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第14話 もっと早く知りたかった
◇◆◇
穂村は鏡を割って以来、貴人様の姿を見ていない。冷静になってからは、罪悪感に潰されそうになっていた。焦燥感を拭う方法がわからずに苦しんでいることもあって、毎日が苦しみの中に埋もれていた。
「んうっ……」
唇が腫れそうなほどにキスをする。穂村は、綾人を失う未来が確実にやって来るということが、どうしようもなく怖かった。自分のものでもないのに失うのが怖いと思うなんて、烏滸がましいというものだろう。
ただ、綾人のそばにいると体の奥底から噴き出すような想いがあって、穂村にはそれを止めることがどうしても出来なかった。
——許されるなら、もっと近くに行きたい。
その想いが自分を飲み込んでしまいそうで、必死になって踏みとどまっていた。気持ちに押されるがままにするキスは、もう既に口付けなんていう生やさしいものでは無い。
この手からいなくなるくらいなら、唯一繋げることが出来ているこの小さな場所から、綾人の全てを自分の中に取り込んでしまいたい。自分が綾人の中に入り込めるなら、それでもいい。
何があっても離れる未来は迎えたくない。ただひたすらにその思いに焦れていた。
その穂村の腕の中で、綾人は顔を真っ赤にして穂村の胸を叩き続けている。突発的に燃え上がった穂村の執念に焼かれるようで、体が限界を迎えそうになっていた。
「ぷはっっっ!」
やっと口を離した穂村を、綾人は弾き飛ばした。何かを訴えようとしているけれど、力尽きて声も出せ無い。ずっと口を塞がれていて、鼻でしか呼吸ができなかったためか、酸欠で頭がクラクラしている。
「お、前……殺す気……かよ……」
綾人は大きく肩を上下させながら、必死になって悪態をついた。頬が赤くなったのは酸欠のせいだけではなく、押し切られたことに対しての怒りも含まれていた。
それでも、綾人も穂村のキスが嫌だったわけではない。倒れ込みながらも、熱を帯びた目で穂村を見つめていた。
「あ……ごめ……」
穂村はようやく落ちついたようで、綾人の顔を見ると狼狽え始めた。どれほど自分が強引だったのかが、綾人の唇が切れて血が流れていたことでようやくわかった。
「ごめんっ」
頭を下げる穂村に、綾人は吐き捨て気味に「あーもういいよ」と言った。そして、むくっと起き上がると、その金色の瞳でギリっと穂村を睨みつけた。少し顎を引いて、上目遣いにじっと見ている。
穂村は、何も言わずに黙って見る綾人の視線の強さに動揺した。そして、自分のとった行動に後悔の色を深めた。
「穂村」
止まっていた風が、また吹きつけてきた。二人の間を通り抜け、ほんの少し距離が空く。綾人の金色の髪が風に舞い、陽の光を受けてキラキラと光を放っていた。
——あ、俺が好きになった時の、あの綾人だ。
高校の時、穂村は綾人に一度だけ助けてもらったことがあった。それは、綾人にとってはよくあることで、記憶の隅にも残っていないらしい。それでも、穂村にとっては忘れられない思い出になっている。
前髪を伸ばしてあざを隠していた穂村は、機嫌の悪かった問題児の集団に絡まれて詰られていた。そこへ偶然綾人が通りがかった。その時目が合い、綾人は穂村の危機を察知してくれた。
『おい、お前ら穂村になんか用か? 俺が一緒に聞こうか?』
綾人はそう言って、穂村と集団の間に立ち、壁になってくれた。その日も強風の吹き荒ぶ日で、金色の髪が揺れる様が幻想的だった。陽の光を浴びて輝く姿は、まるで獅子のように見えた。
その日以来「穂村貴人は桂綾人の知り合いだから、絡むと危険」という噂が周り、穂村はそれ以上いじめられる事はなかった。
今の綾人から、その時あの集団に向けたものと近い怒りを感じる。それほど怒らせてしまったのかと悔やんで、穂村は俯いた。その視線の先に、綾人の靴が見える。じっとそのつま先を見ながらどう謝ろうかと逡巡していると、そのつま先がこちらに向かって動いた。
遠ざかるかと思っていた足が近づいてきたため、どうしたのかと想い穂村は顔を上げた。その目に飛び込んで来たのは、綾人が両手を広げて、穂村を抱きしめようとするところだった。
「わっ……な、何?」
綾人は穂村に抱きつくと、その体にギュッとしがみついた。今度は穂村が息を詰められる番だった。肺が潰れそうなほど強く抱きしめられ、思わず綾人の肩を何度も叩いてしまった。
「ちょっ、まっ……、く、くるしっ」
綾人はそれに構わず、さらに力を入れてぎゅうぎゅうに締め上げた。小さな抵抗を続ける穂村を、綾人は睨み上げた。
「……いやだろ? 一方的にやられんの」
穂村は言葉が出せないため、頭が取れそうなほど首を縦に振って答えた。綾人はニヤリと笑うと、その腕の力を緩める。そして、咳き込みながら肩を上下させる穂村の背中をさすりながら、そっと優しく嗜めた。
