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28 懐かしい味
足を止めちゃいけない。止めたらきっと、前に動かなくなる。
だから俺は、懸命に駅まで走った。走るのなんてどれぐらいぶりだろう。大して健康的な生活を送ってこなかったから、息が上がるのが早かった。
決して、嗚咽が上がってきそうで苦しかったからとかじゃない。自分にそう言い聞かせないと、駅まで辿り着けないと思って必死だった。
「はあ……っはあ……っ!」
頬は切れそうなほど冷たいのに、史也に貰った赤いニット帽の中は蒸れて暑い。首筋に汗が伝って、外の空気に触れた途端、すぐに熱を失った。
駅の券売機の前に立つ。心臓がバクバクいってるのは、走ってきたせいだ。
あれ、今日って何曜日だっけ。とりあえず、平日な筈だ。唐突にそんな考えが降ってくる。
父は平日は仕事な筈だ。今行ったって、父は家にいない。だったら、夕方に父が駅の改札を潜るところを待ち伏せしたらどうかと思いついた。
そうだ、それならいい。家に行ったら、あのおかしな継母がいるかもしれない。でも駅なら、もしあの女を見たとしても、すぐに逃げられるじゃないか。
待って、今って何時だ。改札の奥にある時計を見た。……二時半。
途端、全身をブルッと震えが走った。
ヤバい、この時間は涼真が駅を利用する時間じゃないか!
気付いた瞬間、俺は涼真の家がある方向とは反対側の出口に走る。角にあるコンビニに隠れて、ドキドキと激しく脈打つ心臓に向かって「落ち着け、落ち着け」と心の中で言い聞かせ続けた。
口から心臓が飛び出しそうな感覚が少し収まってきてから、コンビニの影からそっと改札を見る。
「あ……」
反対側の出口から、欠伸をしながら歩いてくる背の高い男の姿が目に入った。ちょっと浅黒い肌、パーマがかかったイマドキ風のツーブロック。高かったというお気に入りの黒い革ジャンに、破れた細身のジーンズに銀色に輝くウォレットチェーンは、ひと月前と何も変わらない。
そんな涼真の右腕にぶら下がるようにしてくっついているのは、あの日涼真に抱かれていた可愛らしい若い男だった。
……外じゃ、男と腕を組まないんじゃなかったのかよ。
顔を半分だけど覗かせていたから、もしこっちを見られたら、俺がいるってバレる。だからさっさと顔を引っ込めろよと思ったけど、金縛りにあったみたいに身体が言うことを聞いてくれなかった。
改札の前に来て、後ろポケットから交通系ICカードを取り出す涼真の腕を、男が大きく引っ張る。あ、イラッとした顔をしながら振り返った。あんなことをしたら、怒鳴られるのに――。
そう思ったのに、涼真は怒鳴らなかった。襟を男に引っ張られて、仕方なさそうに屈んで軽いキスを受け入れたじゃないか。
――嘘。俺の時は、外で触れるだけで怒鳴ったのに。外でキスなんて一度だってしなかったのに。
涼真が背中を向けて、改札の向こうへと消えていった。男はくるりと振り返ると、涼真の家の方へと戻っていく。
コンビニの壁にもたれながら、ずるずるとしゃがみ込んだ。
なんだ、あの二人、やっぱりつき合ったんだ。だったら、史也が心配するようなことはもう起きないだろう。後で史也に教えてあげなくちゃ。
探しに来たっていうのは、ちょっとだけ俺を思い出して試しに聞いてみた程度の軽い気持ちだったに違いない。
「は……」
身体の中から、張り詰めていた空気がプシュッと抜けていくような感覚を覚えた。
俺は今は史也のことが好きだから、別に涼真なんてもうどうだっていい。アイツの態度が俺と今の恋人と全然違ったって、俺にはもう関係のないことだ。
だけど。だけどさ。
やっぱり俺は、涼真に大切にされてなかったんだ。そのことを改めて目の前に突き付けられて、泣きたくないのに視界がどんどんぼやけていく。
自分の家族も、俺を拾ってくれた涼真も、俺なんてどうでもよかったんだ。俺ってやっぱり価値のない人間なんだ。
涙が下瞼から溢れ出そうになって、我慢ってどうするんだっけ、と麻痺してきた脳みそで考える。
涼真がろくに俺を解さないで突っ込んできた、穴が欲しいだけのセックスを思い出した。
そうだ。我慢する時は、左手の親指の第一関節。ここに齧り付いて、耐えればいい。
噛みついた痕が赤茶色に少し残っている部分に向けて、歯を立てた。
周りの人に見られたくなくて、膝の間に顔を伏せてきつくきつく噛む。
大丈夫、こうやって耐えていれば、嵐みたいな感情はその内凪いでいくから。心の波が真っ平になったら、勇気を振り絞って俺の家がある、涼真が働くバーがある駅まで行こう。
きっと落ち着く、大丈夫だから――。
プツ、と小さな感触が歯に伝わった。その後、じんわりと懐かしい味が口の中に広がる。
涼真に抱かれた時に何度も味わった、自分の血の味だった。
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