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38 嫌がらせ
井上さんは、俺がただの見知らぬ客に絡まれたと思ってくれたらしい。
涼真を追い払ってからポツポツとお客さんが来て暫くは話せなかったけど、サラリーマンの帰宅時間第一陣が止んで、店内には俺と井上さんだけになった。
レジ前にお箸を補充していると、井上さんが電子レンジが乗っている台にもたれかかって話し始める。
「コンビニ店員を下に見る奴っているよなあ。本当、ああいう職業とかで判断する奴、俺嫌い」
井上さんは、口は悪いけど案外気遣い屋さんだ。だから、井上さんは俺の味方だから平気だよって暗に言ってくれてるんだと思う。
前は気付かなかったこういう些細なことも、気遣いがちょっと凄すぎる史也と毎日過ごしている内に、段々と感じ取れるようになってきていた。
あのまま涼真とだけ過ごしていたら、一生気付かなかったかもしれない。人の優しさに気付かない最低野郎のままだったかもと思うと、史也と出会えて本当によかった。
「井上さん、まじで格好よかったです。ありがとうございました」
さっきまで、笑顔なんで出せなかった。だけど、井上さんのおどけてけなす姿を見ていたら安心してきて、ようやく笑みが戻る。俺の表情の変化を見た井上さんが、ちょっとホッしたのが分かった。
「なー? 格好いいだろ? あれなんだけどさ、前に警官の役をやってさあ――」
井上さんは、面白楽しく失敗談も交えて、警官の役を演じた時の話を始める。ずっと表情が硬かった俺を元気づけようとしているのが分かって、そりゃお客さんのお婆ちゃんだって話し込みたくなるよな、なんて感心した。
「ちょっとでも背を高く見せようとシークレットブーツ履いて犯人役を追いかけたら、思い切り転んでさあ。あれは恥ずかしかったなあ」
「走りにくそうですもんね。よく履いて走ろうと思いましたよね」
「うっせえな。自分の運動神経を過信してたんだよ」
「あはは」
笑いながらも、時折窓ガラスの向こうをチラチラと確認してしまう。井上さんはもう絶対俺のそんな目線なんて気付いているだろうけど、気を紛らわせようと楽しい話をどんどん続けてくれていた。女子じゃなくて井上さんが今日のシフトに入ってくれていてよかった。女子だったら、今頃どうなってたんだろう、俺。
あれから二時間経ったから、さすがにもう近くにはいないと思う。さっき井上さんが外に出てざっと確認してくれた時には、涼真っぽい人影はなかったと教えてくれた。
だけど、俺は怖かった。
理解できなかったからだ。なんで涼真は、新しい恋人と一緒にいる癖に俺を探し続けてたんだよ。
言い訳をしに来たのかとも考えたけど、あの涼真がそんな殊勝なことをするとは思えない。
そこまで考えて、ハッと気付く。思いつくのは――嫌がらせだ。
涼真にとって、俺は都合のいい穴付きの家政婦だった。好きな時に抱いて、機嫌が悪くて当たっても、俺は怒らなかった。いつも涼真の顔色を窺って、そりゃする側からしたらさぞ気分がよかっただろう、と今なら分かる。
涼真は自分の容姿に自信があった。実際格好いいし、背も高いし、社交的だし、男からも女からもよくモテる。
さっき涼真は言ってたじゃないか。あんな冴えない奴って。格好いい自分を差し置いてぼんやり顔の史也と俺がいたことに加え、史也は俺がこのコンビニに在籍していることをわざと隠した。それを信じた涼真は、あんな奴に騙されたと悔しくなったのかもしれない。
だから、嫌がらせだ。史也と手を繋いでいるところを見られたのなら、涼真は史也と俺が恋人同士だと思い込んでいる。そんな時、元カレの涼真がちょっかいを出してきて、もし俺がフラフラと涼真の元へ戻ろうって素振りを見せたら。
涼真の自尊心は回復する。大方、そんなところだろう。涼真はそういうところがあるから。
だけどあの頃の俺は、そんなことにすら気付かないくらい、涼真に支配されていたんだと思う。
今となっては、本当に涼真のことが好きだったのかすら分からない。少なくとも、俺が史也に対して抱えている感情とは明らかに違う部分があったからだ。
俺は史也に甘えたい。生意気な口を聞いても笑顔で許してくれる史也に、それでも必要だ、隣にいてって言われたい。
それで気付いたんだ。俺は涼真には縋ってただけだったんじゃないかって。それを愛情だって思い込もうとしてただけなんじゃないかって。
だって、抱かれるのは好きじゃなかった。可愛いって言ってもらえるのは嬉しかったけど、そもそも俺には拒否権なんてなかったから。
もしかしたら、嫌だ、今日は気分じゃないって言ったらやめてくれたのかもしれない。でも、そうしたら涼真は俺に興味を失うんじゃないかって怖かった。少し間が開くと、抱かせようと躍起になった。身体を差し出せば、涼真の関心が俺から逸らされないと思っていたから。
自分が心から抱かれたいと思ったからじゃない。
だけど、史也には触れたいと思う。抱きつきたい。キスしてほしい。そして、一度でいいから抱いてほしいと思っていた。史也の体温を感じたくて、史也がどんな気持ちよさそうな顔をするのかを見たくて。
勿論、そんなの絶対に起こり得ないって分かってるけど、俺の欲求は日に日に増していくから、それでつい親指を噛んだ。痛みでその想いが消えればいいと思って。
でも消えない。消えてくれない。
こんなことを四六時中一緒にいる俺が思ってるなんてバレたら、絶対気持ち悪いって思われる。俺は史也に幻滅されたくない。だから早く、早くこの気持ちをなくしたいのに――。
その後は何度か忙しさのピークが来たけど、平穏無事に時間は過ぎていく。
十時からの交代メンバーが来たので、俺と井上さんは休憩室で着替えて、挨拶をしてコンビニを出た。
自動ドアの脇に、史也が立っている。俺と井上さんに気付くと、ふにゃりと優しい笑みを浮かべた。
「お疲れ様!」
「お、お迎えご苦労さん」
住宅と店舗が半々のこの場所は、夜になると人通りは激減する。だから今は、周りに帰宅途中のサラリーマンが二人ほどいるだけだった。
井上さんは史也に近づくと、周りに鋭い視線を送りながら伝える。
「今日夕方さ、斎川くんに絡んだ悪そうな男がいたんだよ。だから大丈夫だとは思うけど、帰り道気を付けて」
「――えっ!?」
聞いた途端、史也が血相を変える。焦った顔で俺を見下ろしたので、あまりバレたくはなかったけど、コクンと頷いた。
「俺が声を掛けたらすぐに逃げたけど」
「……井上さんに助けてもらったんだよ」
言葉を失った様子の史也が、井上さんにぺこりと頭を下げる。
じゃ、気を付けて。そう言って白い息を吐きながら闇の中へと消えていった井上さんの後ろ姿を、立ち尽くしたまま見ている史也。ゆっくりと俺の方へ振り向くと、掠れ声で尋ねてきた。
「……まさか」
今日、送り迎えはもういいって豪語したばかりだったから、さすがに俺も罪悪感で一杯になる。
「ん……涼真だった」
ボソボソと答えると、史也は唇を噛み締めた後、俺の手を掴んで史也の方に引き寄せた。
「手、繋いで帰ろう」
「……ありがと」
さっきまで平気だったのに。史也が来た途端、涙が滲んで嫌になる。手が小さく震えてるの、気付かれてるかな。
手を引かれて歩き出す。
史也の広い背中は、何故か怒っているように見えた。
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