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第15話 祝福

 金曜午前にある授業は二限のゼミだけだった。  教室には真山が一番乗りで、まだ誰の姿も見えない。真山は照明のスイッチを入れてから席に向かった。  桐野に送り迎えしてもらうようになってから、遅刻や時間ギリギリになるようなことはまだない。  羽織ってきたジャケットを脱いで席に着く。今日は天気も良く、カットソーとチノパンだけでも十分な気温だった。ジャケットは要らなかったかなと思っていると背後から声が掛かった。 「おはよ、真山。久しぶり」 「北野、おはよ」  振り返ると、見慣れた姿があった。真山に声をかけたのは、同じゼミの北野だった。  ツーブロックの黒髪は緩いパーマがかかり、厚めの前髪は眉下の長さで整えられている。奥二重の瞼に焦茶の瞳。ベータながら、男前という表現が似合う整った顔立ちをしている。  背丈は真山ほどではないが一八〇はある。細身の体躯で、今日はプルオーバーパーカーにハーフパンツとレギンス、スニーカーという軽やかな出立ちだった。  北野は真山の隣に座ると人好きのする笑みを浮かべた。 「聞いたぜ。お前、最近高級車の送迎付きなんだって?」  北野の口から出た言葉に、真山は目を見開いた。飲み物でも口に含んでいたら吹き出していただろう。  大学の前では目立つからと駅で乗り降りしているのに、まさか北野にも知られているとは思わなかった。 「は、誰情報だよ」 「内緒」  北野は真山を揶揄うように悪戯ぽく笑う。言わないでいた自分も悪いとは思うが、真山はなんとなくばつが悪くて北野を睨む。 「お前……」 「そんな顔すんなって。とうとういい感じのアルファ様でも捕まえたのか?」  北野はにやりと笑う。何もかも見透かされたみたいでなんだか居心地が悪かった。 「まあ、そんなとこ」  さすがに同居までしていることを話すのは少し気が引けて、真山は言葉を濁す。こんなに早く同居することになるなんて真山も想定外だった。 「なんだよ、早く言えよそういう大事なことは。まあなんにせよ、よかったな」  北野は優しく笑う。やっとアルファを捕まえた真山の幸せを純粋に喜んでいるようだった。  北野はベータだ。大学に入ってからの付き合いではあるが、周りにいる中では一番付き合いが長い。  北野は真山の性癖も知っているし、ベータと偽ってアルファの相手探しをしていたことも知っている。  春休みの間はなんとなく連絡をする用もなくて何も知らせていなかったのだが、北野はそれを怒っているふうでもなかった。 「写真は?」 「ない」  北野に言われて、そういえば撮っていないのを思い出す。桐野は撮らせてくれるだろうか。ああ、でも撮ったら緊張しそうだなと思って頬が緩む。  真山の緩んだ顔を見て何か勘違いしたのか、北野は悪戯な笑みを浮かべた。 「で、爛れた生活してんの?」  北野も健全な年頃の男子だ。そういうことは当然気になるのだろう。  しかし、残念ながら北野の期待しているようなことは何もない。キスはするが、一日セックス漬けになるようなことは一度もなかった。毎日日付けが変わる頃にベッドに入り、朝は決まった時間に桐野が起こしてくれる。 「いや、めちゃくちゃ規則正しい」  真山が答えると北野は笑った。そんなことはそうそうないとわかっているようだった。 「まあ、単位落とすよりは良いよな」 「まあな」 「お前、そのうちオメガになったりすんのか?」  北野に言われて、真山は考え込む。時々考えはするが、あまりに現実的だとは思えなかった。アルファがオメガになるなんてインターネット上で聞き齧った話しか知らないが、そんなことが可能なのか、真山はまだ信じられなかった。都市伝説の類いだと思いながらも、いつかオメガになれたらと期待している自分もいる。 