◇◆◇ 「いただきまーす。あれ、穂村またメロンパン食べてる？　好きだなー、ホント」 　春とはいえ、正午にもなると陽射しは厳しくなっていた。それでも屋外で風を感じながら昼食を摂りたいねと言うことになり、綾人と穂村はいつもの学食のテラスにいた。 　綾人は学食でハンバーガーのセットを買い、穂村は大きなメロンパンとリンゴジュースを買っていた。 「桂、これも食べない？」 　それにプラスして、穂村が二人分のサラダを出してきた。それは、とても人気があって美味しいと有名なデリのものだった。一人暮らしで節約生活をしているのに、わざわざ買って来てくれたらしい。 「あ、これ食べたかったやつだ！　穂村、これ高くなかった？　サラダ好きだから買ってみたかったけど、結構高いからまだ買ったことなかったんだよ」 「うん、まあまあした。でもさ、めちゃくちゃ美味そうだよ。この砕いたナッツとか入ってるヤツ、好きなんだ」 　器用に片手でメロンパンを齧りながら、もう片方の手でサラダにドレッシングを回しかけている穂村の姿を見て、綾人はふと思った。 ——もしかして、俺が食べたいって言ってたから買ってきてくれた？ 　そう思いながらじっと穂村を見ていると、その視線に気づいた穂村も綾人の方をじっと見返す。そして、ふんわりと微笑むと、やや首を傾げながらサラダを指さし、「食べてみたかったんだろ？　食べな」とフォークを手渡してくれた。 　それを受け取りながら、綾人は体がじんわり温かくなっていくのを感じた。 ——わあ。すげえー。嬉しいと何も言えなくなるんだ。 　綾人がずっと憧れていた恋人とのやり取りを、何も言わなくても穂村がしてくれることに感激していた。そんな綾人を不思議そうに眺めている穂村に、かろうじて絞り出した声で小さくお礼を言う。 　恥ずかしくなって顔を背けていると、短く息が漏れる音が聞こえた。もしかして何か不機嫌にさせたのかと思い、パッと顔を上げて見ると、穂村は綾人を見つめながらとても嬉しそうに微笑んでいた。 　その笑顔を見ていると、そわそわと落ち着かなくなってくる。いつも胸がきゅうきゅうといっぱいになっていく。焦って余裕がなくなった綾人は、目の前のサラダに向かって「いただきます！」と叫び、飛びついた。 　 　瑞々しく色鮮やかな野菜たちを、パクリと口に含む。噛むとたくさんの食感と香りが溢れてきた。並ばないと買えないことにも、この値段を払うことにも、イマイチ納得しきれていなかったけれど、これは払うべき値段なのだと一口食べるだけで納得させられる。 「わー！　うっまい！　何、サラダがこんなに美味いのってなんでなの！」 　綾人は、テラスに響き渡りそうな大きな声で叫んだ。穂村は、それを満足そうに眺めた後、同じようにザクリと数枚の葉物を刺して口に運んだ。 「うわ、ホントだ。めっちゃくちゃうまい！　さすが、高いだけあるなあ」 　それから二人は、まるで草食動物のようにもしゃもしゃとサラダを食べ続けていた。グリーンの葉物野菜と赤と黄色のミニトマト、ひよこ豆やキドニービーンズ、枝豆などの豆類、キヌアやアマランサスなどの雑穀類と、アーモンドやピーナッツなどのナッツ類が入っていた。 　ドレッシングは和風ドレッシング。容器に入れたまま振りまぜると、味が複雑になるのでとても美味しくなった。 「瀬川が見たら大騒ぎするだろうな」 「そうだね。葉っぱばっかり食ってこんな値段かよ！　とか言いそう」 「言いそうだなー」 　お互いに笑って話してはいるけれど、言葉尻が寂しくなってしまうのはどうしようも無かった。瀬川が眠ってしまってから、すでに一週間が経った。一度も目を覚まさず、青白い顔のまま眠り続けている。 　 　瀬川は一人暮らしなので、綾人と穂村と貴人様以外にこのことを知らせる必要がなかったことは幸いした。もし実家暮らしだったら、大問題になっていたところだっただろう。 「息子さんは生き霊に憑かれて死にかけてます」なんて、とてもじゃないが言えない。しかも、その理由が女性関係で起きた問題で、逆恨みされている可能性が高いという。 　そんな酷い内容を家族に伝えるなんていうことは、とてもじゃないが出来ないと綾人は思っていた。 　ただ、その必要があった場合は、貴人様のあの能力が発動するのだろうから、実際はそんなに心配はいらないのだろう。証拠と言ってはなんだけれども、あの時周囲にいた人たちは、誰一人として瀬川に起きたことを覚えていない。 　それはつまり、貴人様が、周囲にいた人たちの記憶を、改竄しているということだ。 「おーい、綾人ー。今日ちょっと時間くれない？」 　コーヒーを飲んでぷはっと息を吐き、鼻から抜ける香りを楽しんでいると、水町が声をかけながら走って来た。