＊＊＊ 　穂村の突然の告白から、ちょうど一週間が経っていた。綾人は、金曜日のボランティアに顔を出し、インドネシアから留学してきた女子学生たちから、質問を受けていた。大昔の御前と今のお前の違い。はっきりスッキリ説明してあげられるだろうか？　と悩んでいる。 「つまり、お前っていう言葉は、昔は偉い人に使っていたものなのに、今は侮辱の意味で使うものだと言うことですか？」 「えっと、江戸時代の初め頃までは、目上の人に対する敬称で……」 　この子達は割と日本語が堪能な方で、質問も難しいことが多い。「朝の挨拶はなんて言うの？」というレベルだと思っていた綾人は、初めのうちはこのボランティアを引き受けたことを、後悔していた。 　今となっては、みんなと共に過ごすことが出来るこの時間を、何よりも楽しみにしている。一生懸命で無邪気な彼女たちとの勉強は、とても楽しい。 　食事の仕方や、宗教的な違い、それに伴う価値観の相違など、留学して経験するようなことを、ここで少し体験することが出来る。地元に居ながらにしてこんな風に過ごせる経験は、とても有り難かったし、刺激になった。 　綾人が毎日普通に話していることが、ネイティヴの貴重な意見として、誰かの役に立っている。その事実が、自分という存在を肯定してくれているようで、心地よくもあった。 「桂、ちょっと下向いて」 　隣に座っていた穂村が、すっと綾人の方へ手を伸ばしてきた。綾人の頭の方へ手を伸ばし、後頭部の髪に優しく触れる。 「もうちょっと」 　そう言ったかと思うと、そのままグッと頭を抑えられた。もう一方の手でも髪を触っている。 　綾人の鼻先を、穂村の香りがふわりと包む。触れているわけではないのに、わずかに熱が伝わって来た。それは、今二人の距離がとても近いということを、はっきりと実感させる。思わず、頬を赤らめた。 「えっ？　なに、どうした？」 　最近の綾人は、穂村にこの言葉ばかり言っている。綾人が一人でいるところへ穂村がやってきては、何かしら理由をつけて綾人に触れていく。 　その度にドキドキさせられて、毎回同じ言葉しか返せていなかった。 　いつも突然触れて来る穂村に、たまには少し抗議してやろうかと画策しているが、それも出来ずにいた。 「何かついてるから。ほら、これ」 　よく見ると、それはダンボールの破片のようなものだった。おそらく、いつもの母さんからの頼み事の「ゴミ捨て」をした時についたであろう、あのゴミの一部だった。 「あ！　え、うそ……」 　そう呟きながら、つまり朝から頭にゴミがつきっぱなしだったのかと、恥ずかしくなった。 ——なんか最近、間抜けすぎ。 　不眠気味の日が続き、ちょっとしたミスを繰り返している自分に、綾人は少し落ち込んだ。またかと思い、深いため息を零す。 「桂、なんか最近ちょっと抜けてるよな」 　ちょうど同じことを考えていたからか、綾人はさらに顔を赤らめた。穂村は、それを見てにやっと笑った。楽しそうにしている穂村の隣で、綾人はちょっと落ち着かない。 　このソワソワと浮つく気持ちがこそばゆくて、逃げたいような、もっとこうしていたようなという、もどかしさを抱えていた。 「誰のせいだと……」 　綾人はそう言いかけて、ハッと口を噤んだ。それはつまり、自分が穂村のことばかり考えていると、白状してしまうようなものだ。 ——やばい、やばい。するか、そんなこと。もっと揶揄われるに決まってる。 　この間、突然告白されてしまい、あまりのことに綾人は返事に困っていた。場所も場所だった。あの後、綾人は返事をせず、その場から逃走してしまった。 　背後に瀬川からの「おい！　逃げんのかよ！　返事してやれよなあ！」の声を聞きながら。それでも、なんと言われようとあの場に留まるのは無理だった。 　