「どうだろうな」  曖昧に答えて、真山はふと思い出す。  爛れた生活はしていないが、セックスに関しては真山から誘ったことしかない。回数だって、同居が始まって二週間ほど経つが、今のところ一度だけだ。  出会い方が身体先行だったのは仕方ないとはいえ、本当は桐野はセックスなんてしたくないのかもと思ってしまった。  途端に胸の辺りを冷たいものが吹き抜け、心臓がざわつく。  専属契約をしてくれたから、嫌いなわけじゃないはずだと慌てて自分に言い聞かせる。  不意にやってきた寂しさに、真山の表情は少しだけ曇った。  北野はそれには気がついていないようで、薄く笑った横顔が目に入った。 「なんか、お前が幸せそうでよかった」  その横顔と言葉に少し救われた。ささやかな祝福の言葉は優しく胸に染み込んで、吹き込んだ隙間風を払ってくれた。 「ありがと」 「今度紹介しろよ」 「そのうちな」  桐野を紹介したらどうなるだろう。北野を前にして桐野の緊張する顔が目に浮かぶようだった。  そんな会話をしているうちに他の学生が入ってきてその話はそこでおしまいになった。  程なくして教授がやってきて、授業が始まった。  授業が始まってからも、真山の心の隅にはいつまでも桐野のことが残っていた。  一度生まれた疑念は簡単には消えない。  桐野は本当は自分とセックスなんてしたくないんじゃないか。本当は、やっぱりオメガの方がいいんじゃないか。  授業の間ずっと、そんな考えが頭の中をぐるぐると巡っていた。  ゼミの後は夕方まで図書館で勉強したが、ずっと桐野のことばかり考えてしまって何も手につかなかった。  図書館を出る前に桐野にメッセージを送る。 『これから帰るね』  少しして返事が返ってきた。 『わかった』  桐野らしい、短い返事だった。  大学から駅までは歩いて十分ほど。ゆっくり歩いていくと、だいたい同じくらいのタイミングで桐野の車がやってくるのを覚えた。  大学を出て駅前のロータリーに来ても、まだ桐野の車は見当たらなかった。道が混んでいるのかもしれない。桐野の到着を待つ間、真山は商業施設の並ぶ駅前を眺めて歩いた。  ロータリーの周辺にはチェーンの飲食店が並ぶ。  腹の減ってくる時間帯で、何もかもが美味しそうに見えた。  ふと、美味しそうな割り下の匂いと共に真山の目を引いたのは牛丼のチェーン店だった。  今までは自分へのご褒美に週に一度は行っていたのに、桐野と暮らすようになってからは一度も行っていない。さすがに少し恋しくなった。  そんな真山の耳に、喧騒に紛れてすっかり聞き慣れた静かな排気音が届いた。それほど大きな音ではないが、もうすっかり覚えてしまった音だ。  音のする方を見ると桐野の車が見えて、真山は足早にそちらに向かう。  停まった車に乗り込むと、桐野の笑みが出迎えてくれた。 「慎くん、お疲れさま」 「お疲れさま。そーいちさん、あのさ」  慌てたような真山の声に、桐野は不思議そうに真山を見た。 「牛丼、食べない?」 「牛丼?」  桐野が首を傾げた。 「だめ? あれ……」  真山の指差した先には、牛丼のチェーン店がある。視覚と嗅覚から攻められて、真山は完全に牛丼の舌になっていた。  桐野に高い店に連れて行かれるのにもいい加減慣れはしたが、今の真山には食べ慣れたものが恋しかった。  真山の示す先を見て、桐野は表情を和らげる。 「ああ、構わないよ」 「やった」  真山は小さくガッツポーズをした。 「ふふ、慎くんは牛丼が好きなのか」  そう言われると返答に迷う。好きは好きだが、焼肉と比べたら焼肉の方が好きだ。 「へ、あ、うん。あれ、たまに食べたくならない? ……ならないか」  庶民の食べ物だもんなと思う。真山にはスリーピースの上品なスーツ姿で桐野がカウンターに座って食べているところは想像できなかった。 