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第23話 憑依
◇◆◇
タクシーは夜の街へと繰り出していく若者たちの隙間を縫い、綾人と水町の住む地域へと走った。駅前から続くこの通り沿いには、週末の夜を楽しむためにやってくる人が多く、この時間であればまだ駅に向かう人の方が少ない。
タカトは、お互いの家を行き来するほどだというから、かなり近いのだろうと予想はしていたが、なんと両家の間は数メートルしか離れていなかった。
タクシーを水町の家の前に停めてもらい、タカトが玄関前まで送ることにした。綾人が狙われていたとして、一緒にいた自分たちが安全かどうかはわからない。家に入ってしまえば安全なのかと訊かれても、それはそれで答えはわからないけれど、外で別れて刺されてしまったら、きっと後悔してもしきれないだろう。
「念の為に今日はもう外出しないようにしてね。さくら様って縁結びの神様なんでしょ? 戦ったりとかは無理だよね?」
タカトの質問に、水町は首を傾げた。
「うーん、どうなんだろうね。でも、戦おうとしたことはないと思う。あ、危険と縁を切ってもらってる感じはするかな。まあ、絶対では無いとは思うけれど。とりあえず、家からは出ないようにするから、心配しないで」
そう言って、艶のある長い黒髪を揺らしながらニコッと笑った。また来週ねと言いながらドアを閉め、無事に帰宅するのを確認すると、タカトは綾人の家に急ぐため、再びタクシーに乗った。
「すみません、次はその角を右に曲がってすぐのところで停めてください」
はい、と運転手が答えるのを聞いて、タカトはシートにもたれかかった。そして、深い安堵のため息をついた。隣には目を閉じてぐったりしている綾人がいる。乗り込む時に酔っ払いだと思われて乗車拒否されそうになり、二人は焦った。
「大きな音で具合が悪くなっただけです、目を瞑っていれば大丈夫ですから」と説得して、やっと乗せてもらえた。急いで立ち去りたい思いと、それを見せると、トラブルに巻き込まれたくない運転手から、乗車拒否されるかも知れないという思いに挟まれ、無事に走り始めるまでは安心できなかった。
刺された腹部には黒い線が残ってはいるが、傷は何も無い。服も破れてない。まるで何事もなかったかのように元通りになっている。
「もう着くからな」
タカトが声をかけても、返事はなかった。体温は感じられるのに、顔色だけがひどく悪い。その姿は、まるで瀬川と同じだった。
——これは多分、偶然じゃないよな。
今日綾人を刺した人物は、瀬川の生き霊になっている人物と同じなのだろうとタカトは考えていた。ただ、タカトは綾人を刺した人間の顔を見ていない。
綾人には見えたのだろうか。それを確かめられなければ、もしかしたら、もうこれ以上先には進めないかもしれない。もし瀬川の生き霊と同じ人物なら、これは牽制の意味を込めた脅迫だろうし、違うのであれば、あの場で綾人が襲われた理由が、タカトには全くわからないからだ。
「バンド名スリーエスって言ってたよな。調べてみるか」
タカトはそう呟くと、綾人の家のインターホンを鳴らした。
「こんばんは」
「あら、タカトくん。あら? 綾人、どうしたの?」
出迎えてくれた綾人のお母さんに、軽く事情を説明した。そして、綾人の部屋へと向い、ベッドにそっと下ろして眠らせる。遊び疲れて眠っていると言われた息子の醜態を謝罪するために、綾人の母の敬子は部屋の中まで付いてきた。
「ごめんね、この子小さいけど筋肉質だから重かったでしょ? 全く、いい歳して遊び疲れて眠るってなんなのかしらね……」
タカトは敬子に向かって微笑むと、大きく被りを振った。
「気にしないでください。いつもたくさん気を遣ってもらってますから。これくらいじゃお返しにもなりません。元々今日は泊まらせてもらう約束だったんです。綾人寝てますけど、このまま泊まらせてもらってもいいですか? お礼に明日の朝食、また僕が作ります!」
「本当? タカトくんの作る朝食美味しいから、私は全然構わないわよ。あ、お父さんにも伝えておくわね」
敬子はそのまま笑顔で部屋を出て行った。タカトはその後ろ姿に頭を下げつつ、「ごめんなさい、おばさん」と呟いた。
綾人の家族は、貴人様に記憶操作を施されている。タカトは高校の時からの友人で、昔から遊びに来ては泊まる仲だったと刷り込まれていた。そのため、たいした説明もなく泊まらせてもらえるようになっている。
