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37 涼真

 文字通り、俺は固まった。 「陸」  これまでのふた月近くの空白なんてなかったかのように、涼真は俺の名前を自然に呼ぶ。  どうして。なんで、だって新しい恋人がいるだろ。  目を瞠り、心の中で疑問を自分に問い続けることしかできなかった。店内に流れている筈のBGMも、何も聞こえなくなる。聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。 「……そんなに驚いたか?」  そう言いながら、しゃがんだ足を俺の足に寄せてくる。何、意味が分からない。 「どう……して……」  馬鹿みたいに掠れた声が出た。俺が返事をしたからか、涼真は男臭い顔をふっと緩ませると、右腕を俺の腰に回して身体をくっつけてくる。 「ちょ……っ仕事中、だし……っ」  こんなところ、井上さんに見られたら大変だ。腕を挟み込んで涼真との距離を作ると、涼真は俺の肩に頬を乗せた。いや、意味分かんないし。 「探した」 「……嘘吐くなよ」 「嘘じゃない、ちゃんと探した。お前のバイト先がどの店だか分かんなくて、ひとつずつ町のコンビニに行って聞いたんだぞ」 「……っ」  やっぱり、あれはそういうことだったんだ。たまたま立ち寄ったから聞いてみたんじゃなくて、どのコンビニか分からなくて、だから片っ端から。  あの時より、パーマは緩くなって伸びた。ツーブロックの下半分も、美容院に行ってないのか、大分伸びてしまっている。  ……よく見ると、痩せたような。好きではめていた、ゴツい一点物のシルバーリング。ぴったりだった筈なのに、緩いのか半分回っていた。 「ここも一回来た。お前が出ていって割とすぐ後だったかな。だけど、そんな奴いないって言われた」 「……怪しかったんじゃないの」 「そう思うか?」  切れ長の涼真の瞳が、刺すように俺を睨む。途端、怖い、とどうしても身に付いてしまっている感情が、俺を襲ってきた。 「あの、仕事中だから」  立ち上がろうとすると、腕を掴まれて引き止められる。 「ちょ、ちょっと」  どうして俺は、浮気して俺を裏切った涼真相手にこんなにビビってんだよ。もっと強気にいけよ俺。悪いのは涼真、俺は悪くないんだから。 「細い目した細木って名札が付いてた奴さ。名前と顔が一緒だからよく覚えてたんだ。アイツが、斎川陸なんて知らねえって言ったんだよ」 「……や、やっぱり怪しかったんだろ」 「陸」  耳元に息を吹きかけられる。ゾワリとして思わず身震いさせると、涼真は何を勘違いしたのか、また俺を抱き寄せた。 「初詣、あの男と行ってたよな?」 「え――っ」  しまった。思わず反応してしまった、と気付いた時にはもう遅い。俺の頬に涼真が顔を近付けてきて、唇が触れそうな距離で囁いた。 「あの男を見かけた。背が高いし顔を覚えてたからな。そうしたら、奴の影からお前が出てきた」 「……」  あの時の、誰かに呼ばれたような感覚。あれは勘違いじゃなかったんだ。涼真が、俺を呼んでいたんだ。  見られていた。無防備に史也を見つめて安堵し切っていた俺を、あの時見られていた。  涼真の息が、俺の唇に吹き掛かる。 「お前の名前を呼んだけど、お前は気付いてくれなかった。――あの男と手を繋いでたよな」 「そ、そんなこと……」  涼真が、左手で俺の左手を掴んだ。持ち上げて、親指の第一関節――最近、どうしても感情をコントロールできない嵐に飲み込まれそうになる時に噛む癖が付いてしまって、今も絆創膏が貼ってある箇所。  史也には、切っちゃって治りにくいんだよね、と誤魔化し続けている傷跡。  苛ついた表情で、涼真が低い声を出す。 「……アイツにやらせてんのか? 身体使ってアイツに面倒見させてんのか?」 「ち、ちが……っ」  どうしよう、涼真は何しに来たんだよ、分かんないよ。 「俺んちを出ていってすぐに股開いたのか? あんな冴えねえ男に?」 「や、やめて……っ」  怖い、もう嫌だ。とにかく涼真から逃げようと身体を捩るけど、涼真は右手で掴んだ腰を離そうとはしてくれない。  その時。 「お客様ー? うちの店員がどうかしましたかー?」  ハッとして声がした方を見上げると、迫力のある笑みを浮かべた井上さんが立っていた。 「井上さん……っ!」  涼真の手が一瞬緩んだ隙に、床に手を付きながらも井上さんの元に駆け寄る。 「営業妨害ですかねえー。斎川くん、奥に入ってな」 「――はいっ」 「おいっ」  立ち上がった涼真の前では、井上さんは小さい。でも、強気だった。  仁王立ちして涼真を見上げる背中は、頼り甲斐がある。 「警察呼びましょうか?」 「……ちっ!」  涼真は舌打ちをすると、井上さんにわざと肩をぶつけ、表に向かった。レジの向こう側に避難した俺に一瞥をくれて、プイッと立ち去る。  井上さんが、フー、と息を吐きながら戻ってきた。 「どお? 俺格好よくない?」  そう言って親指をグッと突き立てた井上さんを見て、俺は泣き笑いを浮かべたのだった。

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