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第18話 嫉妬と羨望と憧憬の香り
桐野の兄、総亮の突然の来訪から一夜明けると、もう二人の生活はもういつも通りだった。
今日は平日だが、真山は授業のない日で桐野は急遽休みを取ったため、朝食を終えても二人ともまだパジャマ姿でキッチンにいた。
「慎くん、今日なんだが、買い物に行かないか」
洗い物を片付ける真山に届いたのは、真山が淹れたコーヒーを楽しんでいるはずの桐野の声だった。
昨夜、桐野と出かけようと話をしたが、行き先は決めていなかった。
「買い物?」
洗い物を終えた真山は、マグカップに入れたコーヒーを持って桐野の正面に座る。何か必要なものがあっただろうかと真山は思う。
冷蔵庫の中身を思い返す真山の向かいで、桐野は恥ずかしそうにコーヒーの入ったマグカップに視線を落としていた。
「その、君さえ良かったらだが、指輪を、買いたくて」
真山の心臓が跳ねる。どうしてこの男はこんなにも真山の胸を騒がせるのだろう。真山の鼓動は寝起きから間もないというのに、もう騒がしく鳴っていた。
「ゆび、わ?」
「遅くなってしまったが、恋人になったから、その証に」
桐野は上目遣いに真山を見て、そわそわと指先でカップを弄っている。落ち着きのない指先が桐野の緊張を物語っていた。
桐野にしてみれば笑い事ではないだろうが、なんだか微笑ましくて、真山は気付かれないように少しだけ頬を緩ませた。
桐野の様子を眺めていて返事が遅れた。それを桐野は何か勘違いしたらしい。
「っあ、指輪じゃない方がいいだろうか」
桐野の慌てたような声に、真山は首を小さく横に振った。
「ううん。嬉しい。指輪にしよ」
真山にはピアス穴も開いていないしネックレスをするのも慣れていない。ペアリングもつけたことがなかったが、憧れはあった。
お揃いの何かを身につけられるのかと思うと、自然と笑みが零れた。そんな真山を見て、桐野はほっとしたようだった。
気分転換にはいいかもしれない。食品や日用品以外の買い物にはまだ行ったことがなかった。
桐野と一緒に出かけるのは、真山も楽しみだった。
お揃いの指輪。またひとつ小さな夢が叶うのかと思うと、真山の心は温かいものに優しく包まれた。
スーツ姿の桐野の方が見慣れているせいで、二人揃って私服で出かけるのはなんだか新鮮だった。
桐野は白いカットソーにジャケットを羽織り、黒のトラウザーとスニーカー、真山はグレーのパーカーに細身の黒パンツとスニーカーを合わせた。
桐野の運転で向かった先は百貨店だった。
真山のリクエストでメンズ服のフロアを二人並んで眺めた後、ジュエリー売り場に向かった。煌びやかなジュエリー売り場は眩しくて、桐野と並んで歩くのは何だかこそばゆい。近くには指輪を探しているらしい二人が何組か見えたが、その中に自分が混じっているのが何だか不思議だった。
「慎くん、これは?」
足を止めた桐野が示したのは、磨かれて曇りひとつないショーケースに並ぶペアリングだった。
シンプルなデザインで、どちらかといえば結婚指輪のような見た目だ。装飾がない分、普段つけていても悪目立ちすることはなさそうだった。
「いいかも」
言った真山だったが、その視線を値札にずらした途端に心臓が跳ねた。
「……っ、まっ、て、桁が」
真山は思わず上擦った声を上げた。真山が想像していたものより桁がひとつ多い。そんな気安く買えない金額を前にして、動揺を隠せない。
「ああ、プラチナだから」
桐野はなんてことのないような声で言う。
「そんなんじゃなくていいって」
「金属アレルギーか」
「いや、そうじゃなくて」
真山の戸惑いの元がそれではないことは桐野には伝わっていないようだった。
「桁が、おかしいって」
「金額の心配ならいらない」
桐野がこともなげに微笑むのを見て、格の違いを見せつけられるのと同時に流石に収入のあるアルファは違うなと真山は思う。
「試着してみたらいい。すみません、彼にこれの試着を」
「っえ、いいよ」
プラチナなんて、触ったこともなかった。扱い慣れていない真山は落としたりぶつけたりしたそうで、身体には緊張でうっすらと汗が滲む。
「遠慮しなくていい。きっと似合う」
ちらりと見た桐野は優しく微笑んでいる。
澄んだ声にそう言われたら、真山はもう断れなかった。
用意された確認用のリングを指に嵌めてサイズを確認したあと、手袋をしたスタッフに指輪をつけてもらう。
真山の骨張った薬指に、煌めくプラチナのリングが嵌められる。
試着なのに、それだけでなんだかくすぐったい気持ちになる。
初めてのお揃いの指輪を見つめ、真山は小さくため息をつく。自分には過ぎたものだとわかっていても、震える指で煌めく繊細な輝きがなんだか愛おしく思えた。
