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有罪 69
普段、店で使っているものより幾分も低い声はわずかな怒気を孕んでいるように思う。
「や くるし 」
「今、すごい顔してるぞ」
「ぇ、あ……な、なに 」
何を言い出すのかと思うよりも前に、こんなところでぎゅうぎゅうに抱きしめられてることに気が行ってしまって、恭司の腕の中から逃げようともがく。
「ケイ!」
ハッとするほど真剣な声を出されて跳ねるように体の動きが止まった。
「俺の言葉をよく聞いて」
頷こうとしたけれど、こんなマンションのエントランスの真ん中で抱きしめられているわけにはいかないから、そのことだけは譲れないと言うと扉をくぐった先にある観葉植物の陰に引っ張られていく。
「こ、ここまでしてもらってて……今更なのはよくわかってるんだ。でも、引き返すなら今だし……今なら、二人の結婚おめでとうって言葉だけで終われるから……」
「さっきも言ったけど、ケイの顔はそれを理解はしてても納得はしてないって表情をしてる」
黒いビー玉のように艶のある恭司の目は、覗き込んでいると吸い込まれてしまうんじゃないかなって気分にさせられる。
だから、さっと目を逸らして首を振った。
「自分を通すばっかりが……愛情じゃないかなって」
どこかの本で読んだようなセリフを思い出して言ってみるけれど、それで恭司の意識が逸れてくれるわけじゃなかった。
「……俺は、こうやってやっとケイって呼べるようになって、幸せだ」
「な……なに、いきなり」
「この呼び方は恋人にしか許さなかっただろ?」
面接が通って、お店でなんて呼ぼうかと話し合った時に、オレは「ケイは恋人にしか呼ばせてないんです」なんてはっきり言って、場をしらけさせてしまっていた。
当時、恋人と言う特別な存在にオレがしてあげられることって本当に何もなくて、じゃあせめて恋人だけが呼ぶ呼び方を……と言う話だ。
「俺はずっとこの呼び方で呼びたかった」
「そん っ」
恭司の体は趣味でサーフィンを始めとするアウトドアなためか、オレを抱きしめる腕は堅牢でオレを離す気はないと言外に伝えてくる。
「ずっと、愛してたんだ」
こんな熱い言葉で真っ直ぐに告げられて……以前のオレならあっさり恭司のことを好きになれたと思う。
バイト先の店長だけど偉ぶらないし、言葉は柔らかいし、いろいろなことを教えてくれるし、何よりきめ細やかに人を見て、その人に必要なものが何かをよく考えることのできる人だし。
尊敬に値する人だ。
素直にそう思える人は珍しい。
だからこそ余計に、そんな人に告白されて戸惑っていると言うのもあって……
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