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第7話 岐路

「大丈夫か、綾人」  ふう、と息を吐き、ルビーのような右目を持った貴人様が、羂索を戻しながら綾人を気遣った。しゃがむと手に持った錫杖がシャランと音を立てる。顔を近づけ、綾人が抱き抱えたまま目を開けなくなった瀬川の様子を確認した。 「気を失っているだけみたいだな。心配ない」  深刻な問題がないとわかったからなのか、瀬川を雑にベリっと綾人から引き剥がし、投げ捨てるように放置した。 「ちょ、ちょっと!」  愛情表現がまっすぐな貴人様は、こんな状況でも嫉妬することを隠さないらしい。そのいつも通りの行動で、さっきまでこびりついていた恐怖心が、少しだけ影を潜めた。 「……これ、本当に大丈夫なんですか? 全然目を覚ましませんけど」 「問題無い。その辺に寝かせておけばいい。お前にくっついていると、俺が燃やしてしまうぞ」  瀬川が綾人にやたらにくっつきたがるからか、貴人様は瀬川に冷たい。それを見ていると、いつも自分がこんな感じなのかと気付かされてしまい、少し申し訳なくなってきた。   「あ、あの。さっきのはなんだったんですか? 瀬川の背中から出て来たように見えたんですけれど」  瀬川の様子も気になるが、あの黒いモノの正体を確かめたかった。ヌメヌメとした質感と、真っ黒で地を這うように蠢く生き物。そして恐ろしいことに、綾人はソレと一瞬目が合った。 ——今思い出しただけでも、寒気がする。  それくらい、神経に障るような嫌な見た目をしていた。 「ああ……、あれはおそらく生き霊だな。俺が唱えるモノが通じないとなると、死霊ではない。この男が、どこかの誰かに執着されているんだろう。生き霊になると言うことは、並大抵の執着ではないぞ」 「生き霊!? 瀬川に? 恨まれてるとか、そう言うことですか?」 「まあ、そういうことだろうな。思い当たる節はないのか……」  綾人は瀬川の近況を聞いた話を思い出していった。心理学部の子が、講義のある教室前で出待ちしているとか、文学部の女子には瀬川と一緒にいると幸せになれないという噂が出回っていたりとか、理学部の子に至っては何度か自宅を突撃しているらしいとか……そんな話ばかりが思い出された。 「それは……思い当たりまくりですね。こいつ女性への対応に問題があるんです」  貴人様の質問に、迷いなく答えが出てしまう。瀬川への恨み……それは女性関係。それしかあり得ない。 「あれ、ほっとくとどうなるんですか?」  少し痛い目を見るくらいなら、見た方がいいと思う。たださっきの感じだと、あのままではいつか命を奪われそうだった。瀬川は軽薄なやつだけれど、死んでも仕方がないとは思えない。  ちゃんと話せば、そこそこいいやつだ。瀬川の言うことは、いつも表現がちゃらんぽらんなだけで、内容は悪くない。 「あの様子だと、このまま何もせずにいれば、おそらく命を奪われるだろうな。羂索で救えぬのであれば、剣で斬り捨てるしかない。ただし、あまりに侵食されすぎていると、瀬川ごと斬るしかなくなる。早めに対応したほうがいいのは間違いないな。ただそれが今すぐ必要かと言われたら、そうではない」 「もし、もし斬るとして……斬られたら瀬川はどうなるんですか?」 「斬られたこと自体のダメージと、それに加えて炎で燃やされるダメージを同時に負う。普通の人間なら、間違いなく命を落とす」 「そんな……」  ゴオッと音がして、また風が舞い上がった。周囲の桜や芝生、小石を巻き上げて瀬川の顔を打つ。綾人の顔にも小さな枝や葉が当たってきて、痛みを感じる。  それなのに、瀬川は動かない。手で避けなければ顔に痛みが走るはずなのに、それをしない。本当にこのまま何もしなければ、死んでしまうのだろうなというのがそれで伝わってきた。 「今動けなくなるほどにダメージを受けている。すでにかなりの影響を受けているのだろう。生き霊の本体を探して説得するという手もあるが……」  貴人様はスッと視線を瀬川に落とした。その視線は、やや冷たい。それでも、綾人にとっては数少ない友人のうちの一人だ。何か少しでも出来ることはないのだろうかと考えていた。  そんな心中を察したのか、貴人様は綾人に思いもよらない提案をしてきた。 「綾人。お前、この男を救ってみるか?」 「えっ?」と驚きながら、綾人は貴人様を見上げた。その目は真剣だった。間違っても揶揄われているようには見えない。 「お、お祓いを、ですか? 俺そんなこと出来ませんけれど……」  貴人様は確かに、百人を助けろと言っていた。でもそれは、ボランティア等の現実的なことだろうと思っていた。その様子を見た貴人様が、フッと笑いながら「何を言うんだ」とさも当然のように言う。 「お前は元々そういうことができる性質だ。霊の姿が、生きている人と同じように見えて困ったことが、何度もあるだろう? それは霊感の強さを表す指標だ。それに、俺が口付ける度に、お前自身は浄化され、霊力が強化されている。