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第7話 二度目の約束
ソウイチとの二度目の予約の日。指定されたのは前回と同じホテルで、約束の時間は二時間ほど早い。
真山は先日よりも少しだけ落ち着いてエントランスにやってきた。
白いスタンドカラーシャツと細身の黒パンツに革靴を合わせ、黒いジャケットを羽織っていつものリュックを背負っている。シャツを着れば少しは格好がつくだろうと思った真山は、クローゼットで一番綺麗めなシャツを選んだ。
二度目の来訪ではあるが、上品で落ち着いた雰囲気のロビーはやはり居心地の悪さを感じてしまう。
真山は少しだけ身を縮めて足早に受付カウンターに向かった。
受付でカードキーを受け取ってソウイチの待つ部屋へと向かう。
乗り込んだエレベーターには幸い同乗者はいなかった。真山はひとり、落ち着かない心地で視線を持ち上げ、変わっていく階数表示を眺めていた。
こんなところに平然と泊まれるアルファがどうしてオメガでもベータでもない自分を選んだのか、いくら考えてもその答えは見つからなかった。
どちらかといえば自分の方が快感を追ってひとりよがりなセックスをしてしまったと思う。なのに、ソウイチは二度目、三度目の予約をしてくれた。
到着を知らせる柔らかな電子音が思考に埋もれた真山の意識を現実に引き戻す。身体にまとわりついた浮遊感が消え、切り替わる数字はいつのまにか止まっていた。
また少し、鼓動が早まった。
真山を導くようにドアが開く。
降り立った廊下は静かだった。辺りを見回すとカードキーにあるのと同じ部屋番号はすぐに見つかった。
もう一度カードキーと部屋の番号を確認してドアを開ける。前回とは違う部屋番号だが、今回もスイートルームのようだった。
約束の時間の五分前。予定通りの到着だった。
部屋は前回と似たようなつくりで、調度品も似たコンセプトで揃えられているようだった。
「こんばんは」
部屋は静かで、人の気配がない。真山が声を上げると、奥からスーツ姿のソウイチが姿を現した。
夜景を背にしたソウイチは、今日は深いグレーのスリーピースに白シャツと深い赤のネクタイを合わせている。上品な雰囲気を醸し出す立ち姿からは育ちの良さが窺えた。
「こんばんは、マヤくん。待ってたよ」
真山の姿を認めると、ソウイチは柔らかな髪を揺らし、愛らしい笑みを浮かべて歓迎してくれた。
またその笑みを見ることができるなんて思いもしなかった。
待っていたと言ってくれるのが嬉しくて、真山の胸は鼓動を早める。
ソウイチはすぐに真山の前まで駆け寄ってきた。
「急にすまない。どうしても、会いたくて」
喉奥が甘く引き攣って、胸が柔らかく甘く痛む。それは決して不快なものではなかった。誰かにこの言葉をかけられるのが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「ん、俺も嬉しい」
真山の口から出たのは、心からの言葉だ。
自分を見上げる薄茶色の瞳が嬉しそうに細められるのを見て、真山はくすぐったさにはにかんだ。
華奢な真山の手をソウイチがそっと握る。ソウイチの手は温かく、触れ合ったところで温もりが混ざるのが心地好い。ソウイチの温度を感じて、緊張で強張っていた身体が少しだけ緩んだ。
「来てくれてありがとう、マヤくん」
うっすらと頬を染めたソウイチの穏やかな笑みには、心からの喜びがはっきりと見てとれる。自分ばかり浮かれていたわけではないとわかって、真山は少し安心した。
「抱きしめてもいいか」
「ん、いいよ」
確かめてから、ソウイチの腕が真山の背中に回る。
「ふふ、嬉しい。マヤくんの匂いだ」
そう言われると少し照れる。真山は香水の類はつけていない。きっと洗濯洗剤の匂いだろう。ソウイチは真山の肩口に額を押し付ける。真山がソウイチの背に腕を回すと、ソウイチが真山の腕の中に収まる形になる。
ソウイチからもいい匂いがした。石鹸のような、清潔感を感じる心地好い匂いだった。前回と同じ匂いに安心する。これから、この匂いがするたびにソウイチのことを思い出してしまいそうだった。
真山はその香りを忘れないように深く吸い込む。肺の深くまで染み込ませて同じ匂いに染まりたくて、頬に触れる髪に思わず頬を擦り寄った。
真山の頬に、ソウイチの柔らかな髪が当たる。くすぐったくて、真山は目を細めた。
そういえば前回はそんなことを考える余裕もなくて、結構いっぱいいっぱいだったんだなと苦笑する。
ふと、真山はソウイチに言おうと思っていたことを思い出した。
