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彼が居ないその世界で

 この世界には神が存在する。紅一色に彩られた彼が住んでいた世界とは遠く離れていながらも何かの拍子に簡単にぶつかってしまいそうなそんな場所に存在するこの世界において、神という存在は少なくとも紅一色に彩られた彼が住んでいた世界よりは人々に信じられていた。そして人々の信じた通り、この世界には天界というものが存在している。  人間には決してたどり着けないであろう天界を藍色の彼は走っていた。長い髪が汗で頬に張り付くのを構いもせず、髪が乱れるのを構いもせず、ただ今この瞬間も紅一色であろう彼をただ想いながら。  この世界とは正反対の技術が発達した彼の世界が藍色の彼は好きだった。  この世界で発達したのは魔術だ。人間以外の生きている生物は幻獣や精霊、神。そして魔物。この世界の人間は魔物を生み出してしまうほどの負の感情を持っている。しかしある意味それは幸せなことなのかもしれない。この世界の人間にとって魔物は団結して倒すべき敵として認識されている。勿論人間である以上欲に駆られ悪事に手を染める者もいるわけだが、一般人同士であまり争うことはない。決して平和とは言えない世界だが、人間同士のつながりはそれなりに強いだろう。  そんな世界に居ながらも、ひょんなことから別の世界の存在を知った藍色の彼は度々時空を超え、科学技術が発展した別の世界に遊びに行くのが好きだった。あの世界には共通の大きな敵がいないため、人々は小さなグループを作って争いながら生きている。しかしそれは同時にあの世界にとってはいい結果を残していた。この世界にはない技術が数多く発達し、訪れるたびに顔色を変える。ついこの間まで更地だった場所に突然巨大な鉄の塊が聳え立っていたり、数十年で天にも届きそうな程の高さの建造物を作ってしまえるような技術がいとも簡単に発達する。消えることのない魔物の対処で手一杯で殆ど変わることのないこの世界よりも眺めていて面白かった。  そんな別の世界で一瞬だけ出会った彼は、その一瞬のうちに藍色の彼の中で特別な存在になった。紅色に人が染まる様子は幾度となく見てきたが、ライトを煌々と輝かせた巨大なトラックによって吹き飛ばされ、コンクリートに叩けつけられた彼は藍色の彼を見て満足そうに笑っていたのだ。自分が神であることを忘れ、藍色の彼は神々しいものを見るかのようにしばし灯を失った彼に魅せられていた。決して死ねない身体を持つ彼にとって死は不謹慎にも美しいものとして瞳に映る。いつか来る確実な終わり…それまでに人間は全力で生きるのだ。そして死は同時に生の証明にもなり得る。  藍色の彼の中で確固たる想いがふと沸きあがった。  彼を死なせてはいけない。  痛みを顧みず、そしてその後もただ目的を達成したことに満足する――そんな人間の命をここで失うのは惜しいと思った。死してなおこんなに美しい人間の生き様をもっと見ていたいと思った。魅せられていたいと思った。そして何より、至極簡単な理由が彼を駆り立てている。お礼がしたい。それだけだった。  だから藍色の彼は、走っていた。  荒い呼吸を整えようとしないまま藍色の彼はやがて目の前に現れた巨大な扉を開ける。ざわついていた扉の向こうはぴたりと静寂を迎えた。やがてその静寂を破ったのは部屋の一番奥で仰々しく座る神だった。 「レイジ、何をしていた?もう会議は始まっている」  誰とも判断することのできないその声の主の顔を見たことがある者はいない。そもそも神という存在は不確かなものだ。この"会議"に出席している中で自分以外の神を認識している神は居ないだろう。 「…頼みがある」  その声は重々しく響いた。 「生き返らせてほしい人間がいる」 「ほう。ついにお前、人間に肩入れし始めたか。前から怪しいとは思っていたが」  小馬鹿にしたように鼻で笑い、一番奥の神は音を立てて座り直す。 「しかし、お前とて忘れたわけではあるまい。神の一存で人間を生き返らせることは遥か昔から禁じられている」  周囲に座る神々はひそひそと藍色の彼――レイジを横目にお喋りに夢中だ。どうせまた自分の悪口だろうと彼は認識をやめた。 「見ていたんだろ、何があったか」 「何を根拠に?まあ…そうだな。あの人間、最期は笑っていたのだから、良いではないか」 「…覗き趣味かよ。感心しねえな」 「ふん、お前が言うのか」  これはいつもの光景だった。才能を持ちながらあまり真面目ではないレイジは周囲の神々から疎まれ、最上級神と衝突する。神は人間よりも人間らしかった。 「元居た世界じゃなくてもいい。なんならこの世界でもいい。まだあの人間には生きていてもらいたいんだ……何を捧げたって良い。なんだってする。だから…頼む」  レイジが頭を下げる。ざわめきがより一層大きくなった。しばしざわめきの中で考えていたらしい最上級神は咳払いを一つして、立ち上がった。 「確かに、神のせいで人間が一人死んだというのも聞こえが悪い」  遠くで足音とざわめきが聞こえる。徐々に近づいてきた足音は目の前で止まった。 「ではこうしよう。汝、神レイジは己の不注意により人間を殺した。その罪を背負いお前は天界を追放、世の理を壊さぬよう、死んだ人間は別の世界にて再び生を受ける」  次の瞬間、鈍器で殴られたかのような衝撃を受けて、レイジは膝から崩れ落ちる。視界の端でくすくすと薄気味悪く笑う神々の顔が一瞬見えたような気がしたが、すぐに忘れてしまった。 「罪を悔いよ。汝はこれより、神を名乗ることを許されぬ」  彼の意識はそのまま闇へと葬られた。動かなくなった彼をみて、最上級神は何とも取れぬ声色のまま喉の奥で笑うのだった。 「良かったではないか、レイジ。憧れていたのだろう―――人間に」

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