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第16話 待ち合わせの前に

◇◆◇  綾人の家は、大学の正門から歩いて二十分ほどのところにある。大学進学と同時に一人暮らしをしようかと考えたこともあったけれど、両親の仕事のサポートをするために家に残ることにした。  実家通いとはいえ、割と自由な生活を好むこの家での生活は、これと言って不満が無い。両親が細かいことを気にしない人たちで、遅くなるなら連絡さえすればいいし、急に泊まることになっても何も咎められ無いからだ。 ——それもこれも、空手のおかげだけど。  綾人は見た目の影響で、よく女の子扱いをされては色んなところで絡まれた。自分から危ないことはしないようにしているけど、夜道で絡まれたりした時は、二発くらい先手を打ってそのまま逃げるようにしている。  それは、下手に応戦しようとすると、確実に体格差で負けるのが目に見えているために、自然と身につけていった知恵だった。ルールのある世界では勝てたとしても、道端で喧嘩を売ってくる人間に「階級が違うから戦えないぞ」なんて言っても通じるわけがない。  いきなり喧嘩を売るなんて非常識な行動をする人間に、常識を求めるなんてそもそも間違っている。そういう用心深い性格だったからか、両親からの信用が厚い。昔から放任主義で、かなり自由にさせてもらっていた。 「ただいま」  綾人は玄関ドアを開けながら、大きめの声で呼ばわった。そうすると、奥で仕事をしている母にも聞こえるからだ。 「おかえりー!」  奥の部屋で作業をしている母から、綾人に負けないくらいの大きな声が返ってくる。綾人はそれを確認すると、そのまま階段を上がって自室へと向かった。  ガチャリとドアを開けるとバッグを投げ出し、陽の差し込むベッドに身を投げ出して倒れ込んだ。 「あー、めっちゃくちゃ気持ちいいー! やっべえー。めっちゃくちゃねむーい……」  ゴロンと寝転がったと同時に、ウトウトと眠気に襲われた。春先はいくらでも眠れる気がする。自室の布団は日に照らされて、フワフワになっていた。  母が干していてくれていたのか、ふわりといい香りがする。綾人は、日に当たったファブリックは、太陽の光から人を幸せにする成分も吸収するんだと信じている。その恩恵に預かるため、思いっきり布団の匂いを吸い込んだ。 「ふあー、幸せ。この匂いに包まれて爆睡したい……」  でも、今眠ってしまうと絶対に待ち合わせに間に合わない。そうなると、今度は水町に怒鳴られるに決まっている。綾人はふかふかの布団の誘惑を必死で断ち切ると、体を起こして胡座をかいた。 「瀬川についてる生き霊かー。そこまで恨むようなことをされた子がいたのかな……。あ、そういえば今日はまだ瀬川の様子を見に行ってないんだった」  一人で眠り続けている瀬川のことが心配で、出来るだけ毎日様子を見に行くようにしていた。ただ、綾人の家から駅と瀬川の家は逆方向にあたる。そうなると今日の待ち合わせを考えると、出かけるのが億劫に感じてしまった。 「そういえば、タカトのうちが瀬川のうちと同じ方向だったな」  瀬川の家は、タカトの家から駅に向かう途中にある。待ち合わせに向かうついでに寄ってきてもらおうと思いたち、スマホを持ち出してタカトにメッセージを送った。 『待ち合わせの前に瀬川の様子を見てきてくれないか?』  すると、間髪を入れずにタカトから着信があった。テキストを打つより話したほうが楽だったのかなと思いつつ、慌てて通話をタップする。 「もしもし……」 『綾人か』  慌てて応答した電話の向こうで話し始めたのは、タカトではなく貴人様だった。綾人は二人の違いにも慣れ、今は声と話し方だけでもわかるようになっていた。  その自信溢れる雅な声の持ち主が、ふわりと微笑んでいる姿が目に浮かぶ。名前を呼ぶ声が甘くて優しくて、聞いているだけで顔が赤くなってしまいそうだ。 「たっ、貴人様! どうかしたんですか?」  貴人様は綾人が慌てる様子にふふっと笑い声を零した。ほんの少し顔がくしゃっとなったのだろうというのが伝わる。とても嬉しそうな声をしていた。 『先に連絡してきたのはお前だぞ』  貴人様は楽しそうにくすくすと笑っていた。確かに先にメッセージを送ったのは綾人だ。でも、綾人が話をしようとしたのはタカトで、それを直接貴人様に言うのは憚られる。  どう切り出そうかと悩んでいると、ふと疑問が湧いた。貴人様がこの時間に出てくることはとても珍しい。もしかして、タカトに何かあったのだろうかと心配になった。 「あの、タカトはどうかしたんですか?」  気を遣ったつもりが、返って不躾な切り出し方になってしまった。気がついた時には既に遅く、貴人様はあからさまに機嫌を損ねたように声を落とした。 『ああ。今、少し用があってな。俺の都合で体を借りているんだ。少し待て』  珍しくトゲのある声音で短くそう答えると、すぐに押し黙ってしまった。綾人は慌てたけれど口の挟み方がわからず、スマホを握りしめたまま様子を窺っていた。  するとすぐに『綾人? 何かあった?』と今度はタカトが答えた。タカトもまた、急に入れ替わりが起きたことで、状況が把握できずに困っていた。 『も、もしもし? あー、綾人もしかして貴人様のご機嫌損ねた?』  タカトは自分の体内にある意識を探る。そして貴人様がやや落ち込んでいるような状態にあることを把握した。怒っているというよりは、拗ねている状態に近い。 「うん、そうみたい。でも、貴人様それについて何も言わないから、謝ることもできなかった……」  綾人が落ち込み気味にそういうと、タカトが『ああ、ごめん。多分それは俺のせいだから。ちょっと色々あって。気にしないで。俺がそのうち謝っておくから』と答えた。 「え? そう? そうなのか……わかった、ありがとう。頼むよ」 『で、綾人の要件は……瀬川の様子を見てきてってこと? 貴人様が今教えてくれた』  貴人様が表に出ていない状態だと、体内で二人の意識は疎通できるらしい。ただし、逆の状態、つまり貴人様が表に出ていると、タカトの意識は眠っている状態になる。  そのあたりは綾人には計り知れない力の強さというものがあるのだろう。それにしても、一人の体内で二人がやり取りをするなんて、綾人にとっては、ただただ不思議で仕方が無い。 「あ、うん、そう。駅で水町と待ち合わせしてるから、俺が瀬川んちに行くとちょっとバタバタするからさ……」  瀬川の話を始めた途端、通話がビデオ通話に切り替わった。その画面に映ったものを見て綾人は驚いてしまった。タカトの手がペンを握っていて、文字を書いている。ただ、その時はタカトの字では無かった。  筆と墨で書いたような流れる書体の文字が綴られていく。内容からしても、手だけが貴人様の意思で動いているのがわかった。 『誰の生き霊なのかはわかった。ただ、なぜその者が瀬川を攻撃したのかがわからない』 「えっ!? わかったんだ。じゃあ水町とは会わなくてもいいってこと?」 『まあでも、水町さんが何を話そうとしているのかはわからないし、取り敢えず待ち合わせには行こうよ。その前に、瀬川んちには俺が寄ってくるよ』 「サンキュー。あとで貴人様には謝るから、瀬川のこと頼むよ!」  そう言いながら綾人は両手を合わせてタカトを拝んだ。彼はそれを察知したらしく、『拝んでも見えないからね』と楽しそうに笑った。

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