「じゃあ苦しいって言ってんのに止めないの、もう二度と無しな」
穂村はまだ首を縦に振り続けている。その姿を見て、綾人は思わずふっと吹き出してしまった。そして、視線を僅かに泳がせると、きゅっと口を結んで何かを言い淀んでいた。
「……でも、キスされたのは嫌じゃないから」
綾人は頬を赤ながらポツリと呟いた。そして、「俺だってお前のこと、好きだし」と続けた。
「えっ?」
穂村は咽せすぎてえずきながら、綾人の言葉に耳を疑った。告白してからもずっとかわされ続けていて、もう答えを聞くことは出来ないのかと思っていた。
涙と涎と鼻水に塗れた情けない顔で穂村が綾人の方を見ると、口元に手を当てて、恥ずかしそうに「やっとはっきりわかった」と呟いていた。
「俺とキスするの、嫌じゃないの……? 好きって……本当に?」
綾人は、穂村の額に自分の額をぶつけながら、さっきよりもさらに小さな声で「そう。好き」と呟いた。
「ほ、本当に?」
綾人は何度か頷いてそれを肯定すると、「しつこいな!」と言いながら、また穂村を締め上げた。
「本当はさ、もっと早く気がついてたんだよ。でも、お前が好きなのか、お前の体を使ってる貴人様が好きなのか、全く区別がつかなくて。しかも俺が望んでそうしてるわけじゃないのに、なんか二股とか浮気とかみたいに感じてて。罪悪感があってさ……」
「え、でも、その状況と今も変わらないでしょ? なんでそれで俺が好きってわかったの?」
「それは……」
綾人は穂村の右目のアザに手で触れた。その目の奥は、黝のままだった。最近、表に出ていなくても、貴人様が穂村の体の中にいる場合は、右目の奥がうっすらと赤く色づいていることに気がついていた。今はそれが無い。
「貴人様がお前の体の中にいる場合に口付けをすると、俺の中にいる別の人が喜んでるような感覚がするんだよ。多分、それが俺の前世の記憶なんじゃ無いかと思ってる。でも、今はお前の体の中には貴人様はいない。そうだろ?」
穂村は頷いた。貴人様は、あれ以来体の中にも入ってこなくなった。
「俺とお前だけの状態でキスをしても、俺はただ嬉しいだけだった。つまり、これで俺はお前が好きなんだってことがわかったんだよ」
「綾人……」
穂村は涙を流した。胸が詰まって何も言えなくなってしまい、ただ泣く事しか出来なかった。
——喜べると思ってた。
好きな人が自分を好きでいてくれるという事実に、穂村はきっと浮かれてしまうんだろうと思っていた。それでも、現実はそれをさせてくれなかった。
——もう、喜べない。
綾人を失うことが決まっている、そんな状態では手放しで喜べなかった。
——どうして、今なんだ。もっと早くに……。
「穂村?」
もっと早く知って、純粋に喜びたかったという思いがのしかかる。思いは通じた、でも別れなくてはならない。そんな未来しか無い。それが辛くて、何も言えなくなってしまった。
「……タカト」
嗚咽を漏らす穂村の耳に、綾人の優しい声が響いた。
「泣くなよ、タカト。もしかして、お前も知らされたのか?」
穂村の頬に、耳に、首にキスをしながら、優しく抱きしめてくれた。穂村はその温もりの触れる場所に小さく喜びながら、綾人が言った言葉の意味を反芻した。
「……え?」
綾人は、穂村の唇にゆっくり唇を合わせると、目を伏せて呟いた。
「言われなくてもわかってる。だから気持ちがはっきりしても友達でいようと思ってた。すぐ別れが来るだろう? それなのに、あんなキスするから……」
綾人を輝かせていた太陽は、いつの間にか雲に遮られていた。光が消え、影を纏って寂しそうに笑っているその姿は、ふっと吹かれれば消えそうなほどに儚い。
そして、その奥に凪いだ心が見えた。綾人はそれを受け入れているようだった。
「覚悟、してるんだね」
穂村が訊くと、優しい風が巻き起こった。二人の髪が、まるで踊るように揺れた。
「うん。罪は消せる。でも、宿命は変えられないって言われたからな。だから……」
「……わかった。それなら、俺も受け入れられるように頑張る。だから、一緒にいさせてくれる?」
穂村は、綾人を体全体で閉じ込めるように包み込んだ。綾人はそれに応えるように、下から抱きしめ返した。期限がついたことで、生きていくとこへの意味が深まった。それはこれまでと変わらない。
「一緒にいてくれないと、多分頑張れない。だから、むしろ俺からお願いしたいくらい。……最後まで、一緒にいてください」
「うん、わかった」と穂村が小さく答えた。
春風が舞い上がり、土埃の舞い上がる中で、二人はそのまましばらく抱きしめあっていた。
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