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第4話 赤い右目の男

*** 「あー、まだ眠い……。最近夢ばっかり見て眠りが浅いんだよな……」  瀬川が桂家に来てから、五日が過ぎた。今日はもう、約束の金曜日。最後の講義がA棟であった、綾人はB棟までの道のりを、あくびをかみ殺しながら歩いていた。 「キレイだなあ……」  ひっそりと佇む建物の表情が、いつもの厳しさとは違って見える。オレンジ色の夕日に紛れるバーガンディーやテラコッタは、その光の中で硬度をやわらげ、溶け出してしまいそうに優しく見えた。  大学に通い始めたばかりで特にサークルに入っているわけでも無い綾人は、夕方まで構内に残った事が無かった。初めて見た夕暮れの校舎の美しさに、思わずぼうっと見惚れてしまう。  遠くの空は、濃藍の縁取りにブルーグレイまでの寒色のグラデーションに彩られていた。近くの暖色の輝きと比べると、少し寂しさを感じるけれど、その対比も美しい。  そうやって初めての景色を堪能してゆっくりと歩いていると、瀬川から指定された時間が近づいてきた。 「やっばい。遅れるなよって言われてたんだった」    綾人は足早に中庭を通り抜けて、建物の中へと入っていった。しんと静まり返った教室が並ぶ廊下を走り抜けると、奥の方にある指定されていた小部屋へと入って行く。 「失礼しまーす」  軽くノックをして、ガラッとスライドドアを開けた。しかし、まだ誰も来ていないようだ。 「全員遅刻かよ」  綾人はそう独言ながら、窓辺へと吸い寄せられていった。待つ間も景色を堪能することにしたのだ。ただ、今日は肌寒かったので、昼間に溜まった室内の熱を逃さないように、窓は開けずにガラス越しに外を見ることにした。  透明な仕切りの向こうに広がる景色に、ぼんやりと目を向ける。すると、遠くの方に、手を繋いで歩くカップルが見えた。男の方が、ひたすら一生懸命に話しかけている。それを微笑みながら頷いている女の子は、輝くような笑顔で、とても楽しそうにしていた。  それはありふれた光景に違いない。でも綾人にとっては、何にも変え難い宝物のように見えるものだった。綾人がこれまで、どれほど欲しがっても手に入らないものが、まさにあの光景だからだ。 「いいなあ、幸せそう。めちゃめちゃ好きなんだろうな、相手のこと。うらやましー。俺も付き合いたーい」  綾人は、中学生くらいから、毎日のように誰かに告白されている。それでも、綾人自身が誰かに心を奪われるということは、これまでに一度も無い。  だから、思い合う者同士で付き合うということが、どうしても叶わない。叶わないからこそ、それが手に入るのであれば、他のものは何を失ってもいいと思ってしまう。それほど相思相愛のカップルというものに、憧れがあった。 「やっぱりコンパとか行かないとダメかなー。でも長く騒ぐの苦手だしなー」  ブツブツ言いながら机に突っ伏していると、小さくカラカラとドアがスライドする音が聞こえた。ふと音のした方を見るけれども、人の姿は何処にも見あたらない。ただ、猫のしっぽのような長い髪の毛が、ふわふわとドアの近くを漂っていた。 「あれ? 穂村?」  あの青みがかった黒髪は穂村だろうと思い、声をかけてみる。すると、猫のしっぽは綾人の呼びかけには答えずに、スッと姿を消した。そして、そのまま誰も入ってこない。 「聞こえなかったのか? おーい、穂村ー?」  綾人はドア付近まで近づいて、様子を見ようと立ち上がった。 ——穂村もボランティアに誘われてんのかな。    綾人と穂村は、学食でぶつかった時以来、またあまり顔を合わせなくなっていた。たまにすれ違って挨拶はするけれど、その程度しか関わりがない。 ——折角だし、ゆっくり話してみたいな。  そう思いドアの方へと駆けて行った。勢いよくドアを開け、サッシに手をかけたまま覗き込むように外へと顔を出す。 「おーい! 穂村だろ……」  そう声をかけながらドアの向こうに半分体を出した。その時、ちょうど穂村がこちらに向かって走ってきたところで、正面から思い切り衝突してしまった。 「うおっ!?」 「うわっ!!」  二人は余程ぶつかる運命にあるらしい。ただ、今回は穂村が前のめりに綾人の方へと倒れ込んで来た。綾人は穂村より体が小さい。