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第8話 目が覚めて
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『お父様? その方はどなたですか?』
——長い黒髪と真っ白な肌が印象的な少女が、俺の隣に立っている人に話しかけている。その娘の視線は、俺への戸惑いを隠せないようだった。隣に立つ男性は、長い髪を三つ編みにして左肩に垂らしていた。その綺麗な横顔を見上げると……。
「えっ?」
綾人がハッと気がつくと、そこは真っ暗な部屋の中だった。大学で倒れてしまった後、あのまま眠ってしまっていたらしい。そして、夢の内容に驚いて目を覚ました。何が起きているのかを理解出来ずに、あたりを見渡しつつ狼狽えている。
——今の、夢だったのか?
夢というにはあまりにも現実味があり、あの処刑される夢の時と同じように、やたらと五感に訴えるものが多かった。少女の視線に困っている自分の心情に、僅かながら命の危機が感じられたことも、この動揺の理由の一つだった。
——処刑とか命の危機とか、勘弁して……。
夢を見る前には、現実とは思えない出来事に見舞われ、夢の中はやたらに現実味があった。ベッドに座り、頭を抱える。ヘッドボードに背を預けて首を擡げると、コンと乾いた音を立てて頭を軽く打った。
高熱が出た時のようにぼーっとしていて、自分の中身が体という容れ物だけを残して、ずるずると下へと滑り落ちていくような感じがしている。体が鉛のように重いというのは、こういうことなのかとその言葉の妙に変に納得してしまうほどだった。
成長期に体の変化についていけず、毎朝なかなかベッドから出られなかった頃に似ている。あの毎朝母親から怒られていた日々は、これまでの人生で唯一親を嫌いになりそうな時期だった。
それも成長が落ち着くとともに減り、今ではまるで無かったことのようになっている。
「でももう成長期じゃないしなあ。風邪でも引いたんだろうけど……すっげえ怠い」
今日のこれはなんだろうかと考えてみる。体調不良といえばそうだ。ただ、これまでに経験したことがないような怠さと共に、心地よさもあるように思う。ふわふわと浮ついているようで、ズシリと体が沈み込むような、不思議な感覚だった。
「あー、トイレ行きたいかも」
めんどくさいなあと思いつつも、流石に漏らすわけにはいかない。ヨイショと声を出して立ち上がった。誰も居ないつもりで独言た綾人の耳に、カラカラと雅な笑い声が飛び込んできた。
「年寄りのようだな、綾人」
気がつくとドアを開けて貴人様が立っていた。右目にあざがなく、瞳がルビーのように赤い。それは穂村ではなく、貴人様であることを示している。
貴人様はなぜか俺の部屋着を着ていた。一番ゆったりしたシルエットであるはずのTシャツは、貴人様が着ると小さいらしく、ややピチピチになっていた。
——なんかあれって……彼シャツの逆バージョン?
そう考えるとおかしくなって、思わずブッと吹き出して笑ってしまった。貴人様はそれがお気に召さなかったようで、ムッとしながら綾人の方へと詰め寄って来た。
「何を笑っている? バカにしているのか?」
「え!? してませんよ。あの、えっと……ふっ、服が体にぴったりくっついていると、気持ち悪くないですか? 俺、ちょっと父に頼んで服を借りて来ます。待っててくださ……」
そう言って、父のところへ行こうと、部屋を出ようとした。しかし、足に力がうまく入らず、すぐによろけてしまう。二歩目まではどうにかなったが、三歩目は踏み出すことも出来ずに、そのまま膝から崩れ落ちてしまった。
ドアに体を預けていた貴人様は、綾人が完全に倒れる前にその体を受け止めた。そして、ふわりと抱き上げると、そのまま横抱きにしてベッドへと連れ戻してくれた。
「無理をするな。俺の気を多めに受けたばかりだ。最初は拒否反応で高熱が出るし、意識も飛ぶ。お前、おそらくわかってないと思うが、あれから三日経っているんだぞ」
綾人は「え!?」と言いながら、スマホを探した。机の上にそれを見つけると、ディスプレイに表示されている日付を見て驚いた。本当に丸二日が過ぎていた。カレンダーもSNSでも、間違いなく二日経っていた。
つまり、今はあれから三日目の夜にあたる。それだけ眠っていたというのに、まだ怠い。かなり体に負担がかかるようなことをされたのだということが、よくわかった。
「ずっと眠っていたんでしょうか? え? 親は? 親にはなんて言ってあるんですか?」
貴人様は、ふっと眩しそうな目をして微笑んだ。そして、綾人のそばにふわりとしゃがみ込み、額と額をコツンと合わせた。そして、そのまま動かなくなった。
美しい顔がすぐそこで目を閉じている。思わずのけぞってしまうと、それを察知した手に行手を阻まれた。再び引き寄せられた先には、綺麗な長いまつ毛が、ふさふさと揺れていた。
「貴人様? どうしまし……」
その時、綾人は頭の中でブウンと音がしたように感じた。
「えっ? 今なんか……」
音に戸惑っていると、倍速で再生される動画のようなものが、目の前に見えるようになった。その映像は、あの小部屋で瀬川が倒れた日の映像だ。説明するにちょうどいい内容の映像が、何度も何度も繰り返される。
ものすごいスピードの映像だった。それが、何度も、何度も、何度も、何度も……そして、ふっと途切れた。貴人様は、スッと額を離すと、にっこりと微笑んだ。
「こうやって、映像を繰り返し見せて、理解させる。今はお前にわかってもらうために、ゆっくり流した。本来はこれの数百倍の速度で見せる。なんの説明もせずとも、相手はそれを理解して受け入れる。サブリミナルだな」
