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第8話 庭師の秘密
割り切ったのか、諦めたのか。ヴィルはあの日以来、過剰な反抗を止めた。
幸い仕事はよく出来る方で、物覚えも早く、アーリスの負担も軽くなったように見える。
庭全体──塔の外周の管理、炊事の補佐、1階から4階までの掃除はヴィルが、それ以外の持ち場はアーリスが、それぞれ担当するようになっていた。貴重品室やライフライン設備、実験室や牢を備えた地下、それに僕の寝床がある5階は、どうしてもアーリスが管理したがったようだが。
アーリスはアーリスで、なかなか頭が固い。
在庫管理や商品の買付け、僕の身の回りの世話だってやりたがって聞かないのに、どうして掃除まで分担したのかと聞いたら「わたしのワガママです」と、きっぱり言っていた。
バルコニーから庭を見下ろす。最近じゃめっきり、煙草を吸いながらこの小さな楽園を眺めるのが趣味になっていた。担当者が変わっても、見た目は変わらず綺麗だ。アーリスはもちろん、ヴィルも基本的なことしかわからないと言っていたが、それだけでこうも美しく生まれ変われるのなら充分だろう。
「…いや。隣に侍らせるだけでも、充分だったはずじゃないか」
これ以上の愛着と、これから先、永く続いていくであろう時間は、僕も未経験だ。
『禁術ユル』と呼称している研究。アーリスにはもう施した。ヴィルにも近いうちに試すだろう。
老化を止め、病魔を防ぎ、人を限りなく不死に近づける魔術を。
そんな夢物語みたいな魔術が存在するわけがない。普通の魔術師なら必ずそう言うはずだ。…いや、竜族ですら。
『不老不死魔術の作成?とうとう気が狂ったか。それは宇宙外の知識だ、神になるより罪深い』
同族の古い知人は、そう喚いて僕を批判した。だが彼の言うことはもっともで、今まで研究することすらタブーだった。
しかし当然ながら、そんな倫理観を足枷にするほど僕は正常じゃない。
我々竜族というサンプルがいるのだから、不可能ではないはず。生きることは死ぬことと同義、ほとんどの生命にとってはそうであるはずなのに、僕らだけが違う。
竜族の体内メカニズムさえ解明して、内部構造の組織を人間に適応させられたら…。ただの移植ではいけない、書き換える場所がわかっていないと。該当箇所を解明するだけでも、相当な時間を要した。しかし僕は一応、理論上ではあるが、全ての解析と計算を終えている。
さすがに竜族ほど強力な生命体に転化させることはできないが、近づけることならできるはずだ。今ならそう言える。
アーリスには定期診断を行い、経過観察は怠っていない。成功したかどうかを確認するには、長い年月が必要だ。
「ご主人様、失礼いたします」
書斎のドアがノックされ、返事をすればアーリスとヴィルが入ってきた。
生活も落ち着いてきた頃合いを見計らって、聞きたかったことをまとめて話してしまおうと思っていたのだ。煙草の火を消し、書斎の中へ戻る。
手際よく茶の準備を始める二人を横目に、一人がけのソファに腰を下ろした。テーブルの反対側には、三人がけのソファ。
まだ暑い日が続くので、茶は冷たいものを用意してくれたようだ。テーブルの上に並べられたのは、ワタリガラス急便謹製の氷が入った紅茶だった。事前に茶会と言っておいたので、自分たちの分も用意している。
「どうぞ、かけて」
二人がソファの前まで来たことを確認し、何気なく言った。しかし、…何か。その言葉を言ったことで、唐突な既視感が僕の中に沸き起こった。
なんだろう。二人の男と向かい合って、僕は上座に腰掛けて。今みたいに相手は少し緊張気味の様子で…。
「あ」
そうか、思い出した。学府の院生、僕の教え子たちだ。こうやって僕のオフィスで、何度も面談した。季節の節目や…大抵はよくないことで。
アーリスとヴィルは急に変な声を出した僕を、不思議そうに見ている。
「話をする前に…、ちょっと頼みごとがあるんだけど」
「はい、ご主人様」
「……『なんでもするから進級させてください、先生』と、言ってみてほしい」
神妙な顔をして聞いていたアーリスが、僕の妙な頼みにきょとんとした。
普段からわかりやすいセクハラは完全無視のヴィルでさえ、首をかしげている。でもどうせ、ヴィルは『お願い』じゃ聞き入れない。ここはアーリスに任せよう。
やがて期待通り、アーリスが思い当たる節があったように顔を上げ、身を乗り出した。