タカトは、眠っている綾人の髪を指でそっと掬い、顔を覗き込む。毎度襲ってくるこの罪悪感には、なかなか慣れなかった。もし記憶操作をされていなかったら、不審に思われるのだろうと思うと、居た堪れなくなってしまう。
「綾人。明日目が覚めたら、お前を刺した相手の顔、ちゃんと教えてくれよ。おばさんたち騙してまで泊まるんだからな」
そう呟くと、綾人の頬を手で擦り、唇を軽くつけてその温もりを確認した。
◇◆◇
「ヤト、今日は旦那さんは来ないの?」
「うん、今日はこっちには来ないよ。身請けの話をしに楼主と遣手と会ってるはず。イトの旦那さんももうすぐでしょ? 離れ離れになるのは、ちょっと寂しいよね」
体温よりも少しだけ冷たい風が通り抜けて行く。まるで誰かに肌を撫でられているような、柔らかくて優しい風だ。サワサワと木々が鳴る音に紛れて、起き抜けに体を洗いに行く娼夫たちの姿が見えていた。
畳に寝転がり、横目でそれを見ていると、三人の男たちが取っ組み合いを始めた。聞こえなくても、ここにいる人間にならきっと話はわかるだろう。
誰が誰の客をとっただの、お前は不細工だのという、醜い心が漏れ出るような喧嘩に違いない。ヤトの心は、ずんと重くなった。
毎日こんな生活していれば、誰だって心が廃れていく。あの人たちは少し前にここにやってきて、ようやく生活に慣れたというところだろう。しばらくはああやって、小競り合いをしながら生きていくことになる。
そしてそのうち、間夫ができたり、身請けされたりすれば天国、それがなければ地獄、病気でもして借金が増えれば修羅になるしかない。
先のことは誰にもわからない。わからないからこそ、良くなる事を夢見て生きていくしかない。ヤトもイトも、そうやって必死に笑って生きてきた。
——もう十年かあ。
ここへ来て十年になる。男性専門の娼館としては珍しく、禿からきちんと育て上げてくれる楼に恵まれた。学べば学ぶだけ、品のある客を回してもらえ、大切に扱ってくれる客にしか当たらなくなった。
そして、二人とも揃って身請けの話を勝ち取った。話がある程度まとまった時、ヤトとイトは二人で手を取り合って泣いた。お互いの手にお互いの爪が食い込むほどに、強く握り合って泣いた。
住む場所がとても遠くなって離れ離れになってしまうけれど、手紙を送り合おうねと約束した。
「ヤト、絶対幸せになってね。俺も幸せになるからね」
そう言って、とびきりの美しい笑顔を向けたその美人は、赤い髪を靡かせながら美しい涙を零す。キラリと光る水玉が、その美しい顔を一層綺麗に輝かせていた。
その、目を見張るほどの美人は……ついさっき俺を刺した男と同じ顔をしていた。
◇◆◇
「綾人? あーやと! 気がついた?」
綾人の頬に温かい手が触れている。いつの間にか眠っていたようだ。まどろんでいると、そこは畳の上ではなく、見慣れたベッドの上であることに気がついた。
——あれ? さっきの夢か……?
夢の中では風に撫でられていた頬が、優しい手の温もりに包まれていた。風は少しだけ冷たくて気持ちよかったけれど、手は少しだけ温かくて、心が解ける感じがする。綾人はその手に頬を擦り付けて、その感触を味わった。
「お? 目が覚めそう? 綾人ー!」
何度もスリスリと頬を擦っては嬉しそうに笑う綾人の顔を見て、タカトは愛おしさが溢れてくるのを抑えようとしていた。
綾人は刺されたばかり。いくら傷が消えたとはいえ、ダメージは残っているはず。間違っても飛びかかってはいけない。もう少し寝かせてあげなくては……。
そう思うのだが、綾人がいつまで経ってもスリスリをやめないので、痺れを切らして空いている頬に吸い付いた。すると綾人はガバッと跳ね起きて叫んだ。
「んなああああああ!」
その勢いで、タカトはベッド下まで突き飛ばされてしまった。力の強い綾人が跳ね飛ばすと、タカトはどうしても太刀打ち出来ない。
「お、おはよう綾人……ちょっと助けてもらってもいい? 変な格好で下に落ちちゃった」
綾人がパニック状態のままベッドの下を覗き込むと、足だけがベッドに残って上半身は仰向け状態で下に落ちていた。まるでひっくり返った昆虫だ。頭を打っているかもしれないのに、心配するよりも先に笑ってしまった。
「いやごめん、助けてよ。これ結構しんどいんだけど」
