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29 探す

 我に返ったのは、ずっと右手に握り締めていた携帯が振動し始めた時だった。  ハッとして、顔を上げて画面を見る。唯一この番号に掛けてきてくれる、史也からの着信だった。  どうしたんだろう、と通話に切り替える。 「もしもし?」 『陸!? 今どこ!?』  切羽詰まったような史也の声に、何かが起きたのだと気付かされた。 「どうしたの? 何かあった?」 『どうしたのじゃないよ……! 家に帰ってもずっと帰ってこないから、携帯にも何度も掛けたけど出なくて……!?」 「え?」  慌てて通知を確認すると、最初は三時半。次に四時。更に四時半に着信があって、その後は十分刻みに不在着信があった。 「あれ……今、五時過ぎ? 嘘……」 『迎えに行く! どこ!?』  今にも泣き出しそうな声で言われて、思わず「あ、駅」と答えてしまう。電話の向こうで、史也が息を呑む音が聞こえてきた。え、気付かなかった、いつから、とかいう独り言も聞こえてくる。 『――すぐ行く! 切らないで!』 「え、あ……うん」  史也の声の後ろからは、車が走る音がした。随分と交通量が多いみたいけど、もしかして最初に二人で行ったファミレスがある国道まで探しに行った? 「史也、今どこにいるの?」 『ファ、ファミレスの前! 陸が行きそうな場所、スーパーととコンビニくらいしか分からなくて……!』  やっぱり国道まで行ったんだ。俺が家にいなかったから、でも電話に出ないから、心配して探し回ってくれてたんだ。  さっきまで思考も何もかも停止していた俺のネジが、キュ、キュ、と巻かれていくのが分かった。  俺に、再び動く気力が湧いてくる。  先程までとは違う温かい涙が、滲んできた。 「ごめんね、史也……着信気付かなくて」  はあ、はあ、と走っている荒い息。これは全部、俺の為だけに吐かれている息だ。 『涼真って奴の所に行っちゃったのかと思って、俺、俺……!』 「えっ? いや、自分から行くことはないよ、絶対」  それはない。あり得ないのに、史也はどうしたって俺が何かをきっかけにして涼真の所に戻るとまだ思ってるらしい。  そうだ、さっきの話をしてやれば、少しは安心するかもしれない。 「さっき駅で見かけたんだけど、例の新しい恋人と一緒にいたし」 『会ったの!?』 「声でか!」  あまりの大声に、耳がぐわんぐわんして携帯を離した。携帯の向こうからは、大きすぎて割れている声が響き続けている。 『陸、大丈夫だったの!? なんか言われなかった!? どこで会ったの!?』 「あ、あの! 話してないから!」 『ああもう――どこ!?』  電話からの声と、反対側の出口から響く本物の声がハモった。もう着いたのか。さすが、俺より足が長いだけある。 「コ、コンビニのとこ」  はあっはあっ! という息と、バタバタという足音が、どんどん近付いて来た。 「――陸!」  パン! としゃがんでいた俺の上の壁に手を付いたのは、ゼーハー言っている汗だくの史也。  上を仰ぐと、俺を壁ドンみたいに見下ろしている苦しそうな史也と目が合った。  はあっ、はあっ、と肩で大きく息をしていて、ポタポタと俺の上に汗が滴り落ちる。  焦り顔だった史也の表情が安堵に和らぎ、その後驚いたように見開かれた。 「口……どうしたの……?」 「え?」  口、何だろう? 左手でグイッと唇を拭うと、俺の左手を見た史也がガン! と膝をついた。痛そうだ。  俺の左手を強引に掴む。そこでようやく俺にも分かった。俺の左親指、第一関節は皮がめくれて肉がちょっと抉れて、乾いた血がこびりついていたのだ。 「陸……! これは」 「あ、ええと、その……」  どうしよう。何て言い訳したらこれ以上心配掛けないでいられるかな。  なら、とりあえず笑顔だろう。  史也が来てくれて、凍りついていた俺の心も身体ももう溶けていたから、普通に笑顔を出すことができた。 「本当、た、大したことないんだよ!」  史也には安心してほしいから、俺は必死で言い訳を始めた。だって、これ以上面倒臭い奴なんて思われたら嫌だから。 「あ、あのさ! これは別にちょっとしたヤツで、ちょっと自分で噛んじゃっただけで、別に涼真とは関係ないし……うおっ!」  左手首をギュッと掴まれると、膝をついた史也の胸に思い切り引っ張られて――力任せみたいに抱き締められた。……え、なに、どうしたんだよ、史也。  史也が、苦しそうな声を絞り出す。 「ちょっとしたヤツなんかじゃないだろ! 唇、血だらけになってるのに!」 「……」  そこまで噛んだかな。唇をペロリと舐めると、ガサガサの皮膚の上から固まった血が溶ける味がしてきた。 「陸……っ俺、聞くから! それで一緒に考えるから、お願いだからひとりで全部抱えようとしないで……!」  抱き締められた腕の中の温かさに、自分の身体が芯から冷え切っていたことに気付かされる。温かい。でも、このまま甘えたら、また駄目な俺に逆戻りな気がした。 「や、でも、いつも史也に負担ばっかり掛けてるし……」 「――ちっとも負担なんかじゃない!」  泣いていそうな辛そうな史也の声。その声は、俺の心をどんどん解凍していく。  涼真に突き付けられた、俺はいらない奴だったっていう事実に、俺の心は氷漬けになっていた。  でも、それを史也はこうしてあっさりと溶かすんだ。甘やかされたら、また頼っちゃうのに。 「何ひとつ嫌じゃない! 俺は陸が安心して何でも話せる相手になりたいよ!」 「史也……でも、俺、面倒くさい奴で、いるだけで迷惑掛けてるっていうか、その……」  俺は史也の足枷になってる。ずっとそれは分かっていた。史也にとって俺は、困っていたバイト仲間のひとりに過ぎないんだから。 「迷惑なんかじゃないよ……! どうしたら伝わるんだよ、陸……!」 「史也……?」  グズ、と鼻を鳴らした史也が、俺の頬に手を触れた。親指が、恐る恐る唇へと伸ばされる。 「俺は陸といたいよ。急いで離れて行こうとしないでよ、お願いだから……!」 「え……ふ、史也……?」  史也の平坦な頬には、涙が伝っていた。え、なんで史也が泣いてんの。え? え? 「俺を突き放さないで、陸……っ」 「え? いや、そんなことしてないし……っ」  地べたに座り込んだままの俺を、史也はまるで命綱にしがみつくようにきつく抱き締めた。

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