「せ、先生。なんでもいたしますので、進級させてください!」
「うん…悪くない。でも、もうちょっと若者らしく」
「なんでもします!進級させてください先生っ…」
「いいよ、大分近づいてきたよ。さらに切羽詰まったこの世の終わりみたいな、半泣き状態で言える?」
僕の注文に、アーリスはうつむいて考え込んだ。しばしの逡巡の後、大きな咳払いを一つ。そして…おお。みるみる内に表情がしおれていくではないか。
「先生…、お願いです。このままでは…留年してしまいそうなんです。もしそんなことになったら、実家の父は激怒し、わたしは一族から追い出されてしまうでしょう。なのでどうか、どうか先生のお力で進級させてもらえませんか?なんでも…なんでも先生の言う通りにしますから…!お願いです、お願いします、先生…っ!」
迫真の演技だ。目を潤ませて、まさにこの世の終わりみたいな必死の形相だ。アーリスなりに、若者らしさも表現できている。父の激怒、一族に追い出される、というワードチョイスが妙にリアルで良い。懇願の仕方もなんとも嗜虐心をそそってくれる言い方だ。
「イイ…アーリス。すごく良かった」
「お楽しみいただけたようで、幸いです」
アーリスは屈託のない笑顔をして、素直に僕の称賛を受け取る。こういう鈍い所も気に入っているのだ。
僕は冷たい茶を一気飲みして、うっかり勃起してしまいそうになった体を鎮めた。今度、今のセリフをセックス前に言わせてみよう。
「な、なんなんですか…コレ」
趣旨が全く理解できないまま、僕たちの奇妙なやり取りを聞いていたヴィルは、困惑の表情を顔いっぱいに浮かべていた。
僕が学府で教鞭をとっていたことを、彼にはまだ言っていない。だから余計に意味がわからないだろう。まぁアーリスにもぼんやりとしか伝えていないのだが、そこはさすがの記憶力といったところか。
「気にしないで、単なる僕の趣味だから」
足を組み直して両手を組むと、さらに昔懐かしい気持ちになる。というか、何千年経とうが何万年経とうが、学府の仕組みというのは変わらないのだな。そこにも驚いた。
おかわりがそそがれるコップを見つめながら、ようやく僕は本題に入った。
「そういえば、ヴィルは読み書きできるの?」
「えっ…?まぁ一応、できますけど……」
「学校へは?」
「いや、俺んち貧乏だったし、もちろん行ってないですよ。そもそも教会さぼりまくってたし…。薬草の分別用に、両親から植物の名前だけ教えてもらった程度で。本格的な読み書きは前のお屋敷で…、こいつに教わりました」
親指で、クイとアーリスを指差すヴィル。アーリスを見ると、肯定を示すように頷いた。
「わたしが、いくつかの花について栽培法と注意点を教えてもらおうと、頻繁に庭を尋ねていたんです。しかしその度にお互い時間を取らねばならず…やや不便を感じまして。であれば、メモとしてあらかじめ残してもらった方が良いのでは、と。それで浅学ながら…必要最低限のことは教えた次第です」
「そうなんだ。ヴィルの植物知識はたしかに幅広いし、色々と知りたくなるのも頷けるよ」
「…褒めたってなんもしませんよ」
「本当のことを言っただけ。植物学と読み書きで知識の交換、実に良いことじゃないか。アーリスも家庭教師が似合いそうだし」
「確かに…、教え方はまぁ…そうだったかもしんないですけどね」
不本意そうに頷くヴィル。苦笑いのアーリス。兄弟みたいだ。
僕の小粋なトークで、多少は場も和んできた。この際だから、このまま過去の話を聞き出してしまおうと、僕は足を組み直してやや身を乗り出した。
「…ヴィル。そろそろ話してくれない?なんで庭師になったのか」
なるべく優しく、自然な流れで聞いてみる。最初から強制するのはよくないしな。
「別に、どうでもよくないですか?俺はもうあの屋敷とは無関係だし」
苦虫を噛み潰すような顔で返されてしまった。そこまで嫌われるようなことをした覚えは……あるな。ある。山ほどあった。
「じゃあ質問を変えよう。『旦那様』に雇われた経緯を“話せ”、ヴィル」
早々にギブアップした僕は、強い言葉で命令した。かけててよかった、支配の魔術。
「だ……っだん、な…さまが、……っ」
久々のちゃんとした『命令』だ。また恨めしげに僕を睨みながら、従うのかと思ったのだが。
「お、俺ッ……、ひぐ…。うぅ…」
なぜだろう。目を真っ赤にして、すがりつくように見つめられてしまった。これは…もしかして僕のことが嫌いだから、ではなく、別の理由で話したくなかったのか?
