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第1話 出会い

「綾人ー。お前、次のコマB棟じゃ無かった? 早くいけよー。いつまでも寝てんな!」  どこにいても頭に響くほど大きな瀬川の声で、綾人はようやく目を覚ました。今日は教授の都合で休講が立て続き、三コマ分も時間が空いてしまっていた。  連日悪夢を見て寝不足気味だったため、学食のテラスでしばらく仮眠をとっていた。いつの間にか、そのまま熟睡してしまっていたようだ。それでも結局、またいつもの悪夢を見てしまい、ぐっすり寝た割には寝覚めは最悪の気分だ。 「あー、結局ずっと寝てたのか。なんか時間もったいねー……」  綾人がここに座った時には、まだ朝の柔らかい日差しの中だった。それがいつの間にか、全てのものの輪郭をくっきりと描き出しそうなほどに、太陽が張り切って仕事をしている。もう昼食時になっているようで、周囲は学生でいっぱいだった。  若者が集うと、それだけで熱気が籠る。しかも、今日は雨が降り出す前なのか、湿度も高くて不快極まりない状態だった。 「あっちー。こんな状況でよく寝てられたな……あー、だから悪夢見たのか」  桂綾人は、この大学の文学部で哲学宗教系の学科を専攻している。二年次以降の研究対象を仏教のみにするか神道にするか、密教を学ぶかで悩んでいるところだった。そのことを考えすぎているからだろうか。最近、前世や転生、運命や宿命といった類の夢を見ることが増えていた。 「嫌な夢だったなあ。マジで首切られそうな感覚あったんだけど……何やったんだよ、子供のくせに」  綾人は手を首に持っていき、刀の冷たさを感じていたあたりにそっと触れてみた。もちろん、そこはちゃんと繋がっている。そうでなくては今頃大騒ぎだ。  そんな当たり前のことを確認しないといられないほど、今し方みた夢があまりにもリアルだった。恐怖で苦しくなっていく呼吸や、生への渇望、そして絶望。その全てがまるで本当にあったことのように感じられた。 「打首か……死刑になるような人生になんて絶対したくないし。罪人になる夢なんて最悪だ」  片手で首に触れながら、片手で荷物を拾い集めていた。眠っている間に全て落としてしまったらしい。気がつくと足元にテキストやノート、資料やペンなどがバラバラに散らばっていた。  なんとか荷物をバッグに詰め込んで立ち上がると、遠くからまた瀬川が呼ばわる声がした。 「綾人ー! 何時間寝てたんだよ。首痛くねえか? すごい格好で寝てたぞ、お前。てか、返事くらいしろよな」  瀬川は、綾人が返事を全くしないにも関わらず、喋り続けながらこちらへ近づいてくる。遠くから話しかけるから、いつも周囲への迷惑が気になる。何度注意しても直さないので、最近は無視するようになってしまっていた。 「あ、そうだ。四限もキャンセルだってよ。今日の講義ゼロだな」 「はあ!? まじかよー。来た意味ねーじゃん……」  綾人はせっかく拾い上げた荷物を、また全てバサバサっと落としてしまった。綾人のその落胆ぶりに瀬川は苦笑いをして、荷物を拾い上げるのを手伝った。瀬川は、かいがいしく綾人の世話を焼くことを、心から楽しんでいるようだ。 「お前、何やってんだよ。そんなショックだった? 講義なくなったのって、ラッキーじゃん。なんか今日変じゃないか? ずっと寝てるし、荷物落とすし、返事しねえし」 ——返事しねえも何も、お前と行動を共にする必要がないからだろう。  そうは思いながらも、それは絶対に口に出してはいけないことを綾人は知っていた。そういうことを言うと、この男は後々面倒くさい。いかに綾人のことを大切に思っているかという恥ずかしい話を、大声で話し始めるからだ。綾人は本心にそっと蓋をして、世間話でお茶を濁すことにした。 「最近、変な夢ばっかり見んだよ。寝てもずっと疲れてんだわ。悪夢の時って、体に力入るだろ?」  くわっとあくびを噛み殺しながら、綾人はまたテーブルに突っ伏した。どうにも眠気がおさまりそうに無い。 「しかも一限と四限しか講義が無い日に、どっちも休講だぜ。めんどくせー。家で寝てりゃ良かった……」  そう言いながらも綾人はウトウトしていたのだが、春先とはいえ陽の光が当たり続けたテーブルは、もう寝るには暑過ぎた。「クソっ」と一言呟くと、荷物を持って立ち上がった。 「どこいくんだよ?」 「もう帰るわ。まだ眠いけど、ここ暑くて寝らんねー。じゃあなー」  そう言ってバックを肩にかけながら振り返り、瀬川の前から退散しようと急いだ。瀬川に捕まると飲み会だなんだと連れて行かれ、数時間無駄に潰すことになる。飲み会も嫌いでは無いけれど、バカ騒ぎするのは短時間でいい。  ずっと騒ぎ続けている奴らと一緒に過ごせるような体を、綾人は持ち合わせていなかった。ただでさえ疲れやすい体質な上、ここ最近よく眠れない日が続いている。さっさと家に帰ろうと、勢いよく後ろを振り返った。  すると、すぐ近くに背の高い男が立っていた。綾人は背後に人の気配が無いことを確認してから振り返ったため、勢いよく歩を進めてしまっていた。  人の気配を察知することに自信がある綾人は、まさか至近距離に人が立っているとは思っていなかった。