「……どう、そーいちさん」
場違いさを感じながら桐野の方を窺うと、桐野は満面の笑みを浮かべた。それがあまりに嬉しそうで、真山の胸にあった不安など容易く消し飛んでしまった。
「慎くんは指が細いから、よく似合うな」
「ありがと」
桐野のようにしなやかでも華奢でもない、骨張った指をそう言われると照れてしまう。
「他に気になるものは?」
桐野に言われ、試着した指輪をスタッフに外してもらった真山は、ショーケースを見回す。
磨かれたケースの中には、ライトアップされてきらきらと輝くいくつもの指輪が並ぶ。
槌目仕上げのものや小さな石の嵌ったものなど様々で、真山はただ圧倒されるばかりだった。
誰かと指輪を選ぶなんて初めての体験だ。
アクセサリーにそれほど興味を持ったことのない真山にはどれがいいのかまるでわからず、迷うばかりだった。
「んー、と……っ、ぇ?」
ショーケースに視線を彷徨わせる真山の耳に、遠くのざわめきが届いた。
どこかから漂ってきた甘い匂いに眩暈がする。
ふらついた真山の身体を桐野が支えてくれた。
徐々に濃くなる甘い匂いに、真山は咄嗟に口と鼻を手で覆った。それでもなお鼻腔に絡みつくような濃く甘い匂いに喉が渇く。鼓動が早まって、腹の底が熱くなる。凶悪さを滲ませる甘い匂いに、真山の肌が粟立った。
それが何の匂いかすぐにわかった。
オメガがヒート時に放つフェロモンだった。
アルファもベータも構わず惹きつける、蠱惑的な香り。アルファの本能を目覚めさせる強い香りに、真山の視界がくらくらと揺れる。立っているのがやっとで、支えてくれる桐野にしがみつく。
桐野は大丈夫なのだろうかと真山がちらりと見遣ると、桐野は涼しい顔をしている。
「慎くん?」
「そ、いち、さ」
唇が震える。声も上手く出せない。
真山は抑制剤を飲んでいなかったのを思い出す。しくじった、と思った。
最近出かけることが減ったせいか、忘れていた。
アルファ向けの抑制剤はヒートにでくわしたときの事故を防ぐのが目的だ。抑制剤なしでヒートのフェロモンに抗うのは至難の業だ。昔一度体験してから、懲りたのに。
身体が熱い。吐息も熱を帯びている。
「これ、オメガの……」
途切れがちな真山の言葉で桐野も気がついたらしい。
「ああ、くそ、ヒートのフェロモンか」
桐野が小さく唸るような声を上げた。
真山はもう買い物どころではなく、買い物は中断を余儀なくされた。
桐野はスタッフに何か伝え、真山を連れて売り場を離れた。桐野はしっかりと真山の腕を捕まえてくれている。桐野の手のひらから伝わる温度が辛うじて真山の意識を縛り付けていた。
真山を誘うように、甘い匂いが纏わりついてくるようだった。そっちには行きたくない。桐野から離れたくない。真山は震える手で桐野の袖を掴む。
売り場のざわめきなんて、とうの昔に耳に入らなくなっていた。心臓の音が煩いくらいに身体の中で反響して、鼓膜はその音ばかりを拾う。
照明がひどく眩しくて目を眇める。世界が滲んで揺れる。何もかもが不快で、足元が崩れるようで不安だった。
身体が重い。絡みつくような甘い匂いは抗い難い誘惑だった。
身体が震えるのに、身体の芯は恐ろしく熱い。
嫌なのに、匂いの元を探したくなる。それはアルファの本能によるものだ。
「そ、いちさ」
桐野の腕を掴む手に力を込める。それでも、手が震えていつもより力が入らない。
「慎くん、大丈夫。こっちだ」
桐野に支えられながら、真山は覚束ない足取りで歩く。ジュエリー売り場を離れた二人は甘い香りから逃げるようにしてフロアの端へと向かう。
すぐそばにいるはずの桐野の存在が朧げで、心細くなる。周りのざわめきも遠い。触れている温もりに縋るようにして、真山は桐野にエスコートされた。
呼吸のたびに肺深くまで吸い込まれる甘い匂いが忌々しい。求めてもいないのに、強引に理性を剥がされていく。
これが自分にあれば、桐野は自分を抱いてくれるのだろうか。嫉妬と羨望の混じった思いとは裏腹に、真山の腹の底ではアルファの本能が目を覚まし、オメガが欲しいと騒ぎ出す。
俺が欲しいのは、そーいちさんなのに。
真山は悔しくて奥歯を噛んだ。
自分にもこれがあればと思う。見せつけられるようで悔しかった。無い物ねだりなのも逆恨みなのもわかっている。どうしようもない嫉妬と羨望と憧憬とが入り混じって、真山の胸を掻き乱す。
自分がひた隠しにする薄暗い部分を無理やり引き摺り出されるようで、この匂いは嫌いだった。
オメガのフェロモンを浴びるたび、真山はそんな苦々しい思いを抱く。
匂いの元を探しに行こうとする本能を押さえつけるのは容易ではなかった。隣で名前を呼んでくれる桐野がいなければ、今頃オメガを見つけ出してその項に噛みついていたかもしれない。