単なる情報収集の目的で聞いたのに、別の興味がわいてしまう。
「俺、見た目がこんな…女みてぇだから。遠乗りに出てた旦那様に『こんな片田舎で散らすには惜しい花だ』とか言われて、無理やり連れてかれたんだ…。確かにクソ田舎だったけど、あの村には両親と俺しか、薬草家がいなかったのに…」
「………」
お人好しなアーリスは、早速悲しげに目を潤ませ、ヴィルへちらりと視線をやった。
「ご両親とはそれきり?」
「それきりも何も。後生だから跡継ぎを連れてかないでくれ、って、膝ついて必死で引き止めてた俺の両親を……旦那様は…、アイツはッ!その場で切り捨てて、弔いもしないでそのまま…っ!……っぐ、うぅぅ」
ついにヴィルは、言葉を詰まらせて涙を流す。
「……そうか」
ヴィルが僕を異様に嫌ってる理由が、これで判明した。彼からしたら、旦那様も僕も同じ穴のムジナだ。
さすがに性欲よりも気まずさが勝ってしまい、ハンカチを差し出してみる。受け取ってはもらえなかったので、コップの隣に置いておく。
ヴィルが落ち着く頃合いを見計らって、僕は話を再開した。
「じゃあいずれは、故郷に帰ろうと思ってた?」
「いや……。あそこにはもう戻りたくない。いつも徴税人どもの顔色うかがって、貴族に媚びへつらって、なのに毎月のように軍馬に畑踏み荒らされて…あげくに少しでも逆らえば殺される。あんな場所、もううんざりだ…」
「それならもう一度、強く命令するよ。なぜ今でも、僕やアーリスに隠れてキッチンでポーションを作ってるの?理由を話して」
「!!………知って…」
暗かった表情が、一瞬だけ青ざめた。
そして急に真っ赤に染まる。おや、そこまで恥ずかしいことだろうか。
「勘違いしないで欲しいんだけど、アーリスが告げ口したわけではないよ。キッチンはいつでも好きに使っていいと、君たちには話してるしね」
まぁそれ以前のことは、ちゃっかり聞き出してしまっていたのだが。
「偶然見かけただけ、それだけだよ」
これも嘘。本当は、しばらくヴィルの視界を盗んで見てた。彼にかけた支配の魔術のおかげだ。
「さぁ話して。なぜポーションを作ってたの、ヴィル。本当はまだ薬草家に…」
「ちがう!」
未練があるなら、ここで研究してもいいよと言おうとしただけなのだが。ヴィルは僕の言葉を遮って、気まずそうにもじもじと話し始めた。
「違う…んです。ポーションは…そういう目的、じゃなくて。俺……その。この見た目で、確かに女扱いされんのは嫌だったけど……」
顔が真っ赤のまま目を泳がせ、しどろもどろに打ち明けるヴィル。思わずさらに身を乗り出す僕。…コップが倒れないように、視界の端でゆっくりそれを遠ざけてくれるアーリス。
「お、………おまんこ」
蚊の鳴くような声で、ヴィルは絞り出した。
「おまんこ…欲しかった、んです…。女になりたいわけじゃねぇけど、女のアソコ、ちんこと取っ替えてみたくて。噂話だけを頼りに、昔から色々…試してて。ご主人様、あれから全然射精させてくんねぇから…!余計溜まってて……頭ん中、エロいことばっかで…っ!」
この告白は予想していなかった。
たった今、無理やり聞き出して悪かったかな?などと思っていた、僕の気持ちを返して欲しい。
「なるほど……はー。…なるほど、ね」
乗り出していた上半身を背もたれに戻すと、思わず深い溜め息が出た。ちらりとアーリスの方を見れば、取り出したハンカチで額を拭っている。びっくりしたのは彼も同じのようだ。
ヴィルは身を縮こませて下を向いている。ずっと隠していた恥ずかしい趣味を、同僚と雇い主の前で暴露させられたのだ。無理もない。
「ヴィル、面白い着眼点だ。僕は一人の研究者として、君の知的探究心に敬意を表するよ」
「……気休めはやめてください…」
「ううん、気休めなんかじゃない。魔術にも似たようなものがあるんだけどね、僕が知りうる限りじゃ、数人しか使える者を見たことがない。それくらい難度が高い魔術ってことだ。だからポーションを使うって着眼点は、素晴らしいと思った」
「………」
「研究は続けていいし、必要な機材があれば貸してあげる。アーリスも文句はないね?」
