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第17話 知らなかったこと

 水町は、待ち合わせの十八時よりも、ほんの少しだけ遅れて駅にやってきた。かなり慌てていたようで、髪も服もぐちゃぐちゃに乱れていた。綾人はそれを見て面食らってしまった。 「お前……ぐっちゃぐちゃだけど。大丈夫か?」    それは、何かの犯罪に巻き込まれたと思われてもおかしく無いほどの、それはそれは派手な乱れっぷりだった。綾人は「ほら」と手を出してバッグを預かると、「髪と服装ちゃんとしな」と促した。 「ありがとう……いや、それよりも、ごめん! 何も言い訳することは無い……気づいたら出発時間過ぎてた。本当に、ごめん!」  昼間に綾人に散々悪態をついたばかりなので、その直後に遅刻をしたことを水町はかなり気にしているらしい。ペコペコと頭を下げ、平謝りだった。 「これくらいでそんなに気にするなよ。俺もタカトも全然待った気はしてないから」  綾人は、すっぽかして一週間連絡をしていなかった自分に比べたら、数分の遅刻なんて全く問題無いだろうと思っていたので、大して気にしなかった。タカトもこれくらいでは動じないらしく、「気にしないで」と微笑んでいた。 「じゃあ、とりあえずメシ食いにいこうぜ」  そう言って歩き始めたはいいものの、食事に行くには全く初めてのメンツになってということで、どこへ行くかを決めかねていた。それに、タカトは自分で生計を立てているため、あまり金銭的に余裕がない。 「話す内容も内容だしな……瀬川くんの家に行く?」  水町がそう切り出し、それが無難かなということになって、来た道を引き返すことにした。買うよりは作ったほうがいいかなと水町が言い出し、二人はそれに同意した。 「綾人と穂村くんは、料理はできるの?」  水町は宙を仰ぎながら、「あまりお金をかけずに何かを作るとなると、何を作るのがいいのかねえ」と悩んでいる。実家暮らしの水町は、普段料理をする機会はそう無いらしい。 「あー、俺は少ししか出来ないぞ。普段は手伝うくらいしかしないから、立派なものは作れないな」  綾人は、母の仕事が押して炊事の時間が遅くなった時に、切ったり炒めたりを手伝うことはある。ただ、それ以上のことはしたことがないので、ほぼ戦力外だ。  それに対してタカトは、優しく目を細めてふっと息を吐いた。腕まくりをするふりをして、得意げな顔をして戯けている。 「俺は一人暮らしだし、それなりにやってるよ。うまくはないと思うけどね。たまに揚げ物とかまで頑張るよ」 「ふんふん。なるほどね」と言いながら、水町はニコニコと笑っている。そして、くるっと振り返ると満面の笑みを浮かべた。 「まあ、私はできないんだけどね」 「はあ? お前ができるから作ろうって言ったんじゃないのかよ。出来ないのに言うのって無責任じゃねー?」 「穂村くんが作れそうだなーと思って! 完全に無責任な予想だけどね」  そう言って笑った。なかなか無謀な推理だと二人は呆れてしまった。 「瀬川んちに調理器具がどれだけあるかによるよな……どうだったかなあ。覚えてないなあ」 「じゃあ、一度瀬川くんちに行ってから決めようよ」 「えー……めんどくさ……」 「めんどくさいって言わないで! あ、じゃあ私だけ一度瀬川くんちに行って、調理器具確認してメールするよ。二人で先に買い出しして来て」  水町はポンと手を叩いて、名案を思いついたかのように言った。すると、タカトはその案を気に入ったようで、とても乗り気になって嬉しそうに笑った。 「あ、それいいね。じゃあ水町さんは瀬川くんちでの確認お願いね。綾人、行こう」  そういうと、タカトはスッと綾人の手を握った。長く骨ばった指が綾人の手を握り、ほんの少しだけぐっと引き寄せられた。 「わっ!」  真っ赤になって照れる綾人を見て、水町は大口を開けて笑った。 「人前でキスするくせに、それくらいで照れてんじゃないぞー! じゃーまたあとでねー!」  水町は手を挙げて大きく振りながら、瀬川の家へと向かって行った。その姿を見送ったあと、二人は食材の買い出しをするため、スーパーへと向かった。 