走ってきた勢いも手伝って、そのまま仰向けに倒れ込んでしまった。 「桂っ!」  穂村は、咄嗟に綾人の頭を庇おうとした。しかし、それは不発になる。学食でぶつかった時は空間に余裕がなくて出来なかったが、回転して受け身を取ることが出来さえすれば、これくらいのアクシデントなら、綾人には問題ない。  しかし、綾人のその動きについて行けなかった穂村は、ドアの開口部から教室の中へと思い切り投げ飛ばされてしまった。穂村の足があたり、椅子が倒れた音が教室中に響き渡る。 「えっ!? ほ、穂村っ! 大丈夫か!?」  綾人の動きを予測できていなかった穂村は、ゴロゴロと勢いよく転がって、そのまま壁にぶつかってしまった。そして、その近くに倒れたまま動かない。こちらに背を向けているので、顔が見えなかった。綾人の中に、不安が首を擡げてきた。 「穂村!」  この教室はサークルで使われる小部屋なので、他のところに比べてかなり狭い。勢いがつきすぎたのか、打ちどころが悪かったのか、声をかけても反応が無かった。綾人は恐ろしくなって、穂村のそばへと駆け寄った。 「おい、大丈夫か?」  膝をつき、顔を覗き込んだ。倒れた穂村は小さく呻いてはいるけれど、なかなか動かない。緩く束ねていた長い髪が解けて乱れ、表情を隠してしまっている。綾人は、穂村の頬にかかった髪を指でそっと掬って、もう一度声をかけた。 「大丈夫か?」  反応が薄い。呼吸を確認しようとして、顔を近づけてみた。ちゃんと息はしている。少し安心して、ほっと胸を撫で下ろした。そして、ペチペチと軽く頬を叩いた。 「ん……いってぇ」  穂村は薄く目を開けた。長いまつ毛の中に、あの深淵の瞳が見える。その目は、まだ焦点が合わないようで、視点が綾人の周囲をふわふわと彷徨っていた。そして、その目をよく見ると、右目だけがいつもよりやや赤くなっていることに気がついた。 ——あれ? この目……。  それは、瀬川が来た日に見た、夢の男の目に似ていた。よく見るとあの男と同じように、髪の内側にうっすらと明るい部分がある。綾人はそれが気になって、穂村の髪を根本の方から少し多めに掬ってみた。 「明るい髪のある方の目が赤い……やっぱり同じだ」  髪のどの辺りまでが明るいのかが気になり、何度も手で髪を梳いた。穂村はそれが気持ちよかったらしく、綾人の指に頬を軽く擦り付けてきた。その姿は、まるで黒猫がゴロゴロと甘えるように愛らしかった。 「ここだけなのか。不思議な髪だな……ん? なんだよ、猫みたいだな。よしよし」  手のひらで穂村の頬を撫でながら、さらに肌に近いところまで指で掬う。穂村は心地よさそうに、綾人の方へ首を捻った。  黒猫穂村をしばらくそうして堪能していた。すると、突然パチリと目を開けた。 「え?」  しっかりと目を開いたと同時に、綾人の手を自分の大きな手でふわっと包んできた。そして、左手を綾人の首の後ろへまわし、そのままぐっと自分の方へと引き寄せた。 「うわっ! なに? なに? なに!」  不意をつかれた綾人は、そのまま穂村の上にどさりと倒れ込んでしまった。その動きは、自分の反応でも追いつけないほどに速かった。およそ穂村の行動とは思えず、呆気に取られてしまう。 「穂村? どうした? 大丈夫か?」  綾人は何が起きているのか分からず、あたふたしながら体を起こそうとした。突然のことでパニックになったのもある。  ただ、それ以上に綾人を見つめる穂村の目に、含まれている色香が濃くて、直視出来なかった。見ていると体の内側から沸々と熱が迫り上がってくるような感じがした。その熱が、うっすらと身体中の温度を上げていくのがわかる。それから逃れたくて距離を取ろうとした。  目の前にいる人が、どうしても穂村に見えない。こんな色っぽい目つきは穂村じゃない。やや不恰好になりながらも逃げようとするけれど、穂村の力が強くて振り解けなかった。 ——こいつ、体格はいいけど力じゃ俺の方が上のはずなのに……。 「おい! どうしたんだよ! はなせ……」  綾人はなんとか少しだけ体を起こし、穂村の顔を見た。その時、ちょうど穂村も綾人を見ていた。 「!」  バチっと音がしそうなくらいに、しっかり目と目が合った。吸い寄せられそうなほどの強い瞳が、じっとこちらを見ている。何も言わず、一言も喋らずに、ただじっと見られていた。 ——心がザワザワする。  