「ご主人様がそうおっしゃるなら、もちろんです」
下品な詮索をすることもできたが、あえて僕はそうしなかった。なぜなら今日の話は、これだけじゃないからだ。何の気なしに毛先をいじりながら、僕は次の爆弾を投下する。
「ねぇ…君たちは以前、恋仲だったりしたの?」
「はっ!!?俺とアーリスが!?」
「…っと、突然なにをおっしゃるのですか、ご主人様!?一体わたしとヴィルのどこを見て、そう思われたんですか!?」
二人ともすごい剣幕で驚いている。吹き出しそうなほどおもしろい。なんとかにやけてしまう口元を隠し、僕は続けた。
「いや…だってヴィル、君は前に言ってたじゃない?アーリスに『尻軽』って」
その言葉を聞いた瞬間、目をまん丸くして赤面していくヴィル。目を最大限に泳がせて膝を握りしめるアーリス。そうだろうな、思い出すのは『尻軽』発言だけじゃないものな。
「っあ、…あれは違いますって!言葉のあやっていうか…とにかくそういう意味で言ったんじゃねぇです。俺、こいつが前の屋敷でバリバリやってたの知ってるから。それで…」
それで急に豹変したように、与えられる快楽に喜ぶアーリスを『尻軽』と詰った。真面目な執事としてのアーリスしか見ていなかったのなら、驚くのも無理はない話だ。自分の理不尽な状況への八つ当たりも、少しは含んでいただろう。
しかもアーリスがなついてる新しい主人は、自分を犯し、エッチな魔法をかけてきた『変態』だ。またしてもゴミクズ野郎である。余計に不信感は募っただろう。
「アーリスはどうなの、施術直後のヴィルをやたらと気にかけてたよね?」
「ご主人様、ご冗談が過ぎます。あれは最中のご主人様の戯れを、わたしが真に受けただけの話ではありませんか」
「ん?戯れってなんだ?」
「知りません!」
「そう怒らないで、アーリス。でも怒った顔も可愛いよ」
「ッ!!……ご主人様は、ずるいです…」
ちょっとキザっぽいことを言うとすぐこれだ。まんまとほだされる。チョロいのは素晴らしいことだが、彼はあまり男の趣味が良い方ではない。
「あのー…。俺、席外しましょうか?」
このやり取りを見せつけられたヴィルは、実に居心地が悪そうにつぶやいた。
「まぁ聞いて。他の研究で先延ばしにしてしまってたんだけど、さすがにそろそろ真実を共有してやろうと思ってね。恋仲かと聞いたのは、『尻軽』と言った本来の意図を確認するためだよ」
別に恋仲が事実であってもそれはそれで、面白かったのだが。下世話すぎるので伏せておく。
予想通り特に面白みのない事実が確認できたので、話を続けることにする。
足を組み替え、煙草を咥える。すかさず席を立って火を付けに来るアーリスと僕の顔を、ヴィルは怪訝そうに見比べていた。
「アーリス、どうせ何も伝えてないんでしょ?なぜ君が売られたか、なぜ僕の所にいるか、どちらのことも」
「…はい。ご命令でもない限り、話すつもりはありませんでした」
相槌の代わりに煙を吐き出す。メガネの奥は、煙がかかって見えなくなった。
「ヴィル…まさか本気で、この生真面目なアーリスが急に『旦那様』のものを盗んだなんて、君も思ってないよね。薄々気づいていたんじゃない?何か別の理由で、あの屋敷を追い出されてしまったんだって」
「それは……まぁ、はい」
「アーリスはあの屋敷で、最後まで真面目な執事だったと思うよ。僕と出会ったのは、君を買ったモグリの奴隷商と同じ場所だし」
「俺は…俺たち使用人には、アーリスは死んだって。それだけ伝えられました。でもまさか俺が……あ、」
言いかけて、ヴィルは口を手で塞いだ。ちらりと横目でアーリスを見るが、彼は何も反応しない。
「…………」
人形のように、無表情で正面を向いているアーリス。もはやあの『旦那様』に、毛ほどの未練もないのだろう。僕に尽くすことだけが全てと言っていたのは、きっと心の底から出た言葉なのだ。
しかし、だからといって。これから彼はこうやって、一生好きでもない『旦那様』の秘密を抱え、同僚としてヴィルと接していかねばならないのか。
それではあんまりじゃないだろうか。
「君が……なぁに?ヴィル。もしかして君が、アーリスが死んだことにされた『原因』かもしれない話かな?」
