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番外編1 弟
昔から、何でもそつなくこなせた。
自分が人よりも要領がいいと気付いたのは、いつ頃だったか。
あんまり覚えちゃいないが、不器用な二つ下の弟がババア に怒られるのを見る度に「俺はうまくやろう」と思い、実行していたのは覚えてる。
この時、弟の失敗をカバーするのは忘れなかった。叱られる度に萎縮して余計にうまくいかなくなっていたアイツは、少し優しさを見せると警戒心も怯えも放り出して俺に懐いてきた。
恥も外聞もなく媚びてくる様に、心の中で笑いが止まらなかった。
優越感、支配感。
あの時の感情に言葉を当て嵌めるなら、これしかない。
アイツには俺しかいない。俺の言うことだけは素直に聞くし、俺の機嫌が悪いとご機嫌取りしてくるのが愉快で仕方ない。
しょっちゅう夫婦喧嘩しては物が壊れる家の中で、アイツにとって俺の傍が唯一の安全地帯だったんだろう。怒られずにうまくやる俺に守ってもらえたら、アイツも恩恵に与 るしな。
俺が中学に上がる頃になると、俺に対する依存度はますます上がってきた。
小学校高学年から伸び始めた身長はあっという間に一八〇センチに達し、俺は家の中で誰よりもでかくなった。学校の成績もまあまあで、運動神経も問題ない。こんなクソ親だが、顔面偏差値を高く生んでくれたことには感謝していた。
夫婦喧嘩が始まると、アイツは俺の部屋に来て俺のベッドの上でゴロゴロし始める。
「涼真兄ちゃんは格好いいなあ。友達にいいな、会わせてってよく言われるんだよ」
「なんだよそれ。俺に会ってどうすんだってーの」
笑うと、アイツはちょっぴり優越感を感じさせる表情に変わった。
「勿論会わせないよ。だって涼真兄ちゃんは僕だけのお兄ちゃんだし」
一度でも会わせたら、俺をその友達とやらに取られるとでも本気で思っているんだろうな。んな訳ないのに、馬鹿すぎて思わず笑った。
「ふは」
「えへ。どこにも行かないでね、涼真兄ちゃん」
「ばーか。どこに行くってゆーんだよ」
呆れた笑いを返すと、アイツは心底嬉しそうな照れ笑いを返した。
そのまま人のベッドで寝てしまう時もよくあった。小動物みたいにひ弱な奴の安堵しきった寝顔を見ていると、高揚する気持ちを抑えるのに苦労したもんだ。
こいつは俺から離れられない。だから仕方ねえから守ってやるか――。
そんな奢った考えは、アイツが中学に上がる時にガラガラと崩れ去った。俺の中三の時の話だ。
原因は、両親の離婚だった。
元々デキ婚で、日頃から夫婦喧嘩ばかりしていたアイツらが別れようが何の感慨もない。だが、問題は俺とアイツがそれぞれババアと親父に別々に引き取られることにあった。
「やだっ! 涼真兄ちゃんと一緒じゃないとやだ!」
アイツは俺にしがみついて泣いた。さすがにあの時ばかりは、俺もどうしていいか分からなくてただ戸惑っていた記憶がある。
ババアは、要領の悪いアイツより、そつなくこなす俺を可愛がっていた。祖父母と独身の叔父が住んでいる実家に俺を連れて帰れば、若いのがいない実家の跡継ぎもできるしって算段らしい。
は? 俺って介護要員? なんで今から俺の未来を勝手に決められてるんだ? て思った。
親父は、住んでいる持ち家にそのままアイツと住むことにした。職もあるし、どっちかっていうとアイツと同じくスローペースな親父は、ババアさえいなきゃうまくやれると思ったらしい。
「いい加減にしなさい! あんたはいつもそうやって泣いて我儘ばっかり! だから嫌いなのよ!」
ババアの親とも思えない言葉に詰まったアイツは、大泣きすると走って部屋に閉じこもり。
俺とババアがいよいよ家を出る時になっても、顔を見せなかった。
閉じられたアイツの部屋のドアの前で、ノックをするかしまいかで立ち止まる。何と声をかけたら正解なのか、要領のいい俺でも分からなかった。
だからひと言、「またな」とだけ言ったら、中で走ってくる音が聞こえて。
部屋から飛び出してきたアイツが、俺に抱きついて泣きじゃくった。
「涼真兄ちゃん、僕のこと忘れないで!」
