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彼が居ないその世界で2

 長い夢を見ていたような気がする。  目を覚ましたその時、目の前に飛び込んできた光景を彼はぼんやりとした頭で見つめていた。自分が何故ここにいるのか、今まで何をしていたのか。曖昧にぐらつく頭の中で彼はひたすら自分の過去を思い出そうとした。  そんな時、豪華なシャンデリアによって飾られた天井しか映っていなかった視界が突然見たこともないような生物の顔面でいっぱいになった。驚きと同時に視界が晴れ、記憶がはっきりしてくる。 「(そうだ…俺、確か轢かれそうな人を庇って…それで?)」  身体が燃えるように熱くなり、遠くで悲鳴と救急車の音を聞いた記憶はある。しかしそれ以降を彼は思い出せなかった。それと同時に彼の中である違和感が発生する。自分が生まれた日、幼稚園での出来事、小学校、中学校、高校…それらのことはハッキリと覚えているのに、自分の名前が思い出せなかった。  そして――目の前にいる生物についての知識も、一切記憶になかった。 「むきゅっ」  目の前の生物は鳴き声のようなものをそう漏らし、首を傾げる。四足歩行でロップイヤーを携え、長い尾を持ち…浮いていた。背中の羽をしなやかに羽ばたかせながら彼の頭上を飛び回る。やがてその生物は目を細めながら柔らかい頬を彼の頬に擦り付けるのだった。とにかく敵意はないらしいことに彼は安堵の息を零す。 「もう、リリィ。何騒いでいるの?」  重そうな真っ白いドアが軋みながら開くと同時に飛び込んできたその声はどう考えても聞いたこともない言語で構成されていた。にも関わらず、声は彼の頭の中にあっさりと滑り込んできて、脳に理解を強要する。妙にすっきりとした脳に対し、気持ちは混乱していた。 「ここには入っちゃダメっていつも……」  ドアを開けて部屋に入って来た人物と目が合う。黄緑色の長髪を携えた少女がそこには立っていた。少女は数秒の沈黙の後、悲鳴のような声を上げて彼に駆け寄る。 「に、兄さん…!兄さん!目が覚めたの?!」 「え…あ…」  もちろんこの少女の事も彼の記憶の中には一切ない。そして自分に妹がいたのだという記憶も。どう答えるべきか迷っている間に部屋の中に男女が飛び込んできた。初老のようなこの男女も少女と同じようにこちらに駆け寄り、そして声を潤ませる。 「ああ…ああ…!神よ、ありがとうございます…!」 「貴方が起きるのを待っていたのよ…!私は貴方の母さんよ、わかる?」  わかるはずがなかった。だって、記憶の中の母も父もこんな顔はしていなかった。おいおいと涙を流す両親だと名乗る二人から目を逸らし、ふと部屋を見渡した彼は思わず息を飲んだ。巨大な鏡に映る自分は、記憶の中の自分とは似ても似つかない見た目をしていた。綺麗なほどの緑色の髪に、緑色の瞳。映っているのが自分だとは俄かには信じがたかった。自分は日本人の父と母とを持つ人間のはずだった。 「あの…ここは、どこですか」  震える声を絞り出す。まるで何年も眠っていたかのように喉が痛んだ。 「まあ!言葉を…やはり貴方は才能を持っているのね…!ここはディーゼルツェ家の屋敷よ。貴方はこの家の長男なの」  女性はそう言い、にっこりと微笑んだ。その笑顔はまさしく母であったのだろうが、彼にとっての母にはなり得なかった。記憶の中で黒髪の"母"が優しく微笑む。 「…俺の名前は何と言うのですか」 「貴方の名前ね。貴方が産まれる前からずっと考えていたのよ、ね、あなた」 「ああ。お前の名前は――」  男性と女性とが目を見合わせ、にこりと笑う。 「リュートだ」  そう言われると同時に、彼の中にぽっかりと開いていた穴が埋まった気がした。慣れ親しんだもののようにその名前はしっくりと染みわたる。だがやはり、前の名前は思い出せなかった。 「さあリュート、お腹が空いたでしょう?ダイニングにいらっしゃい。すぐに食事を用意させるわ。クユキ、案内をお願いね」 「はい、母さん」  ぱたぱたと男女は広い部屋を小走りに出て行った。部屋にはよくわからない生き物と少女とが残る。足音が遠くなった頃合いを見計らい、少女はため息を零した。 「ごめんね、兄さん。なんか変な感じでしょう?いきなり親とか妹とか言われても混乱するよね。…私はクユキ。一応、貴方の妹」 「俺はなんで眠っていたんですか」 「…そう、だね。えっと、僕は兄さんの後に産まれたから詳しくは知らないんだけど…兄さん、眠ったまま産まれてきたんだって。心臓は動いてるし、息もしている、健康状態も眠っていること以外は全然問題ないから起きるまで待とうってことになったらしくて」  どこか寂しそうに少女、クユキはそう説明した。説明されたところで現実味など帯びるはずもなく、他人事のように彼もといリュートはクユキの話を聞いていた。 「ねえ、兄さん。いきなりでびっくりして、混乱しているかもしれないけれど、お願いがあるの。ほら、僕たち、血のつながった兄妹なんだよ?敬語は、その…やめてほしい、なあ…なんて」  そう言う彼女の緑色の瞳は揺れていた。 「俺はまだ君の事を妹だと実感することはできません」  これは彼の本心だった。当たり前だろう。彼の認識としてつい少し前まではこことは全く別の場所で全く別の人間として生活していたのだから。鏡に映る自分すら認識できていないのに、目の前の少女を自分の妹だとすぐに受け入れることは不可能に近い。  恐らく彼が眠っている間ずっと兄だと慕い続けてきてくれたのであろうクユキには残酷な話だが、事実は変わらない。 「そっそう、だよね。ごめんね、兄さん」  少女の長いまつ毛の奥からは今にも涙が零れ落ちてしまいそうだった。 「でも君のお願いは叶えてあげられる」 「え?」  顔を上げた反動であふれ出たらしい涙が彼女の白い肌を伝う。それをそっと人差し指で拭って、リュートは微笑んだ。 「敬語嫌なんでしょ?クユキ」 「ふふ。兄さんって、思っていたよりもずっと兄さんなんだね」 「…どういう意味?」 「こっちの話」  頬を拭うリュートの手をそっと握り、クユキは潤んだ瞳でふにゃりと笑う。それから握ったままの手をそっと引いた。ふらつきながら立ち上がった自分の兄を支えながらゆっくりと歩き出す。 「ねえ、兄さん」 「何?クユキ」  名前を呼ばれるたびにクユキはくすぐったそうに笑みを零した。部屋を出て、いくつものドアが並ぶ長い廊下をゆっくりと歩きながら兄妹はまるでずっとそうであったかのように仲睦まじく歩く。未だに先ほどの男女が両親であることも隣を歩くこの少女が妹であることも喉につかえることなく飲み込むことはできなさそうだが、少なくともこの少女には他人以上の何かを感じているのもまた事実だった。自分があの男女の息子であることもこの少女と血がつながっているということも嘘ではないのだろう。 「ずっと待ってたんだよ……ずっと…」  足を止め、ずっと眠っていたというのにあっという間に歩けるようになってしまった彼を優しい表情で見つめる。 「おはよう、兄さん」 「…ああ、おはよう、クユキ」  そうしてまた少女は照れたように笑うのだった。

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