「……。やっぱり、知ってたんですね」
ヴィルは眉間にしわを寄せ、うなだれる。
「うん。たぶん君よりも多くのことをね。だからそれ以外の、君が解雇された時の状況やら、アーリスがいなくなった後の話も聞きたいんだけど……」
「…………」
「君は僕のことが嫌いかもしれないけれど、僕は君に敵意を持ってないよ。最初に言ったようにね。だからせめてアーリスとくらいは、仲直りしてやってほしいんだ」
「別に、そんな長い話じゃないですよ」
そう言って、ぽつり、ぽつりと彼は話し出した。
ヴィルの話は彼が言ったとおり、わりとすぐに終わった。
アーリスが窃盗で捕まり、死んだと聞かされたこと。肝心の書物はなんだったのか、あれからも知らされず、今もわからないこと。自分がしでかしたことが、まさか同僚を死に追いやるとは思いもよらなかったこと。
不自然すぎるアーリスの死に動揺し、勢いのまま、『元旦那様』に書物を汚したのは自分であると言ったこと。もしかしたらアーリスは生きているかもしれないと、期待していたこと…。
有無を言わさず『共犯者』と決めつけられ、解雇と同時に奴隷商へ連れて行かれてしまったこと。
ほぼ同じ流れだ。『元旦那様』は今頃、神経症の類にでも罹っているんじゃないか。使用人がいっぺんに、二人も裏切ったと思いこんでいるのだ。自業自得だし、絶対に返却などしないが。
「その場で殺されなかったのは僥倖だね。同じ場所に売るなんて一見アホみたいな行動だけど、犯人は現場に戻るとも言うしなー」
「まぁその後あんたに殺されかけたんで、僥倖もなにもないですけどね」
「ははは」
「ご主人様。いわれのない殺人者扱いは、ちゃんと否定なさいませ……」
「だって本当に致死率は高いからね。絶対にミスしないなんて、僕でも言い切れないもん」
「はぁ……変なとこで真面目っつーか…」
困り顔のアーリスと呆れ顔のヴィルを交互に見つめて、タバコの火を消す。
「ヴィル。君が汚した書物の正体は、裏帳簿だよ。そのヤバい代物を持ってたせいで、アーリスは『旦那様』からよからぬことを企んでると誤解されたみたい。あとは知っての通りだ」
「ああー。なら共犯者扱いも納得できますわ。あのクソ野郎、とっとと捕まっちまえばいいのに」
ぶっそうなつぶやきは聞かなかったことにする。アーリスも思わず口元を押さえてるあたり、二人にとっての『旦那様』は現在、完全な『敵』扱いになったようだ。
「しかし、共犯者か。口封じじゃなくて共犯者……」
あらためて考えると少しまずいかもしれない。『旦那様』が冷静になって、あの口が軽い奴隷商に何かを聞きにきたとしたら。
「鳥を戻すか」
席を立ち、新たに火をつけた煙草を口に咥えた。くわえタバコで観音開きの窓を開き、バルコニーへ出る。
煙草の煙と一緒に、空へ向かって息を吐く。煙が鳥の形になり、羽が舞い、僕の魔術に用いる文字列として、目的地へ飛び立っていく。
空を眺めて数十秒。煙を三度吐き出したあたりで、木の鳥が戻ってきた。奴隷商にいたにしては少し遅い。緊急帰還モードの場合、一気に高度1万メートルあたりまで上昇し、そのまま滑空姿勢で僕の手に帰るのだ。想定では10秒程度で戻ってこなくちゃいけない。霜が降りたり空気抵抗を受けた痕跡はあるし、機能自体は損なわれてないように見えるが。速度が落ちたのか、調整ミスか。
識別番号と損傷具合の確認をしていると、小さな血痕を発見した。それを眺めながら書斎の机に置き、どっかりと腰を下ろす。
「…アーリス、ヴィル。話はおしまい。僕は少し書き物をしてから、実験室に籠もる」
「は、かしこまりまりました」
「失礼します」
ルーペでくまなく観察し始めた僕を気遣い、二人はそれ以上余計な口を挟まずに、書斎から出ていった。
いつの間に用意したのか、新しい茶と綺麗になった灰皿が傍らに置いてある。こういう所を見せられると、やっぱり執事がいるのはいいな、と思わされるものだ。
サンプルと資料を書面に書き起こし、一服入れてから僕は実験室へ向かった。
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