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第16話 桐野の兄

 その日は授業のない平日だった。  出かける予定もなかったため、真山はグレーのスウェット素材のボトムと緩いTシャツ姿で自室に籠り、勉強しながら桐野の帰りを待っていた。  そんな午後のこと。  ノートに視線を落としていた真山の耳に届いたのは玄関の鍵が開く音だった。  反射的に真山はペンを置く。スマートフォンの時計を見ると、時刻は午後三時を少し回ったところだった。いつもより戻りが早いような気がするが、真山は桐野を出迎えようと足早に玄関へ向かった。  まるで主人を出迎える飼い犬みたいだと思う。真山は犬は飼ったことはないが、話は聞いたことがある。  帰ってきた桐野が自分を見上げて微笑む顔を思い出して真山は思わず顔が緩んだ。尻尾があったら間違いなく千切れんばかりに振っていると思う。犬はいつもこんな気分なんだろうか。  浮かれた足取りで玄関に向かった真山の目に映ったのは、桐野の姿ではなかった。  部屋を出てすぐ目に映った見知らぬ客人に、真山は足を止めた。  廊下の数メートル先、玄関で靴を脱いでいるのは、三十代前半くらいの青年だった。真山よりも背が高いように思う。  柔らかな茶色の髪は少しうねって、毛先がランダムに跳ねている。意志の強そうな二重のアーモンドアイに、灰色がかった薄い茶色の瞳。通った鼻筋に、厚めの唇。怜悧な印象を受ける端正な顔立ちには、何故か見覚えがあった。  仕立てのいいスーツからは、それなりの地位を持っていることが窺える。深い紺色のスリーピーススーツは彼の知的な印象を強めていて、何より、彼もアルファだということがすぐにわかった。彼から感じる気配は正真正銘、エリートのアルファのものだった。  どう見ても強盗などではなさそうだが、見ず知らずの彼が呼び鈴も押さずそこにいるということは、この家の鍵を持っているということに他ならない。  真山は自分と桐野以外で合鍵を持っている人間がいるのを知らなかった。  顔を上げた男と視線がかち合う。彼も、自分以外の誰かがここにいることを不思議に思っているようだった。 「……君は」 「真山、です」  名乗ったが、スーツ姿の彼に対して真山は部屋着姿だった。一日家にいるからと気を抜いていたのがあまりにも気まずくて、真山は視線を床に落とした。 「私は桐野(きりの)総亮(そうすけ)。ここに住んでいる桐野宗一の兄だ」  真山は思わず顔を上げていた。名前を聞き、兄と言われて納得した。それなら鍵を持っていてもおかしくない。桐野の面影があるのもそのせいだ。  桐野聡亮と名乗るその男は、ジャケットの内ポケットから取り出した名刺を差し出した。  真山はおそるおそる総亮のもとに歩み寄る。いきなりとって食われるようなことはないだろうが、見ず知らずの相手にほいほい近寄るのは躊躇われた。  真山は男に向けていた視線を名刺に落とす。名前の上にはキリノグループ代表取締役会長と書かれている。  会長となれば社長の桐野より上だ。  名刺を受け取った真山に、目の前にいる総亮は僅かにその目を細めた。  その視線には品定めをするような光が見えて、真山は思わず身構える。  今日は一日留守番をするつもりだった。だから、気の抜けた部屋着姿でも許してほしいと思う。 「真山くん、君は、宗一の友人か」  総亮の問いに、真山はどう答えるべきか迷った。恋人と言ってしまってもいいものだろうか。だが、嘘をつくわけにはいかない。相手が桐野の家族だろうと、自分が桐野の恋人だと言っておく必要がある。  桐野の兄、総亮の視線を受け止め、真山は総亮に向き合う。 「いえ」 「では、なぜここにいる」  途端に空気が張り詰めた。総亮の声に柔らかさはあるが、同時に圧力も感じる。部外者に対する色濃い警戒が窺えた。 「こ、恋人です」  緊張で声が震えた。なぜと言われたら、真山はそう答えるしかなかった。友人と言えば嘘になる。真山は、契約書まで交わして、桐野の恋人としてここにいるのだから。 「恋人?」  総亮の怪訝そうな声とともに形の良い眉がひくりと震え、視線が急激に冷えた。  刺すような鋭さの視線は、真山を簡単に射抜く。 「おかしなことを言うな。君はアルファだろう」  総亮は端正な口元を歪めて笑う。薄茶色の瞳には明らかな敵意を感じた。  隠すつもりもなかったが、真山がアルファだということは総亮にバレていた。  総亮は真山から視線を外さない。 「見たところ大学生くらいか。なんと言い寄ったんだ?」  総亮の投げて寄越す不躾な言葉は、簡単に真山の神経を逆撫でした。 「は?」  流石にそれには真山も頭にきた。まるで真山が桐野に取り入って恋人になったような言い方だ。  確かに出会ってからの手順は普通とは違うし、アルファとアルファだが、ちゃんと互いの同意のもと恋人になった。いくら桐野の兄とはいえ、そんなことを言って良いはずがない。  そんなんじゃないと言葉が喉まで出かけた真山の目の前、総亮の背後で勢いよく玄関のドアが開いた。  飛び込んできたのは桐野だった。  余程急いで来たのだろう。スーツ姿の桐野は肩で息をして、頬が少し赤くなっている。  