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第9話 触れ合う温度
案の定、真山はずっとそわそわしたまま三回目の予約の日を迎えた。何をしても上の空で、心臓は煩く鳴りっぱなしだった。
着替えをするにもすぐにボタンを留める手が動かなくなって、頭の中はソウイチのことで溢れてしまう。真山は早々にシャツを着るのを諦めた。
白いカットソーの上にブラウンのカーディガンを羽織り、黒いトラウザーと革靴を合わせ、いつもの黒いリュックを背負って真山は家を出た。
約束の時間は二度目の予約と同じで行き先も同じホテルだったが、部屋は前の二回より上の階だった。
カードキーの扱いにもすっかり慣れた。
部屋は前の二回よりも広くて、入るとすぐに大きな窓と広いリビングが目に入った。
真山が部屋に入ると、ネイビーのスーツを纏うソウイチが落ち着いた様子で迎えてくれた。
「いらっしゃい、マヤくん」
「こんばんは、そーいちさん」
初めての夜と同じ色だが、生地が前回とは違うようだった。サックスブルーのシャツに深みのあるブラウンのネクタイを合わせていて、上品で落ち着いた空気を纏っている。
ソウイチは目の前に駆け寄ってくるなり正面から真山を抱きしめた。
その腕の強さに、真山は少し驚いた。見た目よりもずっと力強い腕に、真山は思わずため息を漏らす。
二日しか空いていないのに、身体を包む石鹸に似た匂いはひどく懐かしい。
真山は会えない間も、気がつけばソウイチのことを考えていた。温もりも匂いも声も、暇さえあれば浅ましいくらいに何度も思い出して、そのたびに顔を赤くしていた。
今度はそれを思い出して居た堪れない気持ちになる。
自分が思うよりもずっとソウイチにのめり込んでいる。こんなことは初めてだった。
「ふふ、すごく久しぶりな気がする」
甘えるように額を擦り付けるソウイチの背に、真山はそっと腕を回す。会いたかったのは自分だけではなかったのだと教えてくれる腕の中の温もりは、真山の胸を穏やかな気持ちで満たしていく。
「そうだね、俺も、そう思う」
真山の唇からは素直な言葉が零れた。取り繕うのもなんだか勿体無くて、真山は思ったままの気持ち口にした。
「マヤくん、嬉しい」
二人の素直な言葉が心地好く混ざり合う。
抱き合って甘やかに触れ合うことがこんなにも温かくて幸せだということを、真山は改めて噛み締める。
専属契約をすれば、ソウイチと毎日こんなふうに触れ合うのだろうか。
甘やかな触れ合いを重ねて、言葉を重ねて、身体を重ねる。そんなふうになれたらいいのにと思う。
「マヤくん、食事に行かないか」
真山をふわふわとした思考の渦から引き戻したのはソウイチの声だった。声の主を見遣ると、薄茶色の瞳が真山を見上げている。男にしては長いまつ毛に縁取られた意志の強そうな目は、いまは優しく蕩け、真山を誘うように揺れた。
ソウイチの温もりからは離れたくなかったが、真山の正直な身体は空腹を訴え始めていた。
「うん」
真山が頷くと、ソウイチの表情が柔らかく溶けた。真山に向けられるのは幸福感も愛情も隠さない笑みだった。
真山が連れて行かれたのは、ホテルから歩いて五分ほどのところにある隠れ家のような寿司屋だった。もちろん回らない寿司だ。カウンター席があるだけの店内は少し照明が落とされ、上品な雰囲気を醸し出している。
真山にも高い店だとわかる落ち着いた空気に、背筋も自然に伸びる。
「マヤくん、お寿司は大丈夫だったか」
「うん。好きだよ」
あまり食べる機会がないだけで、寿司も好きだった。回らない寿司なんて、食べたことがあっただろうか。記憶にある寿司は回転寿司か、チェーン店の寿司ばかりだった。
「よかった」
「ここ、よく来るの?」
「いや、普段は家の方が多い」
「ふうん」
意外だった。偏見だが、社長ともなればいつもこういうところで食事をしているのだと思っていた。
「今日は、特別だから」
はにかむようなソウイチの言葉に、真山の心臓が跳ね、鼓動が早まる。
ソウイチの言う特別の意味を考えてしまう。
今日が終わると、ソウイチとの専属契約ができる。マヤとしてではなく、真山としてソウイチに会えるようになる。きっと、ソウイチの本当の名前も知ることができる。
心臓が騒ぐから考えないようにしていたのに。
それからずっと鼓動がうるさくて、寿司の味もわからないくらい緊張していた。
せっかくの回らない寿司だというのに、何を食べたのか覚えていない。味も、店の場所も朧げだった。
真山の緊張はホテルに戻ってきてようやく落ち着いた。自分でも緊張する場所を間違えていると思うが、ホテルの部屋の方がなんだか気が楽だった。
「マヤくん、シャワー、行っておいで」
ジャケットを脱ぎネクタイを緩めたソウイチの仕草に、真山の胸は小さく跳ねる。
いつもシャワーと後ろの準備は済ませてくるのだが、さっき緊張したせいで、皮膚の薄い場所にはじっとりと汗が滲んでいた。
シャワーは浴びたいが、一人で行くのはなんだか寂しかった。
「一緒に行かないの?」
前回は一緒にシャワーを浴びたせいで、なんとなく今回もそうだと思っていた。
真山の言葉に、ソウイチは驚いた顔をした。
真山は頬を緩める。ソウイチと一緒がよかった。