帰宅してからも、ずっと穂村のことが頭から離れず、瀬川の「俺は突っ込めればなんでも……」の言葉をわーわー言いながら振り払い続けた。 　しまいには生まれて初めて、親から怒られるうような事態にまで陥った。「夜中に何騒いでるの！」と怒鳴られた日もある。 「ん？」 　そんなことを知る由もない穂村は、最近やたらとキラキラしている。もしかしたら、あれは貴人様の影響なのかもしれない。 　 　貴人様は、毎日俺を愛でている。浄化と関係の無いタイミングでも、お構いなしになって来ていた。神とはああも色欲に溺れていていいものなんだろうかと、綾人はいつも疑問に思っている。 　なんだかんだと理由をつけて、口づけをしてくるわ、抱きしめられるわ、最近では当たり前のように、寝る時はいつも添い寝されている。毎日、毎日。本当に、毎日。飽きもせずにそれを続けている。溺愛という言葉が、本当にピッタリだ。 　その貴人様は穂村の中にいて、いつも表に出てくるわけじゃない。ただ、自分を抱きしめたりした感覚は穂村にも残っているらしく、綾人との距離は徐々に友人というよりは恋人のそれに近くなって来ていた。 ——俺のこの感じは……好きってことなのか？　好きってこういうことなのか？ 　ここ最近の綾人はもうずっと、本当にずっと、そんなことばっかり考えていた。 「はい、そんなあなたに朗報です。今日は今から懇親会をやりまーす！　めっちゃ美味い店見つけたんだよ」 　モヤモヤしている綾人のところに、能天気で飲み会のことしか考えてない瀬川がやって来た。二人の間にグイグイと割って入り、まるでそこが自分の居場所だと言わんばかりに、ニコニコと楽しそうに笑って座る。 　綾人がその笑顔にジトっとした嫌味な視線を送ると、瀬川は何を思ったのか、突然綾人の口を自分の口で塞いできた。 「ふん！？」 　間の抜けた声を出したことに羞恥した綾人は、思わず瀬川の鳩尾を打った。最近、せっかく磨いた技も、瀬川相手に使ってばっかりだ。いつも行動が唐突すぎて、どうしても反射的に防御から攻撃に入る流れになってしまう。 　相手はガードが出来ないとわかっているので、力は加減してあげた。それでも、手を出すことを止めようとはどうしても思えない。承諾も無しにキスをされることは、綾人にとってはどうしても許せないことだ。 「おえっ！」 　汚い声を上げながら、瀬川は床に転がった。身構える暇もなかったからか、ゴロゴロと床を転がりながら、涙を流している。 「おまっ……ほんと……今日絶対来いよ！」 　ジタバタしながら訴える瀬川を見ていると、ほんのちょっとだけ申し訳なくなって来た。 「悪い、ちょっとやりすぎたな。わかった、行くよ。それで許して」 　手を合わせながら頭を下げ、綾人は久しぶりに瀬川の飲み会に参加することにした。あまりに綺麗に一撃を喰らわせてしまったので、ちょっと心配になったのだ。しばらく様子を見るついでに、顔を立ててあげよう。 　隣でそれを見ていた穂村が、大きな口を開けて楽しそうに笑っていた。 「瀬川はいつも玉砕だなー。でも毎回誘うし、今のキスもあるし。もしかして、桂のことが好きなんじゃないの？」 　牽制のためなのか、ニコニコしながら瀬川にとんでもないことを訊いている。でもその表情をよく見ると、内心は穏やかでは無いようだ。 ——いや、お前がそうだからって瀬川もそうだと思うなよ……。 　綾人がそんな風に思っていると、瀬川は真剣に悩み始めていた。 「ぶっちゃけ、顔は好き！　性格も……好き。ん？　嫌いなところは無い！　あれ、じゃあ俺は綾人を好きってことか？」 　綾人は驚きすぎて声も出なかった。そんな単純な考え方で決まるほど、好きって簡単なものなのかと衝撃を受けてしまった。 