常に力は増しているはずだ。やろうと思えば、祓いもできるはずだ。ただし、これは楽しいものではない。その分、お前には覚悟が必要になる」  綾人は悩んだ。覚悟とはどう言うことを指すのだろう。楽しい学生生活に遊べなくなるということだろうか。それとも恋愛したいのにできなくなるのだろうか。  しかし、そんなことは杞憂だ。今の綾人は、あと二百七十日で罪を消さなければ、結局首を切られる運命なのだから。悩む余地もない。  それでもお祓いとなるとどういったことをするのかが全くわからない。決めかねた綾人は、瀬川の顔を覗き込んだ。瀬川の顔色は、だんだんと青白くなっていた。それは、もう時間が無いと言っているようだった。  毎日綾人の近くに現れては、鬱陶しいほど騒いでいた瀬川。本当に鬱陶しいと思っていた。それでも、あの騒音がなくなってしまうと考えると、それはとても寂しい。  近くにいて当然だと思っていたからこそ、うざいと思うことも出来た。居なくなるかも知れないと思ってしまうと、手元に置いて置きたくなる。  我儘で幼稚な発想かも知れないが、してあげられることがあるのであれば、してあげたいと思うようになっていた。  ただし、決定的な覚悟が決まら無い。 「覚悟とは、何をすればいいのですか?」  決めかねている綾人は、貴人様に尋ねた。それを聞いた貴人様は、綾人へ向き直り、正面からまっすぐ目を見た。 「うっ!」  すると、大音量の高周波の耳鳴りと共に、綾人の頭に直接響くような声で問いかけてきた。 『これは、強制ではない』  貴人様の声であって、そうでない。空間を音波が移動する声ではなく、頭の中に直接響き渡るような音が聞こえた。畏怖と親しみの混じるその声は、聞きたいような聞きたくないような、これまで聞いたことの無い不思議な声だった。  貴人様は、綾人の目をまっすぐに見ていた。見ているのに、視線がこちらを向いているのかいないのかよくわからない。瞼が半分閉じた状態で、はっきりと意思が読み取れなかった。その背後からは、いつの間にかオレンジ色の光の束が、ゆらゆらと揺れ始めていた。 『選べ、綾人。  この人間を、救うか、救わぬか。  救うならば、一度踏み込めば、逃げられぬ。  達成するまで、辞めることは出来ない。  お前に、それができるか?  お前は、それを望むか?』  声に含まれる高い音に、頭がくらくらした。轟音のような耳鳴りと共に、水中の会話を聞き取るような感じがする。  この問いかけに迂闊に答えると、自分の人生がどうなるかわからない。でも、どうせこのまま人を助けないといけないのなら、瀬川を助けない手は無いんじゃないかと思った。  これといって生きがいのなかった人生だ。この大変な人助けをすることで、何かを掴めるかもしれない。それなら、願ったり叶ったりだと思おう。それでも一抹の不安が拭えず、甘えるように貴人様を見た。 「貴人様は、俺を支えてくださるのですか?」  不安げにそう訊いた綾人に、柔和な笑みを浮かべて、貴人様は綾人の右目のほくろをそっと撫でた。そして、五つの点を一つずつ指先で確認し、その指先を自分の唇に当てた。 『祓いの力の強化を約束しよう。そして、穂村としても、俺としても、常にそばにいてやる。それならば、やれるか?』  綾人は、動かない瀬川の方へ向き直った。 ——貴人様がついていてくださる。そして、俺なら助けられる。それなら……  迷ってはいけない。人一人の命が、自分の意思にかかっている。そう考えると、覚悟は決まった。 「わかりました。俺、やります」  その言葉を聞いた貴人様は、ゆっくりと微笑んだ。とても優しく穏やかで、蕩けるように美しい笑顔だった。 『では』  そういうと、徐に口に当てた指にフーッと息を吹きかけた。パアッと光が弾けて、綾人のほくろの一つが熱を持ち、赤い星状に変化した。 『桂綾人、瀬川岳斗に憑いた生き霊の祓いを、お前に命ずる』  貴人様は、右手に剣を取り出した。その剣の鋒を綾人に向け、目の前でピタリと静止させる。目を瞑り、集中を高めているように見えた。  綾人はその様子をじっと見ていた。次第にオレンジ色の光がどこからともなく現れ、剣の周りにくるくると回転しながら集まってきた。  それは、まるで剣の周りに龍が絡みついているように見えた。それがだんだん大きくなるにつれ、貴人様の周りの空気がズシリと重さを増していく。圧迫感に押し潰されそうになりながら、綾人はそれに耐えた。  ビリビリと肌に変化を感じた。今、何かが自分に起きている。 「しっかりやるんだぞ」  そう言葉をかけられた瞬間、オレンジ色の光が一匹の竜となってこちらへと襲いかかってきた。その龍が口を開き、飲み込まれたと思うと、ドクンっと心臓が跳ねた。 「うっ!」  そして、膝からゆっくりと頽れ、瀬川の上に頽れていった。 「ヤト」  貴人様は綾人を抱き抱えた。そして、一呼吸すると、三人の姿は夜の空の中へと消えていった。

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