綾人は驚いて、目を見開いた。貴人様が人間ではないとわかってはいたけれども、こんなことが出来るとは思ってもいなかった。これは、ただ人の記憶を思い通りに動かしただけではなく、人心操作をしたことになるはずだからだ。
綾人の両親は、心霊の類を信じないタイプの人たちだ。この映像の内容を受け入れさせたということは、心霊の類も受け入れたということになる。綾人には、そのことがとても信じられなかった。
「すごい! さすが神様って感じですね。父さんたち、これを信じたんだ。すごいなあ」
綾人は、神様はこんなことまで出来るのかと驚いた。もしかして、これまでにもこんなふうに有無を言わさず、動かされていたのだろうかと空恐ろしくもあった。
そして、ふと疑問が湧いた。人間がそんなに簡単にコレを受け入れることができるのであれば、もっと有効に出来るであろうことが思い浮かんだのだ。
「あの、このやり方で過去の俺を更生させることはしなかったんですか? これなら話が早そうなのに」
すると、貴人様は、ハーッと大きなため息をついた。明らかに呆れている。いや、それよりももう少し強い感情を含んでいるように感じた。呆れているというよりは、怒っている。
——やばい、なんか言ってはいけないことを言ったのかもしれない。
綾人が、どうにかして取り繕った方がいいのだろうかと思案して焦っていると、そんな綾人を見て、貴人様はクスリと笑った。
「ああ、すまない。お前は別に悪くない。ただ、人間は効率化が好きだなと改めて思っただけだ。そしてあまり気づかぬよな。効率化がかえって仇になることもある。成果を出す効率を良くしようとしていて、成果が出せなくなっては意味がない。お前は魂の成長のために更生をするべきであったのであって、それを理解せず、またそのための労をせずであれば、どれほど人を救おうとも、それは成果とは言えないぞ」
ククッと笑いながら、貴人様は吐き捨てるように言った。これまで何人もそういう人を見てきたのだろう。それは明らかに、侮蔑の笑いだった。
人間のそういう行いを見るたびに、呆れ、落胆し、見捨ててきたのかもしれない。過去の俺も、きっとそうだったんだろう。なんとなく言ってはいけなかった事を言ったのだろうという事を、ビリビリと肌で感じた。
「ごめんなさい。他人任せな発言でした。そこは自分で頑張るべきところでしたね」
綾人がそういうと、貴人様は少し目を見開いて、へえ、と言った。そして、まじまじと目の前で悄気ている人間の顔を見た。
「殊勝なことじゃないか。えらいぞ。魂はちゃんと成長しているようだな」
そして、満足そうに微笑むと、ゆっくりと綾人の方へと顔を近づけていく。怯える綾人の目を覗き込み、捉えたまま離そうとしなかった。
穂村の深淵の目とは違い、貴人様の目は力強く、鋭い。それでいて、その奥には深い愛情が見える。見つめられると、そわそわと居心地の悪さを感じるようになる。
心が底からひっくり返されそうで、感情を制御できなくなる感じがして、怖くなってしまう。
貴人様は右手で綾人の頬にそっと触れる。その手は優しく、温かかった。綾人はその温度を感じてふっと体から緊張が消え、どこからか、もっと触れていてほしいという気持ちが湧いてくるのを感じていた。
焦燥感が消えて湧き起こった衝動からから、綾人は貴人様の手にスリスリと頬を擦り付けた。貴人様は、左手で俺の髪を撫でる。ゆっくり何度も撫でながら、半身を乗り出して、俺の上に影を作った。
「今日は人助けで成果を上げていないから、これは単なる俺の気まぐれだ」
そう言いながら、スッと顔を近づけてちょんっと綾人の唇に自分の唇を触れてきた。それは、幼い口付け。まるでお互いに初めてするような、様子を伺うようなものだった。
これまでにも、何度も戯れに口付けをされることはあった。一度も遠慮など示したことの無かった貴人様が、今日は恋心を持て余す少年のようだった。
軽いノリのものではなく、儀式的な行為でもなく、貴人様の個人的な気持ちの入った口付けだということが、強く感じられた。
綾人は貴人様が纏う空気に変化が現れたのを感じ、自分の顔が耳まで真っ赤になっていくのを感じた。破けてしまうのではないかと思うくらいに、ドキドキと心臓が跳ねている。
——浄化じゃないのに、俺にキスしたくなったってことだよね?
跳ねる心臓とは対照的に、へその下の方がぎゅうっと苦しくなるのを感じた。顔にかかる貴人様の吐息が、徐々に首筋へと移っていく。綾人は堪らずに「んんっ」と声を漏らしてしまった。
「わ!」
その声は自分のものとは思えないくらいに艶があり、思わず口元を手で隠してしまった。その姿を見た貴人様の顔が、急に切羽詰まったように変わり、フッと短く息を吐いたと思うと、眉根を寄せて辛そうにした。
「綾人……。あまり俺を煽らないでくれよ。さっきも言ったが、お前には行をさせないといけない。その間は、俺はお前に口付け以上のことはしてはならないんだ。俺がお前を抱いてしまうと、行にならないからな。全てをすっ飛ばして、天人になってしまう。それだと、ダメだなんだ。俺とお前の最後の望みを叶えるためには、我慢しなくてはならない……」
貴人様はそう言いながら、ちょっと拗ねたような顔をした。そして注意された綾人はというと、その言葉の最後を待つまでもなく、枕を取って貴人様に投げつけていた。
その姿は、顔どころか首筋まで真っ赤になっていて、ふるふると震えながら涙目になっていた。
「安心してください! そんなことしませんから! さ、させませんから! 抱くって……なんですかっ!?」
そう叫ぶと、布団の中に潜って出てこなくなってしまった。
貴人様は額に手を当てて長く息を吐き出し、「しまった」と小さく呟いた。
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