「そんな簡単に決まることなのかよ」 　綾人としては、何日も眠れなくなったり、その姿を目で追い続けたり、見ると切なくなったりするだろうものが、そんなに簡単なことなのかと納得がいかない。 　ただ、瀬川にとっては単純明快なものらしく、くるっと綾人の方を振り向いたかと思うと、「俺はお前を好きみたいよ。綾人は？　俺のこと好き？」そういいながらグイグイと迫ってきた。 「知るか！」 　穂村への想いだけでも持て余しているのに、これ以上そんなことを考えることは不可能で、背中に走った嫌悪感に従ってダッシュで逃げることを選んだ。 「あ！　おい、待てよ！　なあ、今日は絶対参加しろってば！」 　瀬川も必死なのだろう。そう言いながら、走って追いかけてきた。実は、瀬川はとても足が速い。綾人もそこそこ足は速いのだが、瀬川はまるで風のように速い。必死に逃げたにも関わらず、あっという間に追いつかれた。 「もう、お前！　本当に、冗談きついから……」 　綾人は、そう言って走りながら振り向いた。その時、パッと瀬川の姿を捉えると、その背後に何か黒い影が見えた。 「えっ？」 　驚いて足を止めると、瀬川はその急停止に対応しきれず、走った勢いそのままに綾人の胸にドンっとぶつかって来た。綾人はそれをまともに受けてしまい、瀬川を抱き抱えたまま勢いよく尻餅をついてしまった。 「うわっ！」 　結構な衝撃があったけれど、立ち上がれないほどでは無かった。それなのに、瀬川は綾人にのしかかったまま、ぴくりとも動かなくなってしまった。 「おい、瀬川？　どこか痛めた？」 　綾人は瀬川の肩を掴み、体を起こそうとした。グッと持ち上げた時、瀬川の背中からブワっと黒い影が立ち昇るのが見えた。 「え？」 　驚いて頭を後ろに仰け反らせてみると、その黒い影は、綾人に向かってビュンッと飛びかかるように迫ってきた。 「うわー！」 　一瞬、目が合ったように思った。黒い影にしか見えないが、目が合ったように思った。綾人は腕を顔の前に組み、すぐに目を逸らした。 ——どうしよう、なんかヤバいやつ！ 　そうは思っても動けない。逃げないといけない気がする……でも瀬川が重くて動けない。危険に晒すことになるから、瀬川を置いていくこともできない。そう思って焦っていると、やや離れた場所から声が飛んできた。 「綾人、頭を下げろ！」 　それは、最近聞き馴染んできた、あの雅な声だった。綾人は言われた通りに、瀬川の頭を抱えて可能な限り、下を向いた。すると、頭上でバシュン！　と音がした。 「ぎいいいいいいぃぃ」 　その音と同時に、苦しそうな呻き声と泣き叫ぶ声を合わせたような、断末魔の叫びが聞こえてきた。綾人は怖いもの見たさでその声が聞こえる方へと向き直った。 　そこには、真っ黒くて、何かヌメヌメとした、ヒトではない生き物がいた。それは、金色の矢で射抜かれた状態で、ビクビクと痙攣している。 　形だけで説明するとすれば、黒い鯉のように見えた。でも、魚ではないことは確かだ。痙攣しながらも、逃げようと必死にもがき続けている。その様が、異様に気持ち悪かった。 「なんだ、これ……」 　綾人が呆然としていると、ツカツカと貴人様が歩み寄ってきた。そして、黒い生き物に刺さっている矢を思いっきり引き抜いて、今度は金色の武器のようなものでそいつを叩き潰した。 「ぎいいいいいいぃぃ！」 　それでもまだ、それは動いていた。貴人様の方を、恨みがましく睨みつけながら、蠢いていた。 「お前……、これでも消えないと言うことは、生き霊だな？」 　貴人様はそういうと、その生き物に縄をかけた。すると、そいつはだんだん苦しみ始め、徐々に薄くなって消えていった。 「え？　あの……え？」 　その場に残った痛いほどの静寂に、綾人はついていけなかった。目の前で起きた出来事が理解できず、ただただ呆然と固まっていることしか出来なかった。