ごめんごめんと言いながら、綾人は穂村の手をとった。そして引っ張り上げようと力を入れると、途端に右の脇腹に鋭い痛みが走った。予想していなかったその痛みに怯んでしまった綾人は、うっかり手の力を緩めてしまい、タカトの体重に引っ張られて一緒に下に落ちてしまった。
「いてっ!」
タカトの上に落ちた拍子に、刺された場所と同じ位置が痛み始めた。
「綾人? 大丈夫?」
治癒したとはいえ、かなり深い傷だったので、痛みは残るだろうとは思っていた。綾人は身を丸めて震えている。タカトの目には、貴人様の予想よりもそのダメージは酷いように思えた。
授けられたとはいえ、使ったのは昨日が初めてだ。治癒の能力が、不足していたのだろうか。だとしたら、申し訳ないと思い、タカトは綾人の顔を見ようと近づいた。
「綾人、傷痛い? ちょっと見せてくれる?」
脂汗を流しながら呻いている綾人の服をまくり、右側腹部を見る。うっすらと透明な線のようなものが見えた。どうやらこれが傷の痕のようだ。昨日よりさらに薄くなっていて、順調に回復している。
それなのにこんなに痛がるなら、別に理由があるのかも知れない。もしかして別の病気なのだろうか等と考えた。そして、別室にいるお母さんに伝えようと部屋を出ようとすると、不意に足を掴まれた。
「綾人? 傷が原因じゃなくて別に病気とかかもしれないから……」
そう言いながら綾人の顔を見て、タカトは絶句した。
「誰だ、お前……」
そこにいたのは、綾人の顔をした別人だった。普段の綾人は、可愛らしい顔をしている。キリッと引き締まっている時は清廉な雰囲気さえ醸し出している。
その綾人の顔が、禍々しい闇を塗りつけたような歪み方をしていた。何かに対して捻くれた感情が凝り固まり、ドス黒くなってしまったものが分厚く塗り固められたていた。
一つはっきり言えることがあるとすれば、目の前の男は綾人の体を借りた誰かである可能性が高いということだった。いつもの貴人様が入っている時の自分のように、全く違う人格がそこにいるだろいうということだけははっきりしていた。
「貴人様、お久しぶりですね。」
ニタリと笑って、その男は言った。タカトは驚いた。自分を見て貴人様と呼ぶ人が、綾人と水町以外にいるとは思っていなかった。お久しぶりですねということは、知り合いだったのだろうか。
その割には、呼んだ声音に含まれる感情は全く光を纏っていない。好意とは似ても似つかない感情のこもった声だった。
——まずい、今は自分しかいない。何かされたら、アウトだ。
タカトは焦っていた。普段は武力では綾人が、法力なら貴人様が戦力になる。自分には何の力も無い。何かあると綾人を守ることが難しい。そして、それは昨日図らずも証明されてしまっている。
——どうしよう……。
「いや、お前は今は貴人様ではないのかな? タカトだったかな、お前の名前。貴人様が体を借りている人間だろう? つまり、お前が死ねば、貴人様は今世ヤトの近くにはいられなくなるよな。守ってもらわないと、簡単に死ぬはずだ。事故で殺せばいい。ああ、それか……」
その男は綾人の机の方へ向き直った。そして、鋏を取り出すと、こめかみに刃先を向けて握った。そのまま動きをとめ、心底肝が冷えるような邪悪な顔をして、にいっと笑った。
「自殺って手もあるな。目の前で思い人が自分の頭をブッ刺して死んだらどうだろうな」
気色の悪い声を捻り出すようにして、肩を揺すっていた。察するに、笑っているんだろう。ただし、それはあまりに醜く歪んだ感情表現だったため、タカトにはそれがどうしても笑っているようには見えなかった。
——どうする、どうする……。
身動きが取れずに固まっていると、男は鋏を大きく振り上げた。それがこめかみに刺さってしまったら、もう取り返しがつかない。焦ったタカトは、貴人様と対話するために持ち歩いている鏡を取り出し、それに向かって叫んだ。
「た……貴人様! 綾人が危ないです! 助けてください!」
男の手は、綾人のこめかみに向かって、今にも一直線に飛んで来ようとしている。
——ダメだ、あんな勢いで鋏を刺したら即死する。
タカトは、たまらずぎゅっと目を瞑った。そして、ただひたすらに貴人様の名前を叫んだ。
「貴人様っ! 今死なせたら約束が違いますよ!」
タカトが叫ぶと、鏡が一瞬閃光を放った。驚いて身を起こすと、鏡面から自分によく似ているのに自信に満ちた顔の男が、スッと飛び出してきた。そして、鏡面を踏んで綾人の方へと飛びかかって行った。