中学時代から、一目惚れ等で女の子に付き纏われがちだった綾人にとって、唯一と言える女友達が水町だ。 　水町は綾人の顔が好みだという割に、全く執着してこない。かと言って、ドライで冷めた関係かというと、そうでもない。お互いに嫌なことがあるとそれを分かち合ってみたり、どちらかにいいことがあった場合は、一緒に喜んだり出来るような間柄だ。 　それでも、これまで恋愛関係に発展するような事は一度も無く、最も長く友人関係を保っている。男女ともに深く長く付き合っている友人は他にいないため、綾人にとってはとても大切で、貴重な存在だ。 「おー、いいよ。でも晩飯くらいまでには帰んないといけないかな。ちょっと行かないといけないところあるし」 　えー、と水町は不服そうに剥れた。普段あまりそういう反応をしないので、物珍しく見える。 「何？　飯の時間じゃないとダメなことがあるなら付き合うよ。話も飯と一緒にする？　長時間は難しいってだけだから」 　綾人がそういうと、ぱあっと水町の顔が明るくなった。そして、何かを決意するように小さく唇を結ぶと、「それでお願いします！　じゃあ、また後でね！」と言い残し、中庭を走って去って行った。 「珍しいな、あいつがあんなに食い下がるなんて……」 　綾人がそう呟くと、穂村がメロンパンを齧りながら呟いた。 「水町さんは、瀬川くんのことに気付いてるみたいだよね」 「えっ！？」 　綾人は驚いて大声を上げた。それでも穂村は涼しい顔をして、紙パック入りのリンゴジュースを飲んでいる。まるで当然のことを口にしただけだと言わんばかりの態度だった。 　でも、綾人にとっては驚きでしかない。この件は、綾人と穂村と貴人様以外は知らないことになっている。三人とも、誰にも口外していないはずだ。それなのに、水町が気づいたのだとしたら理由がわからない。 「……なんで水町が気付いてるって思ったんだ？」 　マイペースにメロンパンを食べ続けている穂村に訊いてみる。もぐもぐと咀嚼を繰り返しながら、穂村は返答する言葉を選んでいようだった。 「それは……」 　そして、綾人の方へと視線を移して、質問に答えようと口を開きかけた。その時、何かに気がついたようで、ハッと目を見開いて動きを止めた。 「穂村？」 　その表情は、いつものものと全く違い、とても厳しいものだった。綾人は穂村が見ているものがとても気になったが、その表情を見ていると訊くに訊けなくなっていた。そもそも、知りたければただ後ろを向いて確かめればいい話だ。 　でも、どうしてなのかはわからないが、ソレを見てはいけない気がしていた。綾人は、じっと穂村に目を向けて、逸らさないように気をつけた。 「ど、どうした……なんかいる？　俺の後ろ」 　その時、後ろから旋風のような突発的な強風が吹きつけてきた。同時に、背筋を冷気が駆け上っていく。 ——何かいる！？ 　その何かの気配を感じ取った時には、命の危険を感じるようになっていた。背中を汗が伝うのがわかる。どうしようかと思案していると、目の前の穂村がスッと立ち上がった。 「綾人。振り向かずに全力で走れ。いいか。絶対に振り返るなよ」 　綾人に近づいて、頭をポンポンと叩いたのは、貴人様だった。赤い右目がぎらりと光っていた。そして、じっと前を見据えたまま、視線を絶対に逸らすまいとしている。 　どうやら相手は、一瞬でも目を逸らすと危険なモノであるようだ。ただ、綾人は頭がついていかなかった。混乱すると体はどう動けば良いのかがわからなくなり、そわそわするだけになる。 　見かねた貴人様が、綾人の耳元でわざと息が多くかかるように囁いた。 「逃げぬと、抱くぞ」 　そう言って、ふっと綾人の耳に息を吹きかけた。 「ふあっ！？」 　綾人は、またしても素っ頓狂な声を上げた。そして、思い切り引き絞られた矢のように、まっすぐ前を見据えて猛ダッシュで逃げていった。 「おーおー、まるで韋駄天だな」 　綾人が走る姿を眺めながら、貴人様は楽しそうに肩を揺すっていた。それでもまだ、目は前を見据えたままだ。綾人がA棟の建物の中へと入り、見えなくなるまでその背中を見送った。 　そして、くるりと振り返ると、その禍々しい気を放った人物の方へと向き直った。 「さて、お前は一体どこの誰だ。どうやらまっすぐ辿り着ける相手では無さそうだな」 　貴人様の目の前には、黒いモヤを纏った女子学生がいた。空な目をして、ずるずると体を引きずるように歩いている。貴人様に声をかけられて気づいたようで、振り返るとまっすぐに貴人様の方へと向かって来た。 　もやが貴人様に触れるか触れないかという距離まで近づいてきた。そして一言、涙ながらにぼそりと呟いた。 「助けてください」