?」  逞しい腕で荷物のように小脇に抱えられる。 「君、足怪我しているだろう? それで? 緊急ってなんだい?」 「あ? え? ああ、えっと……。ちょっと友人がピンチで――キミカゲ様も探していまして」 「そうか、そうか。治安維持隊じゃなくて私の方にくるってことは、まあそういうことなんだろうね」  予想外の事態に、リーンの方が困惑した。説得するのに時間がかかるだろうと踏んでいたのに、アキチカの状況判断の早さに驚愕する。 「でもごめんね? ちょっと寄り道するよ」 「え?」  人混みを縫うように駆け、手水舎の屋根に飛び上がる。そしてまた屋根から屋根へ移っていく。雨でぬれた瓦の上を、危なげなく走る。少年一人を抱え、頭に重そうな角を生やしているとは思えない、軽快な動き。 (すっげ)  目を白黒させるリーンは、舌を噛まないよう唇を真横に結ぶ。  やがてアキチカは団子の香りのする傘の上に降り立った。ズッと、重みで傘が二センチほど沈む。団子を売っているおやじは驚いて上を見た。  この広場は一番人でごった返している。だが声も上げていないのにちらほらと、アキチカに気づく人が現れる。まるで長い洞窟をさ迷った末に、差し込む太陽の光を見つけたかのように。 「おおっ。アキチカ様じゃ」 「神使様」 「こ、この雲はいったい……?」  神使はそれらを見回し、すうっと息を吸い込む。 「みな、大丈夫だ。でも一応、本殿へ避難し、家が近いものは帰りたまえ。それと――誰かキミカゲさんを見なかったかな?」  不安げに顔を見合わせる人々。やがて我先にと押し合いへし合い――をすることはない。ゆるやかに本殿へと移動し始めるヒトの流れが出来上がる。  アキチカの目は神の瞳。彼の視界を通して、神が地上を見ておられるということだ。彼の前で不義をするということは、神様の前でやらかすのと同義である。  その中の数人が、傘の下へ駆けてくる。 「あ、あの。キミカゲ様なら、鳥居の近くで見かけましたけど……」 「お、俺も」 「わしもですじゃ」  ありがたい情報だったが、彼らの目は「キミカゲ様が彼を探しているならともかく、アキチカ様が彼を探すなんて……」と言いたげだった。がくっと膝がよろける。  ――私だって用がないなら、あってもキミカゲさんに会いたくないよ。 「あ、ありがとう。君たちも本殿へ行きなさい。宮司さんもうちの双子巫女もいるから、その指示に従うように」 「「「は、はいっ」」」  にこっと微笑むと、アキチカはその場から跳び去った。

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