気がつくと、夕暮れのオレンジ色だったはずの教室は、ブルーグレーに染まっていた。見つめられていることに耐えきれなくなり、綾人は僅かに下を向いた。その藍色の影の中で、ずっと穂村の視線に囚われている。 「なんか言えよ」  そうやって怯んだ一瞬、穂村は体を起こして綾人を抱き寄せた。綾人は、驚きすぎて言葉が出せずに、そのままぎゅうっと抱き竦められてしまった。 「ほむ……」  その時、綾人が言葉を発するより前に、穂村が口を開いた。そして、そこから出てきた言葉と声音は、綾人には全く想像もしないものだった。 「今日は奪わなかったか?」  綾人は驚いてビクッと体を跳ねさせた。その声は、あの夢の男と同じものだった。囚人の自分が出てくるあの夢、あの髪の長い男と同じものだった。 「お前、なんでそれ……」  その悪夢の内容は、誰にも詳しく話したりしたことは無い。それなのに、穂村はそれを知っていた。そのことを問い詰めようとして口を開こうとしたところ、穂村の唇にそれを阻止された。 「んんんっ!?」  綾人は、必死で穂村から口を離そうとした。青白い顔の穂村のどこにそんな力があるのか、抵抗しても全く歯が立たない。何事もないような顔をして、綾人の口に噛みついたままだ。 ——不本意だけど、殴るしかないかな……。  そう思い構えた途端、穂村は綾人の口にフーッと息を吹き込んできた。そして、それと同時に、突然ゴオッと音を立てて真っ赤な炎が現れた。それは、驚いて一瞬怯んだ綾人の体を、丸ごと飲み込んでいってしまった。 「むぐー!!!」  パニックになった綾人は、拳を握り穂村の胸をドンドンと音が立つくらいに強く殴った。それでも穂村は動じない。燃え盛る炎が、二人の全身を包んでいった。  炎の色は、深く濃く、絶望感すら漂うような赤だった。紅蓮と言う言葉が似合う、攻撃的な色。それが下から湧き上がる泉のような勢いで襲ってくる。  肌の表面が、チリチリと音を立てていた。その上を、鋭くて小さな痛みが次々と走る。それがだんだん強くなり、痛みと熱と寒気が背を這い、戦慄となって駆け抜けていく。   ——死ぬ、死ぬ、死ぬ! このままじゃまずい!!!  恐怖に刺激され、涙がボロボロと溢れ始めた。背中に走る寒気が強くなる。身体中がガタガタと震え、視界が霞み始めた。腹の底から湧き上がる猛烈な感情に耐えかね、綾人は咆哮するように叫び声を上げた。 「ぐああああああああああああ!!!!!」  それが高まり切った後、何かに弾かれるような衝撃が身を包んだ。同時に火は消えた。緊張から急に解放された綾人は、ガックリと力をなくして崩れ落ちた。  穂村はそれを、何事もなかったようにふわりと片腕で支えた。綾人は、目を見開いてどうにか息を繋ごうとする。はあはあと肩を上下させ、落ち着こうともがいた。   ——なんだったんだ? なんで穂村は平気なんだ? 穂村に燃やされた?  頭がぐるぐると忙しく考えている。それなのに、何も考えがまとまらなかった。 「まだ思い出さないのか?」  穂村が、綾人を深淵の目で見つめながら言った。左の腕で綾人を抱き抱え、右手で綾人の金色の髪を掬っている。美しい笑顔を向けたまま、綾人の顎をそっと掴んでぐいっと左を向かせた。そして、じっと額のあたりを見ている。 「現れたな。五つの印だ」  当然のようにそれを言われたけれど、綾人には全く理解出来なかった。何が起きて、何の話をされているのか、全く見当がつかない。 「何を思い出せばいいんだ? 俺は何か忘れているのか? ていうか、キスしたよな、お前。なんで?」  すると、穂村はフッと息を吐いた。それがどこか呆れたような顔だったので、綾人は少しムッとした。 ——こいつこんなムカつくやつだったか?  腹に据えかねた感情を持て余していると、穂村は徐にスマホを取り出した。 「もう時間がない。説明するから思い出せ」  そういうと、ケースについたミラーを綾人の方へと向ける。綾人は言われるままに身を乗り出して、額を見てみた。 「なっ、何だこれ!?」  そこには、目の周りをぐるりと取り囲むように、五つのほくろが出来ていた。こんな目立つものがあったら気が付かないわけはない。間違いなくこれまでは無かったものだ。  そうなると、炎に包まれたことが原因で出来たとしか考えられなかった。ただ、それが何を意味するのか、これが何の印なのかはいくら考えてもやっぱりわからない。 