「ああ、当たり前だろ」
ほら、みろ。やっぱり俺がいないと駄目じゃないか。
ぼろぼろ泣くアイツの頭を撫でてやると、アイツは俺が欲しがっている眼差しをして聞いてきた。
「お休みになったらこっちに来られる!?」
「んー、金があればかな。高校に上がったらバイトして顔を見せにくるよ」
「絶対だよ……っ、でも嫌だよ、行かないでえ……っ!」
こんな時だっていうのに、俺はゾクゾクしていた。
俺しかいないと信じてる奴が、俺がいなくなるのが嫌で必死で縋り付くのは、何よりも得難い快感だった。
愉悦、高揚、庇護欲。
だから俺は言った。
「お前こそ、俺のこと忘れんなよ?」
「忘れないもん!」
「はは、そっかそっか」
馬鹿だった俺は、アイツのその言葉を信じたんだ。俺も子供だったってことだろう。
最初の頃は、そりゃもうしょっちゅうメッセージをやり取りした。夜になれば電話がかかってきたし、朝も『涼真兄ちゃん起きてる? 僕、ちゃんと起きられたよ』なんて可愛い報告をしてきたりしてさ。
だけど、次第にそれが少しずつ減ってくる。
俺は高校に進学して、バイトも始めて。夏休みには会いに行くからってメッセージを送って数日経ったっていうのに、アイツから返事がなかったんだ。
おかしい。違和感を覚えて、再度メッセージを送った。
『最近どうした? ちゃんと元気か?』
まさかいじめにでもあってんじゃないか、やっぱり俺が守ってやらないと――なんて思いながら送った言葉に対し、意外な返事がきた。
『実は僕さ、兄ちゃんに頼りすぎだったって最近言われてさ』
「は?」
どういうことだ。俺は自分の目を疑った。だって、守ってあげなきゃすぐに泣くだけのアイツの言葉とも思えない。メッセージの先にいてこれを打ってるのは、本当にアイツなのか。
『今、部活と勉強を頑張っててさ、あと実は彼女もできて』
「はっ!?」
思わず声が出た。
アイツの前向きな言葉は続く。
『僕ももっとしっかりしないとって思ったんだよね。だから僕の為に無理したりしないで、バイト代は自分の為に使ってよ』
「まじかよ……」
どう返せばいいんだ。戸惑っている内に、アイツからまたメッセージが届く。
『お母さん、どうせ好きにさせてくれてないんでしょ』
「ぐ……」
事実だった。ババアは昔からケチで、外食なんてもっての外ってタイプ。夫婦喧嘩の大半の原因は、金についてだった。
毎日働きに出ている親父の昼食込みの小遣いが、一日で五百円。なら弁当が欲しいと言っても「面倒臭い、朝起きられない」。職場の飲み会も許可制、接待だって行ったら行ったで「貴方はいいわね」と嫌味を言われる。親父にしてみりゃ、堪ったもんじゃなかっただろう。
せめて家事をちゃんとしてくれてりゃあ文句も出なかっただろうが、ババアは片付けが苦手で家は全体的に薄汚れていたから俺が掃除機をかけてたし、よく洗濯物を取り込み忘れて雨ざらしになっているのを俺が洗い直したりしていた。
冷蔵庫にもセールで買いすぎた同じ物が詰まっていて、結局は腐り。うちから出る生ゴミは他所よりも多かったと思う。
腐りかけた食材をどうにかこうにか調理して弟に食わせたりしてたけど、キッチンを勝手に使うとキレるから、それだって隙を見てだった。
だから、ずっと心の中で思っていた。
どうして親父は俺を手放したんだよ、てさ。
俺だって親父の方がよかった。家事能力はゼロでも、俺だったらやってあげることができる。弟の面倒だって、俺が見てきたようなもんだ。
なのにどうして親父は弟を選んで、俺を選ばなかったのか。
アイツのメッセージは続く。
『兄ちゃんと違ってきちっとはできてないけど、父さんと協力してうまくやってるからさ。兄ちゃんは自分の好きなことにお金を使って、ね?』
アイツにとっては、気遣いのつもりだったんだろう。
だけど俺には、拒絶の言葉にしか聞こえなかった。
気付けば、指が勝手に打っていた。
『分かった、ありがと。お前も成長したじゃん』と。
それと同時に、心の中にぽっかりと大きな穴が空いた。
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