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第12話 穂村の想い1

◇◆◇ 「桂ー。それシャツ裏返しじゃない?」  綾人がいつもの学食のテラスでメロンパンを食べながらコーヒーを飲んでいると、穂村がニヤニヤしながら近づいてきた。 「えっ? 本当に?」  そんなことあるか……と思いながら見てみると、確かにTシャツのプリントが薄い。 「うわ、本当だ……信じらんねー」  今日は風が強い。少し歩くだけでもゴミが飛んで来ては目を瞑り、髪がボサボサになっては直しと忙しくしていた。だからと言って、裏返しで着た服に気づかないものかと問われると、そんなことは無い。  それでも、ここで服を脱ぐわけにもいかず、綾人がどうしようかと慌てていると、穂村が楽しそうに笑い始めた。 ——また、俺で楽しんでるな……。  そして、はたと気がついた。今気がついたにしては、やけに楽しそうにしている。もしかして、もっと前から気がついていたのに、それを放置して楽しんでいたんじゃ無いかと訝しんだ。 「穂村ー、お前、これいつから気付いてた?」  すると、穂村は、猫のしっぽのような髪をゆらゆらと揺らしながら、腹を抱えて笑い始めた。 「っく……い、一限の時」  綾人は、思わず穂村の肩をパシッと叩いてしまった。朝会った時から気がついていたのに、そのままにされていたなんて……。 「お前ー! 気がついたらすぐ教えろよなー!」  穂村は、それでもまだ楽しそうに笑っていた。  最近、穂村はよく笑う。歩く不幸と呼ばれていた人物と同じ人だとは思えないほどに、いつも幸せそうに笑っている。その笑顔がとても眩しくて、綾人は不覚にも見惚れてしまうことが増えていた。  今もまたじっとその横顔を見ている。綾人があまりにも凝視するので、さすがに穂村も恥ずかしくなったようだった。 「何、そんなじっと見て。怒った? ごめんね?」  涙を拭いながら、穂村は綾人に甘えるように許しを請う。美しい顔立ちをしているため、上目遣いに見られると、それだけで綾人はそわそわと落ち着かなくなってしまう。  最近はそんな風に穂村に弄ばれるようなことが増えた。しかも、綾人も綾人で、それを居心地良く感じるようになっていた。  綾人が穂村を何度か吹っ飛ばしてしまったり、貴人様が穂村に憑いていることもあり、二人が関わることが増えたことで自然とそうなった。そうでなければ、ここまで親しくはなれなかっただろう。  貴人様は、いつも表に出てくるわけではない。普段の生活は、ほぼ穂村と一緒にいる。夜眠る前に貴人様と入れ替わり、綾人のその日の善行をカウントして、その数に見合った罪を浄化する。  今の所、それは毎日続いている。それでも、いつまで経っても綾人はそれに慣れることができず、毎回顔を真っ赤にしては、ドキドキして死にそうな思いをしていた。  ただ、ここ最近はドキドキしている最中に、貴人様がフーッとため息をつくことが増えていた。その理由を訊けばいいのかもしれない。でも、なぜかあまり良くない話が出てくるような気がしていて、それができずにいた。  そんなことを考えていたら、今度は穂村がじっと綾人を覗き込んでいた。鼻先が触れそうな距離に、深淵の目が迫っていた。綾人はその儚げな美しさに一瞬で目を奪われた。   「穂村……?」  綾人は穂村のそのあまりに熱の籠った視線に、そわそわと落ち着かなくなってしまい、離れようとした。すると、穂村は綾人の腰に腕を回し、逃すまいと引き寄せた。  反対の手は、しっかりと握られている。がっちりホールドされた状態で、さらに顔を近づけてきた。 「ちょ、ちょっと待って……」  あまりの急な接近に、綾人は顔を逸らして逃げていた。背中を反るにも限界があり、だんだん耐えられなくなった綾人は、そのままドスンと潰れてしまった。  下は芝生が生い茂っているので、ケガはしていない。ただ、クッションがあるわけでも無いので、打ち付けた腰がかなり痛んだ。 「いってぇ、何すんだよ! 何か言いたいことがあるんなら……」  そう言いながら穂村の方を見た。覆い被さった状態の穂村の前髪が、綾人の顔に触れてくすぐったかった。右目の周りのアザがはっきり見える。綾人は、このアザを初めて見た日を思い出した。  助けてあげたいと思ったのに、何もしてこなかった三年間を思い返した。その後の三年間、歩く不幸と呼ばれた目の前の男は、今愛おしそうに自分を見ている。  なんとなく、そのアザが自分たちを引き合わせてくれたと感じた綾人は、そっとそのアザに触れた。スーッと指先でなぞる。何度かそうやって触れてみた。 「気になる?」  アザを触っている綾人の手を握りながら、穂村は訊いた。そして、その手にチュッと口付けた。その口に手を触れたまま、綾人の目をじっと見ていた。よく見ると、その目はうっとりと潤んでいる。 「……綾人……」  穂村が小さく綾人の名前を呼んだ。綾人は、あの顔の人に名前を呼ばれるのには、慣れている。毎日、毎晩、触れ合う。  でも、今目の前で綾人を呼んでいる人は、同じ顔なのに別の人だ。声が違う。呼び方も違う。  自信ありげに慈しむ貴人様とは違い、許しを請うようなおずおずとした、遠慮がちな呼び方だった。 ——うわ、なんか……ぎゅってなる。  切羽詰まった表情の穂村の優しい声が、綾人の胸の奥に響く。綾人は体が震えていることに気がついた。それはこれまで一度も経験したことのない喜びだった。 ——名前を呼ばれるだけで、こんなに嬉しくなることってあるのか? 「綾人。俺、あれから返事聞いてないんだ。今、聞かせてくれない?」  触れていた手の甲で、頬を擦る。穂村は肘を付いて前傾になった。どんどん顔が近づいてくる。綾人自身、穂村に好意を持っていることは間違いないと思っている。  ただ、その想いが貴人様へのものなのか、穂村へのものなのかをわかっていない。どちらと過ごしている時も、なんとなく浮気をしているような気がして咎められるのだ。  恋愛経験の無い綾人にしてみれば、この状況は理解し難い。心がはっきりと決まっていない状態でこんな風になることに、毎回罪悪感があった。それが苦しくて、目を逸らしてしまう。  そのまま顔ごと逸らして、ぎゅっと目を瞑っていると、穂村が悲しそうに呟いた。 「お願い。綾人。俺のこと見てよ」  その声音と視線に、綾人は意図せず傷つけてしまったのかもしれないと思い、言い訳をしようとした。ふっと力が弱まったその一瞬、穂村はその変化を見逃さず、綾人に覆い被さるように抱きしめると、長くて深いキスをしてきた。   「んっ、……ちょ、っと」  急激な距離の詰め方をすることで、綾人が困惑してしまっていることには、穂村はもちろん気がついている。それでも、このチャンスを逃す手はないと思っていた。  穂村としても、最初はゆっくり距離を詰めていこうと思っていた。それでも、そんなに呑気なことを言ってられないような事態が待っていることを知った以上、そうも言っていられなくなっていたのだった。 ——会えなくなる前に、三年分の想いを綾人にぶつけたい。  何度も繰り返し口付けながら、穂村は、数日前に貴人様から聞かされた話を思い出していた。

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