「相変わらず愚かだな、お前は。なあ、イトよ」
貴人様の顔は、これまでに見たことが無いほど怒りに満ちていた。憤怒の顔のまま、綾人に取り憑いている男へと手を伸ばす。ただ、タカトの体は使われていない。タカトの目の前に貴人様がいる。こんなことは初めてだった。
「……ッは、離せっ!」
聞いたことのない声が叫ぶ声が聞こえた。タカトは貴人様がしていることを見ようと、横に回り込んだ。そして、とても奇妙な光景を目にした。
「えっ!? 何、これ……」
タカトの目の前には、半透明の人間が、ふわふわと浮かんでいた。右は貴人様、左にはものすごくきつい目をしているが、それ以外は美しい顔立ちの男だった。
貴人様はちょうどプロレスのアイアンクローのように、その男の頭を掴んでいた。その半透明な体を、綾人の体からズルズルと引き出していく。分離が進むほどに綾人の体は支えを失い、ゆらゆらと揺れ動いていた。
「ぎゃー!」
貴人様が二つを完全に分離してしまうと、半透明な男は叫び声をあげた。それと同時に、綾人の体が後ろに頽れようとしていた。
「っあや……と…おおおおおお!」
タカトは綾人が床に頭を打ちつける直前に、滑り込んでどうにか抱き抱えた。もう少しでフローリングに後頭部から落ちるところだった。大怪我をさせずに済んで、思わず大声を上げる。
「っしゃ、セーフ!」
ぐったりとしている体を支えたまま、安堵の表情を浮かべた。それを見ていた貴人様が、やや呆れたようにタカトへと声をかけた。
「もうちょっとスマートに助けられないのか」
雅な声でダメ出しをする貴人様に、わずかでも反発の意思を示したくなったタカトは、唇を尖らせながら反論した。
「普通の人間の割には頑張りましたよ! それより、神様はスマートとか使うんですね。カタカナ使うんだ」
貴人様はそれを聞いてククッと楽しそうに笑うと、「俺が英語もフランス語も話せるのは知っているだろう?」と言った。タカトは多少イラつきながらも「あ、そうでしたね」と苦笑いをして答えた。
「あの、ちなみにその怖い人は誰ですか? 昨日ライブハウスで見たスターに似てるんですけれど、その人は綾人を狙ってるんですか? 瀬川に憑いてる生き霊とは違うんですかね」
貴人様はこめかみをつかんだ男の顔を見ながら、呆れたように大きなため息をついた。
「お前、またやったのか……おそらく瀬川に憑いている生き霊はコイツではないだろう。それはコイツに利用された人間のはずだ。コイツは、綾人に恨みがあるんだ。そして、俺にもな。逆恨みだ」
貴人様はそういうと、ブツブツと呪いを始めた。そして、イトと呼ばれた男は、激しく悪態をついてはいたけれど貴人様の力には叶わないらしく、スウっとゆっくり静かに消えていった。
「イト、というのは綾人の知り合いなんですか?」
貴人様は両手を叩いて、終了の合図をしながら、タカトへ向かって顎を引いた。
「ああ。あいつは、綾人の最初の人生で共に生きていた仲間なんだ。今度、直接綾人から聞け。どうやら綾人は、昨日の夜の夢でその時のことを思い出したらしい。そのことについては、俺の口から語るのは色々と憚られるんだ」
そう言って、貴人様は綾人の右目のほくろを指でつうっとなぞった。実態がないので、触れてはいない。その様子を見て、貴人様は寂しそうに笑った。そして、「お前、少し大変な目に遭うかも知れぬな」と呟いた。
タカトは、自分だけが事情を知らないことに、ほんの少し寂しさを感じていた。それでも、二人が試練に立ち向かうのであれば、自分も助けたいと改めて思うようになっていた。
「貴人様、俺はなんの力も持ってません。でも、今世の綾人を癒してあげられるのは俺だけですよね? だったら、俺はなんとしてでも綾人のそばにいます。最後の日まで、そうします。それでいいですよね?」
貴人様は、タカトのその言葉を聞いて感銘を受けたようだった。無力を自覚しているのに、その場に留まることを選ぶことが出来るのは、精神的に強くないと出来ないことだ。
その道を選ぶタカトの想いの強さに、胸を打たれた。
「もちろんだ。その思いが綾人を支える。頼んだぞ、タカト」
タカトはそれを聞いて安心したように微笑んだ。そして、その日の緊張感から一気に解放されたからか、そのまま深い眠りへと落ちていった。
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