「瀬川んちと待ち合わせ場所、俺んちからは真反対なのに……これならわざわざお前に様子見に行ってもらわなくてよかったな。ごめんな」 「まあまあ、気にしないで。買い物もデートだと思って楽しもうよ。ゆっくり行こう」  タカトは頬を上気させて、足取りも心も弾ませているようだった。猫のしっぽのような髪も、それに併せてふわふわと揺れていた。普段のタカトは、どちらかと言うとおとなしいタイプで、あまり周囲と話そうとしない。それなのに、ここ数日で突然積極的に変貌した。  他の人への対応にはあまり変化は見られないのだけれど、綾人に対する愛情表現が急に濃くストレートになった。その多くは、浮かれて楽しそうにしている。  けれども、日によってはどこか悲壮感がある時もあって、綾人はその不安定さを密かに心配していた。  ただ、タカト自身が綾人に何も言わないということは、言いたくないのだろうからと思って追求しないようにしている。 ——細かいことは気にしない。今はただ、この時間を大切にしたい。  この手を繋いだ時の感覚は、綾人が大好きなものだ。こうやって肌で感じられる時間が限られているからこそ、今を大事にしていきたいと綾人は思っている。  貴人様とは、手を繋いだり出かけたりすることはない。もしあったとしても、喜ぶのは自分ではなくて、自分の中の「誰か」だろうう。  でも、こうやってタカトとのことで喜んでいるのは、間違いなく綾人自身だと断言できる。それを大切にしない理由はなかった。 「今日、すごいきもちいいなー。散歩日和だね」  翳り始めた駅前通りの、冷え始めた空気の中で、タカトが楽しげに呟いた。綾人も、楽しそうなタカトの横顔を見ていると、つられて嬉しくなる。微笑んで「そうだな」と返事をした。  周囲は、キラキラしたオレンジとブルーグレーの影に分かれている。正面に雲の切れ間から現れた西陽を受けて、タカトの顔のあざがはっきり見えた。 「うわ、眩しい! 強烈ー」  そう言って、手で影を作る姿を見ていると、不幸そうには全く見えない。だから、今なら大丈夫だろうかと思い、どうしても気になっていたことを訊く事にした。 「タカトさあ……」  タカトは「うん?」と上機嫌に返事をした。綾人の方を見てみると、その表情がやや翳っているのがわかった。タカトは、ふわりと微笑むと、繋いだ手にそっと唇をつけた。 「いいよ、なんでも訊いて」  タカトは、綾人の葛藤に気づいた上で、訊くことを許してくれた。綾人はタカトのその気持ちが嬉しくて、鼻の奥がつんとした。    以前は、あざを見ることすら拒絶された。それなのに、今は心の澱に触れることさえも許してくれている。  それは、自分が相手に大切に思われているのだと、はっきり示す指標のように感じられた。自分を存在丸ごと肯定されているようで、胸の奥がほわっとほぐれるのがわかった。  ただ、訊こうとしていることは、あまり楽しい話ではない。キュッと唇を引いて、表情を締めた。 「そ、その右目のあざって、親から殴られたからできたやつ?」  タカトは右目の周りに触れながら、「ああ、これのこと?」と呟いた。タカトのアザは、薄くなったり濃くなったりを繰り返している。  もし殴られてできているのなら、それは殴られて出来ては治り、また殴られ……と言う生活をしているということになる。もしそうであるなら、どうにかしてそれを抜け出す方法を探さなくてはならない。  そう思って思い切って聞いてみたのだけれど、タカトから返ってきた答えは意外なものだった。 「これね、実は殴られて出来たあざじゃないんだ」 「え? そうなんだ。ちょっと疑問だったんだよね。殴られて出来てるなら、今ごろ失明してそうだなって思ってたから」 「うん、そうだよね」とタカトは微笑んだ。そして、少し懐かしそうな、苦しそうな顔をした。 「まあ、俺が親から殴られていることは事実だよ。そして、そのきっかけになったのは、このあざがあるからなんだ」 「えっ?」  足を止めて、綾人はタカトをまっすぐに見た。あざが親に殴られて出来たものではないことが分かり安心したものの、それが原因で殴られているということを訊いて混乱していた。 「そのあざがあるから殴られてるってこと?」  綾人の問いに、タカトは「そう」と頷いて少し悲しそうな顔をした。 