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第2話 三年前の春
* * *
穂村貴人は、入学してから三年間ずっと特待生で、成績優秀な生徒として有名だった。当時から、顔面蒼白なのにやたらに美しい黒髪長髪の男がいると噂で、違うクラスや他学年からも穂村を見にくる人がいるくらいだった。
綾人も入学当初、中学の時から仲が良かった水町さくらに頼まれて、わざわざ穂村のクラスまで彼を見にいったことがある。
「わざわざ顔見にいくのかよ。珍獣じゃあるまいし、穂村も大変だな」
付き合うとは言ったものの、人の外見をジロジロと見るという行動についていくのには、本当は気乗りしていなかった。
綾人自身が人から好奇の目を向けられることが多く、いつもうんざりしていたからだ。自分が他人にその思いをさせるのかと思うと、胃のあたりがちくりと痛んで仕方がない。
「えー! 一緒に行ってくれないとそれこそジロジロ見るだけになって失礼だからさー。お願い! 一緒に行って何か話してるふりしててよー」
「全く……少しだけだからな!」
その時の綾人は、その見た目だけを気に入った女子生徒からひっきりなしに告白された一週間を経て、すでに男性の友人がいない高校生活が確定しつつあった。
水町の用事にくらい付き合ってあげておかないと、友達との行動というものが全く無い高校生活が待っているような気がしていた。出来ることならそれは避けたい。仕方がないので、同行することにした。
その日、穂村は珍しく遅刻していたようだった。遅れてきた分の課題を出されていたらしく、放課後に教室で勉強をしているところを水町と覗きに行った。
二つ隣のクラスの後方の出入り口に立つと、スライドドアの小窓からこっそりと中を覗く。そこには、噂通りに美しい横顔で、美しい髪を靡かせた物憂げな少年が、一人で黙々と課題をこなしていた。
窓際の前からも後ろからも中程に当たる席で、夕陽を浴びて光る肌や髪がキラキラと輝いていた。深い青を含んだ黒い目が、課題をじっと見つめている。
驚くべき速さで解決されていく問題たちは、次々とあっという間に姿を消していった。その集中力には目を見張るものがあった。必死と言う言葉とは縁遠く、余裕がある上に正確で早い。眺めているこちらの胸が空くようなスピード感だった。
「わー、すっごいかっこいいね。ちょっと影がある感じ。色っぽく見えるなー」
水町がそう呑気につぶやいた時だった。開け放たれていた窓から、心地いい風がざあっと吹き込んできた。穂村の長い髪はその風にふわっと巻き上げられ、踊るように舞っていた。綾人はその姿を見て、ほんの少しだけ胸に波が湧き立つのを感じた。
春風に乗って来た桜の花びらが、穂村の髪の色と対比されて美しく際立っていく。それがとても儚くて美しくて、思わず見惚れてしまっていた。一瞬そう思った自分の気持ちにハッと我に返ると、慌ててそれを誤魔化そうとして、つい軽口を叩いてしまう。
「あいつ、あの長い髪、鬱陶しく無いんかなー」
すると水町は不服そうに眉根を寄せた。その表情の険しさは、彼女が穂村ファンになりつつあることを物語っていた。
「何言ってんのよ。あの綺麗な黒髪がいいんじゃないの! 長髪の似合う男子高校生、素敵!」
「あ、はいはい。なんかすみませんね」
——何が楽しくてわざわざ男見学に付き合わされてんのかねえ、俺は。
そうは思ったものの、穂村という存在は、男の自分から見てもキレイな存在であることには間違いないと思った。
あんなに美しい顔立ちをしていると、男性からも女性からも引く手数多なのではないかと余計な心配をしてしまう。
自分が好意を寄せていない人間から、一方的に好意を寄せられる時に生まれる苦痛を、綾人自身が身に沁みて知っている。
少なからず同じ立場にいる身としては、心配になっても致し方ないだろう。
「なんかアイツって、男にも好かれそうだよな」
