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第39話 ケア

 ―ーはずだった。 「待て! わたっ、何が、なんだ! 何が言いたいんだお前たちっ」 「……?」  なにか、晶利の声が階段の方から聞こえた気がした。それどころか、宿の一階が騒がしいような……  そっと頭を上げると、誰かが部屋に飛び込んできた。ビクッと肩が跳ねる。  文字通り飛んできた。突き飛ばされたとかそんな可愛いものではなく、放り投げられたように。扉が壊れなかったのが奇跡なほど。  背の高い人物は反対側の壁にぶつかると、それでも比較的身軽に起き上がった。 「いっ……てててて。荷物まで、あと一歩だったのに……」  聞き覚えしかない穏やかな声。痛そうに頭を摩っている。 「……晶利?」 「詩蓮? おま、お前何かやったのか?」 「え?」  扉を見ると木の根らしきものが引っ込んでいくところだった。律儀に扉を閉めていく。 「兄弟たち?」 「急に植物たちが巻き付いてきて、ここに強制送還されたぞ? 何か俺、忘れ物でも……詩蓮? 泣いていたのか?」  言われて、ハッとなった。すぐに顔を背け袖で目元を拭うが、 「……ううっ、うう。ぅえええ……」  視界が滲み、ぼろぼろと涙は流れていく。  晶利はぎょっとして駆け寄ってきた。 「ど、どうした? どこか痛むか? 俺か? 俺のせいか?」  そっと肩に手を添えると、大げさなほど手で弾かれた。 「いて」 「あ……」  詩蓮の方が驚いた顔をしている。 「す、すま……ん。う、うえええぇっ」 「……? ……」  何もないと分かっているのに落ち着きなく周囲を見回す。なにが起こったんだ。どうして泣いているんだ。こういう場合、どうすれば。 「――……」  何もできないのであきらめて、ベッドの脇に腰を下ろす。側にいてやる。 (もしかして、詩蓮が泣いていたから? 植物たちが心配したのか?)  敵に回すと恐ろしいが彼らは基本、慈悲深い。  しばし何も言わず、背中でしゃくりあげる声を聞く。 「……」 「うああああああ! いやだあああああぁっ」  やがて感情が溢れ出して止められなくなったのか、少年は狂ったように暴れ出す。  枕を投げ、シーツを引き裂き、壁を殴る。  晶利も背中や頭をどかどか殴り蹴られたが、その場から動かなかった。  少年の叫びは宿中に響いているだろうに、誰も不審に思い様子を見に来ない。おそらく急に押し寄せてきた植物の洪水に、それどころではないのだろう。植物たちもわざと宿に残っているのではなくすぐに引っ込もうとしているのだけれど、枝葉ががっがっと扉に引っかかり「うおおおおっ。出れない」と出入り口で詰まっている状態だった。  どのくらい経っただろう。  泣き疲れたのか、少年はベッドの上で倒れ込む。 「……はあ……うっ……ずずっ」  壁に叩きつけた手足には血が滲んでいたが、瞬く間に塞がっていく。痛みも消える。  首飾りから手を離し、晶利は静かに立ち上がった。 「詩蓮。なにがあったのか無理には聞かないが……。話せるようになったら話してくれ」  隣のベッドに移り、部屋の惨状にため息をつく。 「……たんだ」 「え?」  詩蓮が何か言ったような気がして、素早くボロボロのベッドに近づき耳を寄せる。 「あの魔物に……触られたんだ……」 「だ、大丈夫だ。あいつはもういない。そんなに怯えなくとも大丈――」 「あいつの巣の中で……捕まっていた人たちに……、れた」 「?」  少年は顔をシーツに伏せる。 「犯さ、れた……」 「…………」  何を言われたのか理解できなかった。  おか……された? 詩蓮が? 魔物ではなく? 人間に?  捕らわれた人がすべて善人とは限らない。そんな中に、見目が良い少年を放り込めばどうなるか。  さーっと音がするほど血の気が引く。指先が震えている。  そういえば、助け出されたというのに彼らはよそよそしかった。