「ソウイチさん、この前の、タクシー代」
真山が言いかけたところで、ソウイチは弾かれたように身体を離し、顔を上げた。目を見開いて、顔色は心なしか少し青褪めているような気がする。
「っ、すまない、足りなかったか」
「いや、クレジット決済だから払わなくて大丈夫って言われて、もらった分は使わなかったんだ」
「あ……! いや、渡した分は待っててくれていい」
ソウイチは、慌てているようだった。小さなため息をひとつつくと、ばつが悪そうに俯いてしまった。
「その、慣れてなくてすまない」
「ん、いいよ、気にしないで」
柔らかそうな旋毛を眺め、真山は頬を緩めた。実のところ、真山はあまり気にしていなかった。
ソウイチが見せる初々しい仕草は、どこか小動物のような愛らしさがある。その見た目も相俟って年上だということを忘れそうだった。実のところ、真山は本当に年上なのかまだ心の隅で疑っていた。
「マヤくん」
「ん」
「まだこの話をするのは気が早いかもしれないんだが」
ソウイチは足元に落とした視線を忙しなく彷徨わせ、一生懸命に言葉を紡ぐ。真山は静かにその続きを待った。
「その、君と、専属契約をしたい、と思って」
「あ……」
ソウイチの口から出た言葉は、立て続けに二回目と三回目の予約が入ってから真山も意識はしていたものだった。
意識しすぎても良くない気がしてそっと頭の隅に追いやっていたのに、思い出してまた胸が騒ぎ始める。
うるさい心臓の音がすぐ目の前にいるソウイチにも聞かれてしまいそうで、真山は少し焦った。
「嫌、だったか……?」
曖昧な返事だったせいか、ソウイチは捨てられた子犬のような顔で真山を見上げる。ソウイチを安心させたくて、真山は咄嗟にソウイチの頭を撫でた。
「いや、じゃ、ないです。嬉しい。けど、ソウイチさん、俺でいいの? 俺、アルファだよ?」
ソウイチは何か勘違いしているのではないかと思ってしまう。アルファに抱かれたいだけで、真山の第二性はアルファだ。
アルファが専属契約の相手にオメガ以外を選ぶなんて、そんな話は聞いたことがない。
自分が専属契約に指名された喜びよりも、どうしてという気持ちが先走ってしまう。
もちろん嬉しいが、自分が選ばれる理由がわからなかった。
「セックスは教えられるけど、オメガじゃないからつがいになれるわけでもないし」
アルファがつがいになれるのはオメガだけだ。アルファはアルファとはつがいになれない。誰でも知っていることだ。
モン・プレシューを使うアルファは皆、つがいを求めているのも知っている。
モン・プレシューに所属するキャストの大半はオメガで、ベータとして登録していた真山の存在はいわば異端中の異端だった。だから、アルファとつがいになれるわけでもない真山が誰かと専属契約することなど夢のまた夢だと思っていた。
「いいんだ。マヤくんがいい。つがいになれるかどうかじゃなくて、君と、ちゃんと向き合いたいんだ」
芯のある澄んだ声とともにソウイチの瞳に射抜かれる。澄んだ薄茶色の瞳は真摯で、眩しくて、真山の頬は熱に染まっていく。
「なら、いいですけど」
ソウイチの熱を帯びた言葉に真山の声は尻すぼみになる。それ以上何も言えなくて、今度は真山が俯く番だった。
真山はもう大人しく受け入れるしかない。
「マヤくん、嬉しい」
甘やかな声に真山が視線を持ち上げると、飛び込んできたのは蕩けるように甘やかな笑顔だった。
その笑顔に、うるさいばかりの胸が温かく満たされていく。
ずっと抑えつけてきた恋心が許されたような気がした。嬉しくて、少しだけ苦しくて、真山は小さく息を吐く。
真山の頬に、確かめるようにソウイチの手が触れた。皮膚の薄い場所に感じる手のひらの温もりは、じわりと胸まで沁みていく。
いつも感じる熱を帯びた衝動とは違う、柔らかくて温かいものに頭の芯まで浸されて、真山はどこか夢見心地だった。
ぼんやりとソウイチを見つめていると、ソウイチの手が慈しむように髪を撫でる。
「マヤくん、お腹は減ってないか」
「ん、減ってる」
今日は昼過ぎに起きて、軽く食べてから何も食べていないのを思い出す。
「食事に行こうか。連れて行きたい店があるんだ」
それでやっと、今日の予約時間が少し早かった理由を理解した。
ソウイチの優しい声に気が抜けたのか、真山の腹の虫が騒ぎ出した。
真山が連れて行かれたのは、ホテルからほど近い裏通りにある鉄板焼きの店だった。
店に入ると漂ってくるのは肉を焼く匂いだった。脂の焼ける甘い匂いは真山の空腹を加速させた。
入ってすぐに目についたのはカウンター席の目の前にある大きな鉄板だった。そこで食材を焼いてくれるようで、すでに何組か肉を焼いてもらっているようだった。