穂村は、風に舞う髪に気を取られることもなく、変わらずに集中して課題をこなしていた。綾人は、最初の心構えなどどこ吹く風で、しばらくその美しさを堪能させてもらうことにした。
真白い肌、どことなく気品すら漂う目鼻立ち。風に舞う美しい髪、所作の優雅さ。そして、何よりも際立つのは、瞳の美しさだった。
深淵とでも言える深さをもった、青みがかった黒。年齢の割に、深い苦しみや悲しみを湛えているように見える。周囲の学生と比較すると、あからさまに陰気に見えた。しかも、髪色と同じ長いまつ毛は、その切れ長で美しい目を覆い隠している。
そして、そこに存在しているはずの穂村の姿は、瞬きをしてしまうと見失ってしまいそうなほどに、儚い。目を逸らしてはいけないと思わせるほど、惹きつける何かがあった。
——しっかり見てないといなくなっちゃいそう……。
そうやって、かなり長い時間綾人と水町は穂村を眺めていた。二人とも、自分たちが穂村の姿に見惚れていることに気が付いていなかった。
そのうちに、課題が終わったらしい穂村が、机の上を片付ける音がし始めた。ハッと我に返った水町が、何を思ったのか突然ガラッとドアを開けて中に入っていった。
「穂村くん。今から帰る? よかったら一緒に駅まで帰らない?」
それまで課題に集中していたのだろう。誰かに話しかけられると思っていなかったであろう穂村は「へっ!?」と大声をあげて後ずさった。すると、長い前髪が風に舞い、穂村の右目が水町の目の前で露わになった。
「えっ!?」
水町は驚いて固まってしまっていた。穂村の顔を見て、そこに見つけてはいけないものを見てしまったようだ。一瞬の絶句の後、問い詰めるように穂村に駆け寄った。
「どうしたの、その目!」
しかし、穂村はそれをされるのを身を捩って抵抗した。あからさまな拒否反応を示して、前髪を右目が隠れるように抑えた。酷く嫌がっているように見えるのだが、水町に激昂するような態度は見せなかった。
ただ、その目の中の悲しみの存在が増大して、今にも溢れ出そうになっていた。
「見ないでくれないか。これは、他人に見せたいものじゃ無いんだ。ごめんね。心配してくれてありがとう」
そういうと、荷物を掴んで水町の前から立ち去った。声をかけようとする水町を振り切って、入り口付近に立っていた綾人の横を通り過ぎようとしていた。
綾人がそこにいることに気づいた穂村は、ふっと視線を綾人に向けた。綾人も、その目を見てハッと息を呑んだ。
その右目は、赤く充血し、赤いものや青紫のもの、治りかけの黄色いものも含め、さまざまなアザに囲まれていた。その存在は、美しい顔の中に存在する汚物のように見えた。
思わず目を見張ってしまった。それに気づいた穂村は、悲しそうに目を伏せ、バタバタと走り去っていった。
「ねえ、綾人。あのアザってなんだろうね。殴られた痕に見えたんだけど……。先生に報告する?」
穂村が去った後、水町が綾人に訊いてきた。
「どうなんだろうな……正しいことをしようと思えば、報告するべきなんだろうけど……」
思春期の男としては、あまり家庭のことに友人や教師を巻き込みたくは無いだろう。ただ、尋常じゃない数のアザだった。あれは誰にやられたものなのだろうか。もし親からされたことであれば、このまま放っておいて大丈夫なのだろうかと心配ではあった。
「迷惑かもしれないけど、一応言っておこうよ。」
水町に促されて、綾人もそうすることに同意した。嫌われるかもしれないけどなと思ったりもしたのだが、そもそも知り合いでもないのだ。正しいと思うことをしておこう。二人は足早に職員室へと向かった。
* * *
「ああ、あれな。うん、おそらく虐待だ。ただ、確証が持てない。穂村が認めてないから、通報もできない。お前たちくらいの時期って、大人が勝手に動くと却って危険だったりするだろう? だから学校としては対処しづらいんだ。友達同士でそういう話、出来ないか?」
穂村のクラスの担任の先生に報告したところ、返ってきた答えはそれだけだった。どうやらかなり面倒なタイプの両親らしく、学校としては出来れば関わりたく無いのが本音であるようだ。