あの時は怖い思いをしたんだろうと思っていたが。詩蓮もなぜか裸だった。てっきり魔物に装備品を奪われたんだと…… 「…………そんな」  茶色の瞳が凍りつく。忘れていた。忘れていたかった。思い出したくなかった。人間の――醜悪さを。滑稽さを。残忍さを。どこまでも残酷になれるその心を。  硬直が解けると、沸き起こってきたのは苛烈な怒りだった。  だが――  しつこいほど晶利は深呼吸する。噴火しそうな怒りを、何とか押し殺す。瞳の奥に灯った金の光も消える。 「それなのに、彼らを守ったのか?」  それでも不機嫌そうな声が出てしまうが、少年の頭はこくんと頷く。 「どうして? 見殺しにしても、良かったんだぞ?」  ふうふると首を振る。 「力が……ある者の責務だって。師匠が。……お前は強いんだから、村を、戦えない……ずっ、人を守ってやれって……」  師の言葉か。どんな御仁だったんだろう。会ってみたかった。 「よかった……」 「え?」  ばっと顔を上げる。良かったって? 「晶利が良かった……」 「し、れん」 「初めては、晶利がよがっだのにいいぃ……」  もう泣きたくないのに。痛いほど熱くなった眼球から涙が止まらない。  ボロボロこぼれる透明な涙を見て呆然とする。  そんなに嫌なのに、苦しいのに我慢して、顔に出さず、拉致された一般人のために頑張ったのか。  ――逃げなかったんだな。  そう思うと心の奥が、ほんの少しだけれど熱くなる。  泣きじゃくる子どもの腕を掴んで仰向けにすると、その唇に唇を押しつけた。 「!」  突然の事態に、詩蓮の思考は真っ白になる。あれだけ考えるなと言っても空にならなかったのに。  内に舌が差し込まれ歯の裏を舐られる。ぴくっと腕が跳ねる。あたたかい唾液を注ぎ込まれ、またある時は逆に啜り取られる。舌に晶利の分厚い舌が絡みつく。  下手とかうまいとかではない。貪る獣のような行為だった。 「……っ」  子どもの手が、ぎゅっと服を掴む。  どれほど経ったのか。酸欠でもうろうとし始めたころ、ようやく唇が解放された。 「これでしばらく我慢しろ」 「な、なんで……? なん、で……?」  わけが分からないという顔に、ふっと困ったようにほほ笑む。 「もうお前を「男だから」という理由で拒まない。これからは一人の人間として見ていく」 「……え?」 「犯された光景がよみがえりそうになったらすぐに言え。何度でも上書きしてやる。今みたいに。ああでも」  ぱっと両手を離す。 「これ以上はしないからな! 未成年は未成年だ。黒槌に何の言い訳もできないっ。あいつは俺にとっての裁判官だから!」 「……しょうり……」  こほんと咳払いする。 「力を持つ責任から逃げない人間が好きだ。……前に言ったな。これからは無暗に突き放さず、歩み寄ると約束する」  緑の瞳の奥に、ハートが見える。 「おい! 結構大事な話をしているんだが。聞いているのか?」  がばっと両腕で抱きしめられた。 「ぐえ」 「晶利……。晶利が私のことを好きになる可能性は、ゼロじゃないってことか?」 「あ、ああ。俺を落としたいのなら、頑張るんだな……」 「うん!」  笑顔で頷かれる。詩蓮を潰さないように腕立ての体勢で踏ん張る。「落としたいのなら」なんて、人生で初めて言った。恥ずかしくて今死にたい。かっこつけてみたものの、詩蓮の勢いでは俺は数年も経たずに付き合っている気がする。そのとき、手を出さずにいられるか。この歳で理性を試される日が来るとは。早く大人になってくれと、心の中で願う。 「それよりもう一回キスして! 全然足りないぞ」 「お前……泣いてたよな?」  強がっているんだと解っている。  宿の一階で「幸せになれよ。兄弟」と言いたげに、人の手の形をした根っこがぐっと親指を立てると、扉を閉めて帰って行った。  女将と宿の客は十分くらいぽかーんと口を開けていた。

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