気が付いた時には、その男の背中に、顔から勢いよく突っ込んでしまっていた。 「わー! あぶっ……!」  前に立っていた男は、急な事に対処しきれず、綾人とともにも勢い付いたまま後ろに倒れ込んでしまった。そのまま、テラスのテーブルに二人で勢いよくぶつかる。  派手な破壊音を立てながら、周囲の学生の持ち物を方々に飛び散らしつつ倒れ込んだ。 「うわっ! いってぇ……わ、ヤバ、なんかみんな見てる」  打った痛みで悶絶していると、周囲に人だかりが出来始めてしまった。足がジンジン痺れてなかなか立てない。モタモタしていると、騒ぎを聞きつけた講師陣が、顔面蒼白で飛び出してくるほどの大事件になってしまった。 「おい! 何してるんだ! すごい音がしていたぞ。何か揉め事か? こら、道を開けなさい!」  口うるさいことで有名な法学部の教授が、目を釣り上げながら入ってきた。まずいなとは思っていたが、それよりも先に男の怪我を確認しなくてはならない。綾人は突き飛ばしてしまった人物に声をかけた。 「おい、大丈夫か? ケガしてないか……?」  綾人が声をかけると、立ち上がりかけて片膝をついていた男が、スッと立ち上がった。  男は背が高く、肩下まである髪を尻尾のように靡かせていた。不意にとはいえ、よくこの男に気が付かずにいられたなと驚いてしまうほど、目立つ容姿をしている。 「ってぇー。あー、まあ、痛いのは痛いけど、大丈夫だよ」  そう言って、埃をはたき落としながら綾人に顔を向けた男は、切れ長でとても美しい目をしていた。その目は、調伏(ちょうぶく)(あおぐろ)色をしていた。  穏やかな水面のような静けさの中に、うっすらと激しい感情の片鱗が見える。それはまるで深淵に落とされた時に見る湖面の景色のようで、とても不思議な奥行きを感じた。  顔色が悪い割に艶のある髪は、瞳と同じ色をしている。結んだ先がやや弧を描いているように見え、まるで黒猫のしっぽのようだった。 ——あれ? どこかで見た顔だな……。  そうして座り込んだまましげしげと男の顔を見ていると、瀬川が後ろから声をかけてきた。 「綾人。教授にはうまく言っといたぞー。お前そいつ吹き飛ばしたんだろ? ちゃんと謝っとけよ」  いちいち余計なお世話だと思ったのだが、確かに見惚れていて一言も謝っていない。瀬川に言われたからだと思うと癪に触るが、綾人だって詫びないといけないのは分かっていた。 「ごめんな。俺の不注意に巻き込んで。ケガしてないか?」  立ち上がった男は、すっと視線を落として綾人を見ると、その目をゆっくりと細めて優しく微笑んだ。 「テーブルが倒れたから派手な音がしただけだよ。俺は大丈夫だから。気にしないで」  どこかほっとする微笑みを見て、綾人はなぜだか嬉しくなった。そして、同時に下から見上げたことで気が付いたことがあった。男の右目は長い前髪に隠れている。その目を取り囲むように、色とりどりのアザがあった。 ——やっぱり。あのアザはどこかで見たことがある。  綾人が男の顔をじっと見たまま固まっているのを見て、相手が「どうかした?」と尋ねてきた。綾人は思い出すよりも聞いたほうが早いかも知れないなと思い、自己紹介をすることにした。 「俺、文学部の桂。桂綾人。お前は?」 「俺は穂村貴人。俺も文学部なんだよ。知らなかった? 専攻も同じなんだけど」  すっと手を出しながら穂村は言った。綾人は差し出された大きな手を見て、一瞬戸惑った。生まれつき色素が薄く、金髪に近い茶色の髪のせいで、綾人はいつも目立っていた。  そのため相手に一方的に自分のことを知られていたり、付き纏われたりすることが多く、こんな風にしっかり誰かと自己紹介を交わして知り合ったことが今まで無かった。  慌てて手を差し出し、その手を握り返した。その温もりは、心の中までやわやわとほぐしていくような、不思議な懐かしさを含んでいた。 「え? 専攻一緒なのか? 本当に? お前ほど目立つなら気がつきそうなのにな」  そう言ってしまった後に「あっ」と言ったが遅かった。存在感が薄いと馬鹿にしているようにも取られる言い方をしてしまった。しかし、穂村はそういう風には取らなかったようで、ははっと笑って答えてくれた。 「でかいけど、目立た無いんだよ。そうなるようにしてるから。意図的にね」  そんな風に返事をしてくれた穂村に、一瞬心が温かくなるのを感じた。悪くとって詰られるかと思っていたのに、すごくふんわりとした空気で返してくれた。綾人はそれがとても嬉しかった。 「そっか。なんか何度も失礼なことばっかしてごめんな。じゃあ、明日からよろしく……」  綾人はそこまで言って、思い出した。 「あ! お前……」  彼はこの大学どころか、高校から同じだった有名人だ。その頃から、「見目うるわしい不幸な黒王子」と呼ばれていた。  その男の顔には大きなあざがあり、虐待されているのではないかという噂があった。  そして、その横顔を眺めた本当の出会いの日のことを、少しずつ思い出していた。  それは、三年前の春、桜が舞い散るよく晴れた日のことだった。

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