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第17話 嵐のあと

 総亮のいなくなった後、玄関には真山と桐野の二人だけになった。  音のなくなった玄関は、鼓動まで聞こえそうなくらい静かだった。  桐野が重たい足取りでドアの前まで進む。  鍵のかかる小さな音がやけに大きく響いて、続いてドアチェーンがかかった。  桐野が振り返る。ドアを背に真山を見上げるその顔は、泣き出しそうだった。 「慎くん、すまない」  吐息のような消え入りそうな声がして、桐野は深々と頭を下げた。  それには真山の方が驚いた。桐野がそんなことをする必要はないのに。 「そーいちさん、いいよ、顔上げて」  桐野はのろのろの顔を上げると、悲しげに濡れた瞳を揺らして真山を見上げる。ひどく傷ついた顔をしていた。 「その、他にもひどいことを言われていないか?」 「ん、へーきだよ」  真山はできるだけ優しい笑顔を作った。なんだか笑いたい気分だった。桐野が悲しそうな顔をするから、自分だけでも笑わなければと思った。  桐野はそんな真山の目の前まで来て、抱きしめてくれた。震えているのがバレてしまうと思ったが、抱きしめてくれた桐野も震えていて、真山は思わず笑った。 「はは、めちゃくちゃ震えてる」  桐野は真山の肩口に額を擦り付けた。  その甘えるような仕草に誘われるまま、真山は桐野の形の良い頭を撫でた。指先に触れる髪の柔らかさが気持ちよくて、頬を擦り付ける。シャンプーの匂いがして、真山の緊張は少しずつ解けていく。 「俺なら、大丈夫だよ」 「慎くん」  くぐもった声に呼ばれて真山は穏やかな声で応えた。 「俺、ちゃんとお兄さんに、そーいちさんの恋人だって言ったよ」  子供が親におつかいの結果報告をするみたいだと思った。ちゃんと、桐野が自分の恋人だと誰かに言えることを、伝えたかった。  腕の中から真山を見上げて、桐野は笑った。 「ありがとう」 「そーいちさんが入ってきてすぐ、俺のことを恋人だって言ってくれたの、かっこよかった」 「あ、あれは、必死で……」  照れたのか、桐野の頬が赤く染まる。 「ふふ。そーいちさんも、同じこと思ってるってわかって、嬉しかった」  桐野の迷いのない言葉を思い出して、また胸が震えた。あんなに力強くて芯のある声で桐野が言ってくれたことが嬉しかった。 「驚かせてしまってすまない、慎くん。実は、兄が勝手に縁談を進めていて、元々乗り気じゃなかったし断ろうとしたんだ。そしたら、うちに来ると言い出して。止めようとしたんだが、間に合わなかった」  肩口に額を押し付けて俯く桐野が紡ぐ言葉の中に聞こえた耳慣れない単語が引っ掛かった。  胸がちくりと痛む。 「縁談?」 「ああ、オメガとの。兄の知り合い、らしいが」  お見合い、というやつだろうか。  もしもさっさと縁談を進められていたら、桐野とは出会えなかっただろう。  オメガ相手に、真山が勝てるものなどあまりに少ない。  何にせよ、桐野が断るつもりでいてくれたことに真山は安堵した。 「ちゃんと恋愛がしたかったのに、うまくできないまま、ずるずるこの歳になってしまって、兄にはいい加減身を固めろと言われて」  ぽつりぽつりと雨粒のように零れる桐野の言葉に、真山は静かに耳を傾ける。 「相手くらい、自分で見つけたくて」 「それで、モン・プレシューに?」 「ああ。知り合いに勧められて」  なるほどと思った。疎そうな桐野がどうしてあんなサービスを見つけたのか不思議だった。誰かからの紹介なら納得できる。誰かわからないが、桐野にモン・プレシューを紹介してくれた知り合いに礼をしたいと真山は思った。 「せっかく、君を見つけたのに」  桐野が苦しげに呟く。 「君と、恋がしたいと思ったんだ」  その言葉に、真山の心臓は甘く痛む。桐野がそう思ってくれていたのが嬉しい。そんな思いを抱いていたのが自分だけではなかったことに胸を撫で下ろす。  想いが重なった気がして、真山の胸に溢れるのは安堵と愛しさだった。 「俺も、そーいちさんがいい」  真山は桐野の髪を撫でた。シャンプーの香りがする。自分と同じ、だけど桐野の匂いと混ざった特別な匂いだ。 「そーいちさん、自分のこと僕っていうよね、たまに」  真山の言葉に、桐野は慌てた様子で顔を上げた。 「っ、あ、すまない、アルファらしくしないとと思ってるんだが、気を抜くと……」  頬を赤くして、桐野は苦笑いした。 「無理してた?」  そんな様子が可愛くて頬を緩めた真山が訊くと、桐野は躊躇いがちに小さく頷いた。  やっぱりそうかと、真山は思う。俺という桐野が嫌いなわけではないが、どちらかといえば、僕という桐野の方が真山にはしっくりきた。 「俺の前では無理しなくていいよ」  一生懸命に背伸びしようとしているみたいで、何だか微笑ましいと思った。  