「百人を助けろと言ったはずだ。そうすれば罪を滅してやると。本来ならば百人を助けた後に、全ての罪を一度に滅する。だが、もうお前には時間がない。だから、都度滅していくしかない。今朝、通学中に具合の悪い人を一人助けただろう? だから今、一つの罪を滅してやった」  穂村は、その話の内容を理解できることが、まるで当たり前のことであるかのように言う。ただ、綾人には何一つ理解できていなかった。 「いや、ちょっと待て。俺にはお前が何を言ってるのか全くわかんねーよ。何でお前は、俺が話をわかって当然って感じで言ってんの? とりあえず、一つずつ確認させてくれ」  綾人は穂村を見上げながら、そう頼んだ。穂村はニコニコしながら、「ああ、どうぞ」と頷く。 「ただ、俺のことは貴人(たかひと)と呼んでくれ。その方が色々と思い出しやすいはずだ」 「たかひと……?」  その名を口にした途端、ドクンっと心臓が跳ねた。 ——なんだ? なんか懐かしい気がする。  その名前を呼ぶと、体にチクチクと僅かな電気が流れるような感覚がした。しかし、それを感じているのは、自分自身というよりは自分の中の誰かのような気がした。それがどういう事なのかは綾人にも分からない。ただ、間違いなくそう感じた。 「たかひと…… 貴人(たかひと)様……」  記憶を辿るように、綾人は貴人(たかひと)様と名を呼んだ。穂村であるはずのその男は、と呼ばれると嬉しそうに「ああ」と頷いた。その手で優しく綾人の髪を撫でている。 「俺は囚人だったお前に、転生のチャンスを与えた、いわゆる神と呼ばれる存在だ。お前は、生きている間に罪を重ねすぎて、修羅に落ちた元囚人だ。今のお前は、俺が与えた三度目の人生を生きている」  そう言いながら、まだ綾人の髪を撫で続ける。綾人は、その手の温かさを感じながら、肌で記憶を探っていた。次第に、この手の温もりを受け取っていた日々が、頭の中に映像として浮かび上がり始めていた。 『奪うな、与えろ、行いをただせ』  そうやって言い聞かせてくれた方がいた。それはもう、気の遠くなるような昔の話。その度に改心しようとして、失敗してきた……うっすらと、その記憶が蘇ってくる。 「お前は、今回が最後のチャンスなんだ。罪の数が増えすぎている。だから、今回は早く俺の存在にづいて欲しかった。今度こそ罪を滅して天人になれ、綾人。修羅の地を抜け出すんだ」    綾人は放心していた。 「じゃあ、あの夢の俺は、本当に俺だったんだ」  あれは夢では無くて、綾人の前世の記憶なのだと貴人(たかひと)様はいう。前世の罪を無くすために生まれ変わったのに、綾人はそれを忘れて生きているのだと。痺れを切らした神様が、思い出すようにと夢として見せていたのだと……。   「じゃあ、俺がこれまで何をやってもなんとなく出来てしまって、人生がつまらないように感じていたのは……」 「本来果たすべき目標を忘れてしまっていたからだな」  貴人(たかひと)様はそう言って綾人の頭に手を乗せた。そして、励ますようにポンポンと軽く叩いた。 「やるべきことを忘れてしまうなんて、罰当たりだ。人生をつまらなくされても仕方がない」  そう言って俯く綾人に、優しく微笑んだ。 「綾人」  貴人(たかひと)様は、綾人の顔を両掌でそっと包んだ。その手の温もりは、ゆっくりと綾人の体の力を解いていく。目を凝らすと、貴人(たかひと)様の体から綾人の体へ、オレンジ色の光の束が流れて込んでいた。  さっきの炎とは違って痛みは全く無く、むしろふわふわと優しい肌触りで体を包み込んでくれる。暖かくて穏やかな光だった。 「お前の罪は残り五十。今世ではお人よしとして生きてきたのが幸いした。残された日数は二百七十日。次の節分までに、叶えろ。いいな?」  そう言って、貴人(たかひと)様はふわりと綾人を抱きしめた。 ——あ、これ知ってる。  包まれた腕の中で、懐かしい香りが立ち上った。それは、綾人の中の記憶の扉を開く鍵となった。この身に漂うには不釣り合いな、高貴な香り。綾人はこの香りを知っていた。何度も出会っては別れた、懐かしくて大好きな香りだ。 —— 貴人(たかひと)様だ。そうだ、この香り。俺の…… 貴人(たかひと)様。  これを嗅いだことで、なんの疑いもなく綾人は貴人(たかひと)様の言葉を受け入れた。 「俺を……誰も大切にしてくれなかった俺を、大切にしてくれてた人ですね」  そのことをはっきりと思い出した。