テレビでしか見たことのない光景に、真山は小さく感嘆の声を上げた。
通されたのはカウンターの中央の席だった。二人居るが座るとカウンターは埋まった。右でも左でもシェフが肉を焼いている。
「ここで大丈夫か?」
「うん。焼肉好きだって、言ったっけ?」
「いや、初めてだ」
「肉、好きなんだ。ありがとう、ソウイチさん」
まさかソウイチが肉を食べに連れてきてくれるとは思っていなかった真山は、満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、よかった」
ソウイチは柔らかく笑ってメニューを渡してくれた。
メニューを開いた真山は溜め息を漏らした。
そこに並ぶのはブランド牛に希少部位。普段は手も出せない値段の様々な肉が並んでいる。
「好きなのを頼むといい」
「ほんとに?」
子どものように目を輝かせる真山を見て、ソウイチは楽しげに目を細めた。
「ああ。マヤくんが食べたいものを頼んでくれ」
「じゃあ、これ」
真山が指差したのは最上級のシャトーブリアンだった。
「わかった。他には?」
「っえ」
ソウイチはまだ食べせてくれるようだった。シャトーブリアンでは満足してしまった真山は慌ててメニューに視線を落とす。
「ふふ、ゆっくり決めてくれ」
ソウイチは笑うと、手を挙げてスタッフを呼んだ。
「すみません、彼にシャトーブリアンを。もうひとつはフィレで。マヤくん。焼き方は?」
「レアがいい」
「じゃあ、二つともレアで」
「お酒は飲む?」
「あー、今日はいいです。ウーロン茶で」
酒は飲めなくはないし弱い方でもないが、酔って記憶を飛ばすなんてもったいないことは避けたかった。
「じゃあ。ウーロン茶二つ」
ソウイチは澱みなくスタッフにオーダーを伝える。
「そーいちさん、いつもこんなとこで食べてんの?」
慣れた様子に、真山はそんなことを思った。
「たまに、だな。美味しい店だから、マヤくんを連れて来たくて」
ソウイチが優しく笑う。
ソウイチの意識に、自分のことが刻まれているのが嬉しかった。
そんな二人の前に、ウーロン茶が置かれる。グラスを手に取るソウイチにつられるようにして真山もグラスを掴む。氷の浮かぶグラスは冷たく指先を濡らした。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
声に合わせてグラスをそっとぶつけると、氷が揺れて澄んだ音が鳴った。
目の前で焼かれた肉が、食べやすい大きさに切られて皿に並ぶ。表面だけ焼かれた厚みのある肉は一切れ食べると柔らかくて、濃厚な肉の旨味が溢れて、噛んでいるうちに溶けるように無くなっていく。
「すげ……」
真山は言葉を失った。噛み切るまでもなく千切れる柔らかな肉は、今まで食べたことのある肉とは別物のようだった。
「やばい、そーいちさん」
なんとか喜びを伝えたくて、真山はソウイチを見た。
「めちゃくちゃ美味い」
そんな月並みな感想しか出なかったが、真山の感動が伝わっているのか、ソウイチは微笑んでくれた。
「それならよかった。これも食べてごらん」
差し出されたのはソウイチが注文したフィレだった。もらった一切れも美味しくて、真山の口からは感嘆の声しか出なかった。
「なにこれ、うま……」
その後も、普段は食べることのない希少部位やらとろけるようなブランド牛やらを食べた。海鮮も食べて、満腹になったところでホテルに戻った。
一体いくらかかったのか、確かめる勇気はなかった。
「ごちそうさまでした。あんなに肉食べたの初めて」
「それはよかった」
エレベーターに乗り込むと、ソウイチは真山を見上げた。その指先は最上階のボタンの前で止まる。
「マヤくん、バーは?」
「酒はいいよ」
酒よりも、今は早くソウイチとしたくて、真山はソウイチのスーツの袖を掴んだ。
「酒、入ったほうがいい?」
素面だとしたくないのかもと少し不安になって、真山はおそるおそソウイチを見た。真山の縋るような目に気付いたソウイチは首を横に振った。
「いや、君とは素面でしたい」
真っ直ぐに見上げる薄茶色の瞳に吸い込まれそうで真山は息を呑む。
ソウイチの指は部屋のあるフロアのボタンを押した。
つまり、ソウイチは酒の力を借りずに、まともに理性がある状態で真山を抱くということだ。そう思うと、また少し胸の鼓動が煩くなる。
そんな真山の背中を押すようにエレベーターが止まり、ドアが静かに開いた。
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