桐野はその目に総亮を捉えると、上擦った声を上げた。 「兄さん、連絡をいただければ、僕が迎えに行ったのに」  桐野は心なしか慌てた様子で、総亮から真山を庇うように真山と総亮の間に割って入った。見送った時に着ていたのと同じ、ネイビーのスリーピーススーツを着ている。  桐野の登場で、玄関を包む空気は少しだけ変わった。総亮の纏う空気が明らかに和らいだのが真山にもわかった。 「宗一、彼は」  総亮の落ち着いた声がして、その視線はもう桐野に向いていた。 「彼は、真山慎くん。僕の恋人です」  桐野の言葉には何の迷いもなかった。  こんなにもはっきりと強い声で断言する桐野を、真山は初めて目の当たりにした。  あの穏やかで臆病で何かにつけて真山の顔色を窺う桐野が、自分の兄に対してはっきりとものを言う姿に真山は全身が粟立ち、心臓が震えた。  愛らしい姿をしていても桐野が年上でアルファなのだと思い知らされ、同時に安堵もしていた。  一方の総亮は形の良い眉を顰め、整った顔立ちを引き攣らせて明らかな怒りを滲ませていた。 「血迷ったか宗一。アルファを恋人にすれば、箔がつくとでも?」  それを言い出したのは真山だった。ただの出まかせだったが、全部見抜かれているようで真山は唇を噛む。なにより、自分の言い出したでたらめで桐野を傷つけているようで耐えられなかった。 「ちょっと、それは言い過ぎじゃないですか」  悔しかった。自分のことはともかく、桐野が好き放題言われているのが気に入らない。真山は文句の一つも言ってやりたくて咄嗟に口を開いていた。 「君は下がっていろ。これは私と宗一の問題だ」  真山の言葉は容易く一蹴された。総亮にはもう真山のことなど眼中にないようだった。  そうなってしまうと真山は黙るしかない。  自分がオメガだったら総亮の反応は違ったのだろうか。真山は、自分がアルファであることを少しだけ呪った。  何度目かわからない。自分に与えられたアルファという性がまた、真山の胸に痛みを生む。 「それで父さんが納得すると思うか」  桐野に向き合った総亮が静かに言い放つ。 「それは……」  桐野は口籠る。握りしめた拳が微かに震えていた。  その父親という存在が目の前の二人にとってどれほどの存在か、真山にはわからない。桐野から聞いた話でしか知らない桐野の父親に、真山は思いを馳せた。厳しいということは聞いていたが、桐野が言葉を失うくらいには手強く、大きな存在なのだろう。 「このところ何かしていると思ったら、こういうことか」  総亮は呆れた様子で小さく息を吐いた。  話が見えなくなって蚊帳の外になってしまった真山には、黙って二人のやりとりを見守るしかできなかった。 「話は進めてある。また連絡する」 「待ってください」  踵を返した総亮を桐野の声が引き止めようとするが、総亮は聞く耳を持っていない。 「こんなの、相手にも失礼だ」  桐野の上げた声は硬い。  総亮は振り返る。兄から弟へと向けられた目は冷えきっていた。  それでも、怯んでいる場合ではない。真山は総亮に何か言ってやりたかった。 「俺は、絶対この人を幸せにします」  口をついて出た言葉に、総亮が刺すような視線を寄越した。背を這う冷たいものに真山は息を呑む。  それでも真山は引くつもりはなかった。隣で笑ってくれる桐野を、不安を払ってくれる桐野を、守られるばかりではなく、自分も守りたいと思った。自分を幸せにしたいと言ってくれた桐野を、幸せにしたいと思った。 「どうするつもりだ。宗一をオメガにでもするつもりか?」  そんなことは許さないとでも言いたげな怒気と嘲笑混じりの低い声が、棘となって真山の胸に突き立てられた。  そこにはもう敵意しか見えない。自分よりもずっと年上の大人から向けられる刺々しく冷たい言葉に、真山は息が詰まるような苦しさを感じた。  何の覚悟もなく桐野の恋人になったつもりはなかった。しかし、桐野の家族からしてみればそんなことはどうでもいいのかもしれない。 「そんなこと、しません」  真山はいつの間にか震えていた。さすがに頭にきていた。  喚きたい気持ちを何とか押さえつけて、真山は静かに答える。そんな真山の言葉は総亮に届いたのか定かではない。  真山には桐野をオメガにしようなんて気持ちは欠片もない。そんなこと、したくなかった。  桐野はアルファだ。自分なんかよりも余程、アルファらしい。どちらかといえばオメガになりたいのは自分の方だ。  そんなことを言っても、きっと笑われるだけだとわかっている。真山は口を噤んだまま、視線だけは総亮から逸らさなかった。  黙り込んだ真山をしばらく見つめ、総亮は真山から目を逸らした。負けたわけでは決してない。ただ、ここでこれ以上話すのは無駄だと思った、そんな雰囲気だった。  真山も、その一言だけで総亮が納得したなどとは思っていない。 「また連絡する」  静かな言葉が響いて、総亮が踵を返した。ドアが開き、総亮の後ろ姿がドアの向こうに消える。  静かにドアが閉まると、小さなため息が聞こえた。桐野のため息だった。

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