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有罪 75
都合のいい話だな と黒い胸の内が囁く。
結婚にあたって、どう片をつけようかと思っていた男の恋人と付き合っていた期間の記憶を失う なんて。
「……」
左手に走る酷い傷跡を指先でなぞると、ぴりぴりとした痛みが走る。
「ちょうどよかったじゃないですか、事故に遭って」
「 は?」
「事故に遭って、その期間の記憶を失ったって言っておけばいいんですから」
「圭吾くん⁉ 私の記憶喪失は医者にも診てもらっているし、その期間の仕事のことではいろいろな人に迷惑をかけている状態だ。今日だって、本来は仕事なのを養生するようにと休ませてもらっている。その間周りに迷惑がかかっているんだ、決して詐病でしたではすまされない」
わずかな苛立ち? 怒り? を含んだ声は諭そうとしている言葉を刺々しく変える。
それはオレの言った言葉がアキヨシにとってどれほど侮辱的だったかを物語ったのと同時に、オレにそわりとしたものを植え付けていく。
「……じゃあ、その間に会った人の、ことは?」
「 ────」
アキヨシの方を見ることができなくて、テーブルに並ぶピザの箱に視線を落として尋ねる。
社会人が仕事でも私生活でも出会う人は多いだろうと言うことは知っているけれど、その上でオレとの出会いをわずかでも……覚えてはいないのだろうか?
ほんのわずかな、期待が、膨らむ。
「あー……実はあまり。名刺をもらっていたら、それを手掛かりに会うこともできたんだけど、携帯電話も壊れてしまったし……そう言った人の記憶は、わからないな」
「……」
時折溜息を交えながら苦笑で語られる言葉は、オレのことを覚えていないんだと言っているものだ。
「そう ですか」
「思い出したいんだけどね、ままならなくて。ただ……ただ……」
落ちて来た沈黙に疑問を持ってそろりと顔を上げると、まっすぐな瞳がオレを見下ろしていた。
綺麗な黒い、何も邪なものが混じっていないその目は、オレのすべてを見透かしそうだ。
アキヨシに腹いせしてやりたかったことも、未だに未練があることも……
「君とよく似た人に出会った気がする」
「え……」
「でも印象が違うし……多分、佑衣子さんだと思うんだけどね」
そう言うとはは と乾いたような笑いを零す。
「大切にしたいって、気持ちは残ってるから」
ぞっと胸の内が冷えるような気がしたのはどうしてだろう?
震える指先でぎゅっと黒くしたままの髪を握り締めて、崩れ落ちないように必死になって足を踏ん張る。
「そう言うわけで、君からしてみると西宮とは名ばかりの自分だけれど、佑衣子さんを大事にしようと思う気持ちに嘘はないから、安心してもらえたら嬉しい」
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