「一緒で、いいのか」
「ん、いいよ」
一緒に入ったバスルームは前回の部屋よりも広かった。ゆっくりバスタブに浸かりたい気持ちはあるが、今は早くシャワーを済ませてベッドに行きたかった。
ガラスで区切られたシャワールームは、大人二人が入っても余裕のある広さだった。
向かい合って、一緒にシャワーを浴びる。温かな雫が降りしきる中、身体を撫で合った。
二人で裸になるのにももう慣れたが、ベッド以外でソウイチの身体に触れるのはまだ慣れなくて、新鮮な喜びを真山に与えてくれた。
「マヤくんは、モデルでもしてるのか」
真山の身体を見て、ソウイチがぽつりと漏らした。アルファにしては細身な真山はモデルだと言われることも多い。
「違うよ。大学生。プロフィールに書いてあったでしょ」
「細いから、モデルでもしてるのかと」
「アルファだってバレないように、食事とか運動とか、色々気をつけてるから」
ベータに見えるように、体型の維持には神経を尖らせてきた。少しでもアルファぽく見えないように。ベータだと思ってもらえるように。
食事量を抑え、筋肉が増えすぎないよう運動は有酸素運動をするようにしていた。
そうでもしなければ、抱いてもらえなかった。
そこまでして、ベータのマヤになって。それでようやく、オメガのおこぼれみたいに抱いてもらえる。
それでもよかった。すべてはアルファに抱かれるため。自分の快感のためだ。悔しいとか、羨ましいとか、そんな感情は二の次で、恋心はそのまた次だった。
「大変なんだな」
ソウイチが独り言のように零した声には真山に対する敬意のようなものが見えて、真山は戸惑いと心苦しさを感じていた。ベータだと偽っていた自分はソウイチにそんなふうに思ってもらえるような人間ではないのに。
「でも、それでソウイチさんに会えた」
奇しくもソウイチにアルファだと見破られたおかげで、嘘で固め続けたベータのマヤではなくアルファのマヤとして、ソウイチは真山を抱かれることができた。
そんなマヤと向き合って、純粋な愛情をくれたのはソウイチが初めてだった。
「そう、だな」
ソウイチは、薄く笑って降り頻る雫を止めた。水音の溢れていたシャワールームは途端に静かになる。
「マヤくん」
鮮明に聞こえる落ち着いた声に、真山の心臓が跳ねた。ソウイチは薄茶色の瞳で真っ直ぐに真山を見上げ、綺麗な手で張り付く髪の束を払い、頬を撫でた。
「もう、そんなことしなくていい。俺は、君を幸せにしたい」
ソウイチの真摯な熱を孕んだ瞳が真山を見つめている。喉奥がきゅうっと痛んで、目が熱く濡れた。
ソウイチの言葉は、告白というよりもまるでプロポーズだった。
「そのままの君でいいんだ。好きなものを食べて、好きなことをして、それからで良いから、俺を見てほしい」
真山を目上げる薄茶色の瞳が細められる。そこには確かに自分が映っていた。
ソウイチの言葉がどういう意味か、わからない真山ではない。
落ち着いたはずの鼓動がまた騒がしくなる。
「美味しいもの、君の好きなもの、たくさん食べに行こう」
甘くて優しい言葉を並べられて、勘違いしてはいけないと思うのに、ずっと我慢して抑えつけていた恋心が騒ぎ出す。
「明日、専属契約の申請を出そうと思うんだ。受けてくれるか?」
ソウイチの声には迷いの欠片もない。それは真っ直ぐに真山のところまで届いた。
「そーいちさん、本気? 俺、アルファだよ?」
涙が零れそうなのをなんとか堪えて、真山は声を震わせた。ソウイチは勘違いしているのかもしれないと思う。
真山はアルファだ。どんなに身体を絞って、抑制剤を飲んでも、それは変えられない。
「わかってる。アルファでも構わない。俺は、マヤくんがいい」
真山に向けられるソウイチの笑みは屈託がなくて、その言葉は心からものだとわかる。
「オメガの子みたいに可愛くないよ?」
一九〇近い背丈も、骨ばった身体も、オメガに比べたらずっとしっかりしている。ノットだって出る。もう何度も裸を見たソウイチならわかっているはずなのに。
「そんなことはない。今の君は十分に可愛いと思う」
自分よりも愛らしい顔をしたソウイチにそんなことまで言われて、真山は目元を赤くして笑う。
嬉しくて、胸が苦しい。
「ふふ、ありがとう、そーいちさん。嬉しい」
リップサービスでもよかった。
抱かれたい真山に、こんなに愛の言葉を浴びせてくれたアルファはいない。
喜びに染まった真山の頬をソウイチの手のひらが包む。
うっすらと湯気の舞うシャワールームで、ソウイチの柔らかな唇が真山の唇に重なった。厚みがあってとろけるような柔らかさが真山の唇を食む。
ソウイチの優しく食らいつくような口づけに、身体が熱くなる。触れ合っているソウイチにはきっと気付かれているだろう。
「マヤくん、君が好きだ」
そんな甘い言葉とともに頬を撫でられると心臓が溶け出しそうだった。
「っ、俺も、すき」
喉が引き攣って、声が掠れる。
きっと情けない顔をしているのに、ソウイチは微笑みかけてくれた。
セックスはできるけれど恋はできない。そんな状況が変わりつつあることに、真山が感じたのは戸惑いと、それを上回る喜びだった。
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