同時に、桐野が自分にそうしてくれたように、そんな桐野を受け入れたいと思った。 「僕って言うそーいちさん、好きだよ」  そのままの桐野を見せてほしいと思った。どんなところでもいい。強いところも弱いところも全部見せてほしかった。 「その方が、そーいちさんぽくて好き」  真山はそんなことを言って桐野が気を悪くしないか心配だったが、桐野は機嫌を損ねた様子はなかった。 「慎くん、ありがとう」  怒られるどころか感謝までされてしまって、真山は拍子抜けした。 「君が、僕を幸せにすると言ってくれて、すごく嬉しかった」 「言われっぱなしなの、悔しくて」  何か言わなければと必死で、桐野に聞かれていることを忘れていた。  真山を見上げて桐野が笑う。恥ずかしかったが、桐野が笑ってくれて安堵した。もう二度と、泣きそうな顔をさせたくないと強く思った。 「このことは兄にもう一度話をするから、君は気にしなくていい。僕は、君以外を選ぶつもりはない。だから……」  焦ったみたいに言葉を継ぐ桐野を安心させたくて、真山は微笑む。 「ん、大丈夫だよ」 「ふふ、ありがとう、慎くん」  桐野は安堵と喜びの色を乗せて、薄茶色の瞳を甘く揺らす。  それだけで真山の胸は甘い疼きを覚えた。  もう、桐野に悲しい顔をさせたくない。隣にいて、笑顔にしたい。笑顔を見たいと思った。 「……疲れたな。今日は早く休もう」  肩を落とし、ため息のように吐き出された桐野の声はその言葉の通り疲れが滲んでいた。 「ん。晩御飯、作るね」 「せっかくだ、一緒に作ろう」 「そーいちさん、料理すんの?」 「ああ。たまにだが」  真山から見た桐野の笑みは、もういつもの柔らかなものだった。  二人で並んでキッチンに立つのは新鮮だった。  袖を捲った桐野の腕はうっすらと血管が浮き、筋肉が薄く陰影を落としている。逞しい腕をしていることに、真山の鼓動が早まった。  たまにしか料理をしないと言う桐野だったが、自炊に慣れた真山から見ても手際が良かった。自炊に慣れている真山から見ても、動きに無駄がない。  真山が昼食用に買い置きしていたパスタソースと冷凍していた挽肉を使って、二人でボロネーゼのパスタを作った。  桐野がワインを出してくれて、テーブルの上にはパスタとワイングラスが並ぶ。 「食べようか、慎くん」 「うん、いただきます」 「いただきます」  揃って手を合わせるのもすっかり慣れた。  二人で囲む食卓はいつだって楽しい。  さっきまでの重苦しい緊張は、ワインがもたらす心地好い酩酊感にぼやかされていった。  その夜は、一緒に風呂に入った。ワインの酔いが薄れた頃、バスタブにお湯を張って、桐野おすすめの入浴剤を入れて、二人で浸かる。桐野が真山を抱き抱えるようにして、真山は桐野の胸に頭を預けた。 「なんか、疲れたね」  あんなに年上の人間とやり合うのは初めてで、だいぶ神経がすり減った気がした。真山の吐いた小さなため息は、立ち上る湯気に混じって消えていった。 「そうだな。明日は、どこかへ出かけようか。授業、ない日だろう?」 「いいの? そーいちさん、仕事は?」  真山は講義がないが、桐野はそうもいかない。桐野は社長だ。真山が知る限り、桐野は平日はいつも何かしら仕事をしている。 「明日は無理に働かなくても大丈夫だ。急ぎの仕事はもう片付けた。あとは明後日でも問題ない」 「ならいいけど」  桐野が自分のために時間を作ってくれるのは嬉しかった。いつだって、桐野は真山を優先してくれる。  真山の胸は甘くとろけた鼓動を奏でる。 「たまにはゆっくりしよう」  桐野の唇がこめかみに触れた。  そうやって甘く優しく触れ合って、過熱しすぎる前に風呂から上がって、一緒にベッドで眠るのはここ最近の習慣になっていた。  桐野は真山に優しく唇で触れるばかりで、それ以上のことはしなかった。  キスの最中に誘うように悪戯に舌を絡めても、優しくいなされてしまう。  こんなふうに柔らかで穏やかな触れ合いは好きだ。でも、真山の本能はもっと深くまで触れられたいと喉を鳴らす。嬉しいのに、胸が痛い。  まだ青く貪欲な真山には、快感が足りなかった。  もっと深くまで荒々しく暴いて欲しいと、薄暗い願いを抱いてしまう。  こんなこと、桐野が知ったらどう思うだろう。  今度こそ淫乱だと言われるだろうか。  嫌われるだろうか。  そんな想いが重くのしかかるのに、身体ははしたなく熱を上げて桐野を求める。  臆病な真山には、それを言葉にすることはできなかった。  桐野から真っ直ぐ向けられる愛情に気付かないほど鈍感でもない。  それでも抱いてくれないのは、やはり自分がアルファだからなのか。  自分に何が足りないのか。  そればかり考えてしまう。  桐野の顔を見て名前を呼ばれればそんな気持ちはぼやけて消えてしまうのに。

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