子供の俺に、いつも声をかけ続けていた。ひとりぼっちだった自分の、唯一の生きる希望だった貴人(たかひと)様 ——ん? 人助けの度に罪を滅してやると言うことは……。  一つ疑問にぶつかった。綾人の記憶の中の自分は、子供だ。貴人(たかひと)様は今と変わらないようだった。ということは……。 「あの、俺は人助けをするたびに、あなたとキスをするんですか?」  貴人(たかひと)様には、おずおずとそれを訊いてくる綾人が、とても愛らしく見えた。やや意地悪く微笑むと、綾人の顎を指でクイっと持ち上げ、そっと触れるだけの口づけをする。 「お前は俺のお気に入りだから、何度も転生させているっていうことは忘れたのか? 口付けもそれ以上もする仲だったんだが?」  その返しに、綾人の顔がみるみる赤くなっていった。貴人(たかひと)様は綾人の唇を指でつうとなぞる。それをされるがままにしていると、綾人の心臓が胸を突き破って出て行きそうなほどに高鳴った。   「ま、待ってください! 俺って子供でしたよね? 口付け以上のことをするって……え、嘘でしょう?」  貴人(たかひと)様は、それを聞いて一瞬驚いたように目を見開いて止まった。しかし、すぐにふっと息を吐いて笑うと、綾人の問いには答えずに、唇に触れていた手を少しずつ下ろしていった。 「ふーん、そうか。そこまでしか思い出せていないのだな……。まあ、そこから先はゆっくり思い出してくれればいい。罪を滅する時だけの話をするなら、口付けは必ずする。口からお前に気を送るから、それは仕方がないな。子供のお前にはそれ以上のことはしていないから安心しろ」  顎を持ち上げられたまま、至近距離で雅な笑顔を見せつけられる。クツクツと笑ったかと思うと、目を細めながら頬を緩め、愛しくてたまらないと言った表情をして、綾人を見つめた。 「ちょっ! やめ……あっ!」  恋愛に慣れていない綾人は、こういうこともされ慣れていない。あまりの緊張状態に耐えかねて、ストンと膝から崩れ落ちてしまった。 ——顔見ると心臓破けそうになる! 死ぬ!  貴人(たかひと)様の笑顔を見るたびに、そわそわと落ち着かなくなってしまう。顔から火が出そうなくらいに熱くなっていた。胸は潰れそうなほどに苦しかった。 「お前……それを聞いただけでそんな状態なら、過去を知ったらどうなるか。まあ、そう構えるな。全てを思い出さない限り、口付け以上のことはしない。ほら、そろそろ瀬川たちが来るぞ。留学生に日本語を教えるんだろう? 俺はフランス語が話せるんだ。今世からだがな。転生に付き合っていると学ぶことも多くなる。俺もボランティアをするから、金曜日は必ず一緒になるぞ」  そう言うと頽れた綾人を立ち上がらせ、その手を引いたまま窓際へと歩いていく。 「俺の名前の呼び方は、貴人(たかひと)様にしておけよ。専攻の話をして仲良くなったフリでもしていればいい。隣に座れ」  そう言って、隣のイスをポンポンと叩いた。綾人は、素直にそれに従うと、貴人(たかひと)様の隣に座った。隣に並ぶと、じんわりと心が温まるのがわかった。それがわかると、なぜだかふっと笑みが溢れた。  瀬川の大きな声が、だんだん近づいてくる。その周囲に、いろんな訛りの英語が飛び交っている。彼らに日本語を教えることが人助けとなるのなら、頑張ってやっていこうと綾人は決めている。  そのこと自体にもワクワクしていたけれど、今はそれよりももっと心が躍っていた。全ての記憶が戻ったわけではないが、貴人(たかひと)様の隣にいれば、ずっと欲しかったドキドキやワクワクが経験できる気がしている。それがとても嬉しかった。  それに、貴人(たかひと)様が言っていることが本当なら、一緒にいてやるべきことがあるということだ。これまでのように、何をやっても砂を噛むような味気のない人生を歩む必要がなくなった。綾人にとっては、それが何よりも嬉しかった。 ——まだよくはわからないけれど、目標が持てた事は嬉しい。  こうして、これまでの綾人の生活にはなかった「やりたいこと」が生まれた。それによって生まれた「生きる喜び」は、いつもは鬱陶しくて仕方がない瀬川の声さえ、心地よく響いて素晴らしいものに感じていた。

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