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誰も居ないその世界で
目を覚ました後に待っていた生活は記憶の中にあった日々とは全く違うものだった。食事を作ってくれるのは母親ではなく使用人、掃除も洗濯も何人もいる使用人がやってくれる。
そしてもう一つ、記憶の中にある自分とは明らかに違う自分がそこにはいた。産まれてから17年という歳月の間ずっと眠っていた人間は普通に考えれば赤子同然だろう。喋れるどころか起き上がることすらままならないはずだ。きっとこの世界の両親が雇ってくれたのであろう世話係も家庭教師もそれを見越したうえで世話道具や教材などを用意してくれていた。にも関わらず、リュートは目が覚めてすぐに多少ふらつきはしたもののすぐに歩き出したし、何より目を覚まして開口一番に言語を話してみせた。普通の人間ならあり得ないはずだった。そう、普通の人間なら。
彼が生まれたディーゼルツェ家はこの世界でも数少ない名家の一つで、天才であればあるほどに髪色と瞳の色とが濃い鮮やかな緑色になる。鏡に映った彼は思わず感嘆するほどに美しい青緑色の髪と緑色の瞳とを持っていた。数日経った今でさえ鏡に映った自分を見て思わず肩が跳ねることが多々ある。情けない話だとリュートは苦笑しながら、家庭教師に差し出されたテキストを眺めた。
先程の話を蒸し返す形になるが、彼は産まれてから17年間もの間ずっと眠っていた。そんな人間に差し出すテキストとして家庭教師の彼女が用意してくれたものは相応のものだったろうし、誰が見たってそれに違和感を感じなかっただろう。しかし17年間の眠りから覚めたその数分後に当たり前のように立って歩いたような人間に差し出すには不相応なものだった。
リュートの目の前に広げられたテキストは見開きのページ一杯に沢山の動物が描かれていて、それぞれの名前が大きめの文字で書かれていた。どこからどう見てもそれは幼児向けの絵本だった。
「坊ちゃん、この動物さんのお名前はわかりますか?」
唖然として声を出せないでいるリュートに、家庭教師はそう語りかける。きっと彼女は少しの悪気もなく真剣に仕事としてそう声をかけてくれているのだろう。なんだか申し訳なくなり、言葉を発するのすら憚られたがこのままでは記憶の中で育んできたプライドがずたずたになってしまいそうで、リュートは勇気を振り絞って立ち上がった。
「あ、あの…俺、喋れるし、文字もちゃんと読めます…」
それを聞いた家庭教師は顔を真っ赤にして部屋から出て行ってしまったきり、屋敷に来てくれなくなってしまった。"来れなくなってしまった"のかもしれないが。それ以降両親はリュートに家庭教師は必要ないと踏んだようで、彼は数日間ずっと独学でこの世界の文化や歴史を学んだ。この数日間、独学で学ぶたびに知識を蓄えていく脳とは裏腹にリュートは困惑していた。一度読んだ本の内容はほとんど忘れない、一度解いた問題も一度見た写真も絵も自分でも驚くほどにすっきりと整理されて脳に残った。一度入れた知識を再び思い出そうと思ったらすんなりと出て来る。
言っては何だが、記憶の中の自分は決して秀才ではなかった。テスト前は一夜漬けでなんとかなったのでそこまで馬鹿ではなかったはず(だと信じたい)だが、しかしここまで頭も良くなかったはずだ。自分の脳が自分の脳ではないようで、妙に冴えわたっている脳みそに対し、心はぐちゃぐちゃだ。そもそも自分に何が起こったのかすら未だに理解できていないのだから。
巨大な本棚が所狭しと並べられている書庫室で本のラベルを何ともなしに眺める。どうやら記憶の中とは違い、少なくともこのディーゼルツェ家内においてゲームやテレビやといった娯楽物は一切ないらしい(目覚めてからこの敷地内から出ていないためもしかしたら外ではもっと近代的な技術が発達しているのかもしれないが)。そのため時間を潰せるものが読書しかない。知識は増えていく一方だ。
「ん…輪廻転生…?」