「わかる。俺もたまに食べるよ」 「うそ、ほんとに?」  真山は思わず声を上げてしまった。 「ああ。たまに、秘書に買ってきてもらうんだ」  楽しげな桐野な声を聞いて、立派な社長室のデスクで持ち帰りの容器に入った牛丼を食べる桐野を想像するとなんだかおかしかった。 「よかったぁ」  食べたことなんてないだろうと思っていた真山は桐野の反応に胸を撫で下ろす。 「買いに行こうか」  二人で車を降り、店に入ってテイクアウトの注文をする。 「そーいちさん、これ、期間限定だって」  レジ前で真山が指差したのは期間限定の牛焼肉丼だった。 「じゃあ、俺はそれで。慎くんは?」 「どーしよ、そーいちさん、一口くれる?」 「ああ」 「やった。じゃあ、牛丼並」 「大盛りじゃなくていいのか」 「あ……、大盛りがいい」  もう、何も気にしなくていい。今までは食事量もセーブしていた。すっかり慣れてしまったが、桐野の前ではもう我慢しないことに決めた。  牛焼肉丼と牛丼大盛りを注文して、桐野が支払いを済ませると、少ししてテイクアウト用の容器に入った牛丼が袋に入れて渡される。  久しぶりの馴染みの味に心が躍る。足取りも軽くなるし、顔も緩む。 「ありがと、そーいちさん。見てたら食べたくなっちゃって」 「そんなに喜んでくれるなら毎日でもいいが」 「さすがに毎日じゃなくていいよ」  店を出た二人は笑い合いながら車に乗り込んだ。  家に帰り、桐野と二人でダイニングセットにテイクアウトの容器を並べる。  桐野の家のダイニングセットに牛丼の容器が並ぶのはなんだか不釣り合いでおかしくて、思わず笑みが零れた。 「いい匂い」  蓋を開けると、割り下の匂いが濃くなって食欲を刺激する。  向かい合ってダイニングセットに座り、手を合わせる。 「そーいちさん、いただきます」 「いただきます」  割り箸を割って、一口食べる。  久しぶりの味に頬が緩んだ。 「慎くん、ほら、一口食べるだろう?」 「ん、ありがと」  容器を差し出された真山は桐野の顔を見た。 「食べさせてよ、そーいちさん」  真山が悪戯な笑みを浮かべると、桐野は笑い、一口分を箸で掬って差し出してくれた。  桐野は箸使いも綺麗だった。  身を乗り出し、口を大きく開けてかぶりつく。  牛丼とは違う味付けが美味しくて、次行くときまであったらそっちにしようと思った。 「ふふ、ありがと」  二人で一緒に食べる久しぶりの牛丼は、いつもよりも美味しく思えた。  ずっと我慢してた食べものも少しずつ食べるようになって、桐野の世界を知るだけじゃなく、真山の世界も、桐野が知ってくれるのは嬉しい。  まだ少しだけ怖いけれど、隣に桐野がいて、笑ってくれる。それだけで、真山の小さな不安は消えてしまうのだった。  二人で過ごす日常は穏やかだった。桐野との生活にもすっかり慣れた。真山は週に二度は桐野にねだるようになっていた。  桐野はそれを喜んで受け入れてくれる。嫌がるような素振りは見えない。  本当は毎日でも抱いてほしいが、桐野にも仕事があることを理解している。  真山が誘えば桐野は応えてくれる。翌日が仕事でも、桐野は断らない。  たくさん甘い言葉も囁かれる。  それでも。  桐野から、求められることはない。  自分が欲しがりなだけなのだろうか。  真山はなんとなく釈然としないまま、眠りにつく前の桐野の横顔を見た。 「慎くん?」 「おやすみ」 「ああ、おやすみ」  柔らかな触れ合いは嫌いじゃない。  だけど。  もっとたくさん触って、抱いてほしい。  なんて、言えるわけがない。  胸の中に広がる苦い思いに気がつかないふりをして、真山は眠りについた。

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