桐野には感謝しかない。
桐野はフロアの外れの、人気のない階段まで真山を連れて行ってくれた。平日の、客の少ない時間帯で良かったと思う。
階段は人気もなく静かで、少しだけ気が楽になった。
真山を苛む甘い匂いも少しばかり和らいだ。きっと匂いの元のオメガは保護されたのだろう。
出先で、今日のように偶発的に発情を起こしてしまうオメガは少数だがいる。抑制剤が合わなかったり、体調の関係だったり、理由は様々だ。そんなオメガは、緊急処置として保護される。駅やこういった商業施設には必ずと言っていいほどそう言った場合の対応機関が用意されている。急病人が出たら救急車を呼ぶようなものだ。
どこの誰かもわからないオメガの無事を頭の隅で祈りながら、真山は壁に凭れ掛かり、そのまま床に座り込む。
頬に触れたコンクリートの壁が冷たくて気持ちいい。
そんな真山の傍らに、桐野は視線を合わせるようにして膝をついた。
桐野はジャケットのポケットから三センチ四方の小さな銀のパッケージを出した。破って取り出したのは直径一センチほどの白いタブレットだった。
「慎くん、オメガフェロモンの中和剤だ。口で溶かすだけだから」
顔を上げた真山の口の前にタブレットが差し出される。レモンの爽やかな香りがぼやけた意識を少しだけ鮮明にしてくれた。口を開けたいのに、唇さえも思うように動かせなくて、小さなタブレットすら上手く口に含めない。もどかしくて声を上げても、それはうまく言葉にならなかった。
「あ、ぅ」
唇が乾いている。視界が揺れて、身体が熱い。
「そ、いち、さ」
ぼやけた視界に映る桐野に、真山は縋るような視線を向ける。
「しん」
桐野がタブレットを咥え、そのまま真山に顔を近付けた。
唇に硬いタブレットが触れる。
唇が深く重なって、桐野の唇の温度を感じたかと思うと、レモン味の甘酸っぱいタブレットが口の中へ捩じ込まれた。
熱い舌とともに送り込まれたそれが、真山の口の中でゆっくりと溶けていく。
百貨店のフロアの外れ、人気の無い階段。秘めやかに交わされる深い口づけは堪らなく甘美なものだった。
熱でぼやけた頭ではただそれに酔いしれるだけで、真山は与えられるままに舌先に触れるタブレットを舐め、桐野と舌を絡める。
爽やかなレモンの味が口いっぱいに広がっていく。粘膜を柔く撫でられる感覚に、真山は身体の芯が震えた。
タブレットが溶け切るまで、桐野は唇を離してくれなかった。
レモン味に染まった唾液を全部飲み切ったところで唇が離れて、滲んだ視界にぼやけた桐野の姿が映る。
「そーいちさん」
「慎くん、大丈夫か?」
うずくまった真山を包み込むように抱きしめ、桐野は優しく背中を撫でている。
「もっと、ほしい」
もっとキスをして欲しい。抱きしめて欲しい。フェロモンに当てられて緩みきった真山の理性は、もうまともに働いていないようだった。
「車に行こうか」
優しい声とともに、桐野の手は宥めるように真山の頬を撫でた。自分より低い温度の手が心地好い。
ふやけた思考のまま、真山は素直に頷いた。
二人は店を出て、立体駐車場に停めた車の後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉まると、そこはもう桐野の匂いしかしない。散々強いオメガのフェロモンに曝された後に、桐野の匂いはひどく優しいものに感じた。
安心して涙が出てきて、真山は鼻を啜った。
「そーいちさん、おれ、そーいちさんしか欲しくないのに」
真山は桐野にしがみつく。オメガのフェロモンに惹かれてしまう自分が悔しい。本能だと言ってしまえばそれまでだが、真山はそれに抗いたかった。
真山の本能をねじ伏せてでも、桐野に抱かれたかった。
「慎くん」
まだ熱い身体を桐野に抱きしめられる。その力強さに、真山の心臓の鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ありがとう、慎くん」
擦り寄る真山の身体を、桐野はきつく抱きしめた。濃くなる桐野の匂いが心地好くて、肺深くまで吸い込む。
「行かないでくれてありがとう」
桐野の掠れた声が聞こえて、真山の胸が熱を帯びる。桐野の手のひらに頭を撫でられると、どうしようもなく嬉しくて、真山は震える吐息を吐いた。
「そーいちさん、キスして」
真山のねだる声に、答える代わりに唇が重なる。温かな桐野の唇は、まだ少しレモンの味がした。
唇を触れ合わせ、舌先をくすぐり合う。
桐野は宥めるようなキスを続け、少しだけ落ち着いたところで、真山は家に連れて帰られた。
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