リュートはふいに目に留まった本をそっと抜き取り表紙を開いた。眠る前の記憶の中にも輪廻転生という言葉がうっすらとだが残っている。恐らく漫画か何かで得た情報だろう。
「輪廻転生…転生輪廻とも言う。生を終え、天の国へと還った命がこの世に何度も生まれ変わってくることを言う…」
本を読み上げながら、大方記憶の中にあったものと差異がないことを確認する。ただ前の記憶よりもこちらで出版されている本は些かファンシーというかメルヘンな感じだ。本の中ではやたら神やら天国やらを崇めていて、段々飽きてきた。本を戻しながらリュートは凝ってしまった目を擦る。ずっと考えないようにしていたがやはり自分はあの時死んで、生まれ変わったのだろう。ただ生まれ変わる世界が違っただけ。…いや、もしかしたらこの世界は死後に見ている夢なのかもしれないが、夢だったとしても醒めないのであれば現実として受け入れたうえで生活するしかない。結局目に見えるものに頼るしかないのだから。そんなことを考えながら書庫室を出たところでクユキと出くわした。
「あ、兄さん。また勉強してたの?」
そういうクユキの表情は微妙なものだった。
「この間起きたばっかりなのに…あんまり無理しちゃだめだよ」
「他にやることがなくてさ。なあ、クユキ、ゲームとか漫画とかないのか?」
「げえむ…まんが?なにそれ」
「あ、いや…なんでもない」
生まれ変わっても尚煩悩まみれの自分をリュートは悔いた。
「それにしてもすごいね、兄さん。この間起きたばっかりなのにもう家にある本殆ど読んじゃったんでしょ?」
クユキはリュートの隣を歩きながらそう言い、僕なんか全然だよ、と零す。どうやら勉強の成果は芳しくないようだ。
「でも学校に行くんだから、基礎知識ぐらいは入れておかないとね」
ガッツポーズをしながら彼女はそういう。この世界についての知識を取り入れるにつれ、前の世界とは全く違う形態である部分がいくつもあることがわかった。その一つが"学校"つまり教育機関である。この世界において教育機関は一つしかない。そもそもこの世界において就職に分類されるものは"ギルドへの加入"だ。この世界では人間の敵として魔物というものが存在している。人間の負の感情から発生するらしいその魔物は人々に害をなす。そんな生き物を人間が放っておくはずもなく、対策として作られたのがギルドだ。軍隊とも警察ともとれるその機関は様々な部門を持ち、この世界で発達した魔術という技術や訓練された兵隊を駆使してこの魔物と戦っているらしい。
そしてそのギルドに加入するために通過しなければいけないのが"学園"だ。言うなればこの世界に唯一存在する学園は、兵隊を育成する機関。入学に費用は掛からず、学費も掛からない。12歳以上なら誰でも入れるその学園は入学も退学も義務化されておらず、珍しい形式を取っているようだ。何年間で卒業というような形ではなく、年に数回実施されるギルド入団テストに合格するのを目標に学園内で訓練や学習を行い、入団テストに合格すれば卒業といった形らしい。そのため入学して一年足らずで卒業する者もいれば、何年もかかってやっと卒業する者もいるのだそう。
そんな学園に、リュートは数日後に入学する手はずになっている。そしてどうやらリュートが目覚めるまで入学を見送っていたらしいクユキも入学に向けて勉強に精を出しているようだ。
「母さんと父さんと離れるのは不安だけど…兄さんがいるから寂しくないし、すっごく楽しみだよ。あっ、そうだ!」
クユキはぽんと手を叩いたかと思うとリュートの腕に抱き付いた。
「兄さん、勉強教えてよ!だめ?」
「ああ。構わないよ」
「本当?やったあ!約束ね!僕、先に部屋に行ってるから!」
スキップ気味に角を曲がって行ったクユキの背中を見送った。
「クユキは強いな…」
不安をこれでもかと孕んだその声は誰に聞かれるともなくどこまでも続いてそうな廊下の奥へと消えていった。
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