「これは、貴人様が俺の体を使ってるから現れる印なんだよ」 「え……? じゃあ、それって……」  タカトの右目のあざは、貴人様が体を使っている印……それはどういうことか。貴人様は、綾人の魂の面倒を見るために、今世タカトについていると言っていた。そして、その証拠となるあざがあるせいで、タカトは親から殴られている。 「それって、つまり……殴られてるのは、俺のせいってことじゃない? 俺が転生のチャンスを貰って、貴人様は俺の世話をしにきてくれてて、貴人様に体を貸してるタカトが殴られてるってこと? 何も悪いことをしてないのに?」  綾人は混乱した。やっと出来た恋人は、自分のせいで長年苦しめられていたことになる。そして、自分はそのことを知らず、のうのうと生きていて、挙句「人生はつまらない」などと思っていた。 ——待った、そんな……俺、ただの酷い人じゃない?  綾人は、自分のせいで誰かが傷つけられているなんて、考えたこともなかった。自分が存在するだけで、誰かに迷惑をかけてしまっているという事実が辛かった。 「タカト……俺のこと、恨んでないの? 俺のせいでずっと……俺、何も知らなくて……ごめん」  胸がキリキリと痛んだ。息ができないほどに悲しかった。後悔と申し訳なさが次々と湧いてきて、涙が溢れて止まらなくなった。 「綾人」  タカトはそんな綾人を心配して、優しく声をかけた。その腕で綾人を包むと、ほおを髪に押し付けた。そして、一瞬ぎゅっと強く抱きしめると少し顔を離し、目をまっすぐに見つめた。 「これね、罪人の罪を燃やす炎なんだって。俺の親、欲に塗れた汚い人間なんだよ。そんな人間が俺を殴るとどうなると思う?」  綾人はタカトが何を言おうとしているのか、全くわからなかった。殴られたらどうなるか……。 「殴られたタカトが痛いんじゃないの?」  訝しみながらも答えると、タカトはふるふると首を振った。 「実は、俺全く痛くないんだ。むしろ、相手の手が燃えて、強烈な痛みに晒されるらしい。毎回同じ目に遭うのに、何度も拳焼かれるようなことをしてさ。笑っちゃうよね。綾人、貴人様の炎、見たことあるでしょ?」  貴人様の炎……口付けの時の炎のことだろうか。綾人の中の罪を燃やすため、毎回肌を焼かれる。痛みは変わらない。毎回辛い。でも、最近はほんの少しだけ軽くなった気はしていた。 「少しずつ痛みは減るんじゃないの?」  タカトはそれを聞いて、またふるふると首を振った。そして、楽しそうに体を揺らした。 「それは綾人の罪が減っているからだよ。俺の親は罪が増えていってるから、どんどん痛くなっていく。ざまあみろだよね」  ふふッと笑うタカトを見て、綾人は少々面食らった。でもそれくらいの強かさがあって然るべきだろう。そうでなければ、貴人様がタカトを選んだ理由がわからない。 「だから、あざがあっても自分のせいだって気にして離れていくのやめてね。親に殴られても別に構わないけど、綾人のそばにいられなくなるのはいやだから」  夕闇の中で綾人をじっと見つめながら、タカトは言った。その瞳の中には、なぜか焦りの色が見え隠れしていた。綾人には、タカトと離れようという意思は全く無かったため、なぜそんなにタカトが不安がっているのかはわからなかった。  わからなかったけれど、言葉にすると少しでも安心して貰えるかなと思い、しっかり伝えることにした。 「大丈夫。俺、タカトといる時間好きだから。離れていったりしないよ」  そう言って、恥ずかしさを誤魔化すために、にいっと唇を目一杯広げて笑った。タカトはその顔を見てふっと笑みを漏らした。そして、「よかった」と呟くと、繋いでいた手に少し力を入れて、ギュッと握り直した。 「ほら、行こうぜ」  だんだんと暗くなってきた。綾人はタカトの手を引き、スーパーへの足を早めた。ちょうどその時、水町から着信があった。 「もしもーし」  声が浮かれていたのだろうか。電波の向こう側の声は『なに浮かれてんのよー』と囃し立てた。二人はそれがくすぐったくて、繋いだ手を大きく振りながら、あははと大きな声で笑い合った。

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