水町は先生のその反応を見て、食い下がろうとしていた。だが、綾人はそれを止めた。騒ぎが大きくなってしまうと、穂村が困るのは目に見えている。
「わかりました。ちょっと俺たちで話を聞いてみます。ありがとうございました。失礼します」
綾人がにっこりと微笑んで先生に挨拶をすると、先生は動揺しながら「お、おう。気をつけて帰れよ」と言った。それを見て、水町は楽しそうに笑っていた。
「先生も綾人の微笑みには負けてしまうんだねえ」
「へ? そうか? そんなの全然嬉しく無いけど。まあ、ニコニコしてて悪い気はしないだろ? わざわざ相手に不快感与えるよりはいいじゃん」
「まあ、確かにね」
「とりあえず、今はなんも出来ないな。うし、帰ろう」
「はいよー」
そう言って、いつもの調子で二人は歩き始めた。
水町とは毎日一緒に帰る。よく「付き合ってるの?」と訊かれるが、そう言う関係ではない。隣にいても当たり前すぎて、なんとも思わない。水町にとってもそうらしい。一番適当な言葉は、幼馴染だろう。
水町は中学の時に転校してきたので、そのくらいの時期からの友人を幼馴染というのだろうかという疑問はあるが、他に適当な言葉が見当たらない。だから、いつもその関係性を説明する時は、幼馴染と言わせてもらっている。
「しっかしさあ、穂村くんのあの噂って、本当だったんだね。あのアザ。殴られてるよね、確実に」
水町はぼそっとつぶやいた。穂村に関する噂は入学当初からあった。それは学年どころか、学校中の公然の秘密となるくらいに知られている。
——見目麗しい黒髪王子は、虐待されている、か。
穂村がなんとなく物悲しい雰囲気なのは、そのためなのだろうと言われている。穂村に興味のなかった綾人ですら聞き覚えのある噂だ。ただ、今までは、確証もない無責任な噂なのだろうと思っていた。
しかし、今この目でその噂の証拠を見てしまった。胃が掴まれるような嫌な気分になりながら、綾人と水町は駅へと歩いていた。自分がされるのはもってのほかだけれど、人がされていても心が沈むのが虐待だ。我が子を傷つけてまで親が得ようとするものは、一体なんなんだろうかと、少しだけ怒りが燻り始めていた。
「ああいうヤツって、結構いるのかな。何か助けてくれるものとかあるといいんだけど」
ずっと心の底の方に引っかかってしまって、なかなか抜けない棘になってしまった。穂村にはその日初めて会ったのに、とても気にかかる出来事になってしまった。それは水町も同じようだった。
それから三年間、一度も同じクラスになることなく、ひどい話だが段々と穂村のことを考えることもなくなっていった。ただ、人を助ける仕事をしたいと思って、そういう仕事を選べる大学を受験しようと考えていた。
それが現実的、経済的な支援ではなく、なぜか哲学や宗教の研究という精神的な支援へと舵を切っていったので、大学では文学部で宗教を学ん無ことにした。
「あいつ、あの穂村だったのか……相変わらず親に支配されてるんだな。目立たないようにしているって言ってたな。目立つと色々面倒なんだろう」
高校一年から変わらず支配され続けているということは、穂村の高校生活はかなり寂しいものだったのじゃ無いだろうか。
——でもなあ、それも傲慢な考えかも知れないもんな……。
それがなぜかというと、噂の割に穂村自身はあまり不幸そうにしていないからだった。周りが勝手に不幸そうと言っているだけなのだ。
「何考えてるのか、目に見えたら力になってやれるのかも知れないのにな……」
「四限、選択あるから」と言って立ち去る穂村の後ろ姿を見ながら、綾人は思っていた。あの目に映る景色は、一体どういうふうに見えているのだろうか。穂村にとって、希望とはなんなのだろうか。あの目に希望が宿った時、どんな色になるんだろうか。
——それ、見てみたいな。
それから数日間、綾人は穂村のことばかり考えるようになっていた。
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