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誰かが消えるその世界で
「いってらっしゃいませ、お嬢様、お坊ちゃま」
そんな言葉を背に受けながらリュートはこの世界で目覚めて初めて風を浴びた。結局目が覚めたあの日以来両親とは会っていない。
窓越しではなく肉眼で見上げた空が、記憶の中にあった空とほとんど変わらない鮮やかな青だったことに彼は人知れず安堵の息を吐く。これでやっと窓の外に見えていた景色は実は存在していないのではないかと悩んでいた日々から解放される。
用意された馬車にクユキと共に乗り込むと同時に窓の外で馬の嘶きが聞こえ、やがて荒々しい揺れと共に窓の外の景色が走り出した。
一つ解消されたとしても未だ夜も眠ることができなさそうな悩みは彼の中でもやもやと燻っている。たった数十日でこの世界に慣れてしまえるほど彼は馬鹿でも鈍感でもなかった。一方、リュートと向かい合うようにして座っているクユキはきらきらとした目で流れゆく景色を見つめている。昨日の彼女の話から考えるに決して不安がないわけではないだろうが、それに勝るだけの好奇心を彼女は胸いっぱいに抱えているのだろう。
「クユキは強いんだな」
昨日は人知れず廊下の奥へと吸い込まれていったその言葉は、今度はしっかりとクユキに届いたらしい。彼女はそうかな、と呟くと照れたように笑った。
「僕は強くなんてないよ、兄さん」
その時だった。馬の悲痛な嘶きと同時に揺れがより一層荒くなり、やがて走っていた外の景色は止まる。御者の悲鳴が聞こえ、馬車が大きく傾いた。気が付けば左にあった窓には地面が、右にあった窓には憎らしい程鮮やかな青空が映っていた。
静かになった頃、リュートはぐらぐらと酔う脳に喝を入れ、軋む身体を起こす。横に倒れた馬車の中、割れたガラスの上に倒れ込んでしまったらしいクユキの下には血が滲んでいた。
「クユキ!おい、起きるんだ!」
「ん…う、兄さん…?」
クユキの右肩に刺さっているガラスの破片を取れるだけ取り除き、上着の裾を破って血が滲む場所に巻きつける。魔物がいるのなら負傷者とどこかで出会うこともあるだろうと読んでおいた医療関係の本が役に立った。まさかこんなに早くこの知識を活用するとは思わなかったけれど。
クユキを支えながらリュートは空を映し出している窓へと手を伸ばす。持てる力を振り絞り、二人で馬車の外へと抜け出した。次の瞬間、リュートは咄嗟にクユキの頭を抱きしめ、腕の中へと収める。
「え?兄さん…ちょっと、何――」
「見るな、クユキ」
思った以上に兄らしい行動をしている自分に驚く。目の前に広がったのは太陽の光を反射して煌めく血の海とそれに沈む肉塊、そして血を浴びながら聞いたこともない程に邪悪な呻き声を上げている白い物体。ぶよぶよとしたその身体にはぼっかりと開いた大きな口しかなく、口の中には鋭い牙が輝いていた。リュートの足先から膝ぐらいまでの大きさのそれは、唾液をだらだらと零しながらかつて御者だったのであろう肉塊にむしゃぶりついている。
それを見たと同時に記憶の中の最期の景色がフラッシュバックする。血の海に沈む自分の姿は他人から見るとあんなに悲惨だったのだろうか。冷汗が流れ、心臓が早鐘を打ち始めた。
「クユキは馬車の中にいて。俺が片付ける」
書庫室にあった本であのぶよぶよとした生き物が魔物であることも、魔物には物理攻撃が有効であることも学習済みだ。勿論、あの本が嘘をついていなければの話になってしまうが…横になっている馬車の中で兄妹仲良く震えているよりもいいだろう。少なくとも自分が囮になればクユキの事ぐらいは守ることができる。そう考え、リュートは家を出る時に護身用にと預けられた剣の柄に手を掛けた。
剣の降り方も持ち方も使い方も文字の上では理解した。ただ、それを実践できるかどうかは別の話だ。手汗が滲み、手が震える。だが。
「兄さん…っ」
クユキの不安そうなその声を聞いて少しずつ手の震えが収まっていくのをリュートは実感した。初めて対面する魔物に恐怖を感じないわけではないが、それよりも守るべきものを守らなければいけないという責任感が彼の中で芽生える。この瞬間、彼は間違いなく"兄"だった。
馬車の上から飛び降りたリュートをロックオンしたらしく魔物はじりじりと周りを固めながら近付いてきた。思わず後ずさりそうになった足を抑え込んで、リュートは剣を引き抜いた。ずっしりとした重みが偽物ではない事を物語る。ゲームの中で散々振り回した刃物が今現実として手元にあり、そしてそれを振らなければいけない状況にある。思わず唾液を飲み込み、そっと息を吐いた。
魔物が耳を劈(つんざ)くような鳴き声を上げながら、リュートに飛びかかる。
「兄さんッ!」
クユキのそんな声が聞こえた。と同時に、リュートは魔物の血を浴びていた。真っ二つになったぶよぶよの身体がべしゃりと地面に落ちる。
震えあがる内心とは裏腹に身体はどうやら名家の血をしっかりと継いでいたようだ。ほぼ無意識のうちに横に薙いだらしい剣には血がべっとりとついている。剣を振ってそれを振り落とし、鞘に戻したところでふっと膝の力が抜けた。ぺたりと座り込んだリュートにクユキが駆け寄ってくる。
「兄さん、大丈夫?!どっか怪我とかしてない?!」
「はは…どうせなら怪我をした痛みで膝を付きたかったよ」
傷一つついていない身体を見下ろしながら彼は苦笑いをした。情けないことにクユキの手を借りながら立ち上がったところで、か弱い鳴き声を上げながら木々の奥から二匹の馬が顔を出した。馬車を引いていた馬たちだろう、警戒するようにゆっくりと一歩ずつこちらへ近付いてくる。
実はリュートもクユキもこの馬たちとは初対面ではない。目が覚めて数日の間にこの世界の移動手段についてはある程度学び、実践もした。その時に乗せてくれたのが彼らだ。
「大丈夫だ、怖くないよ。おいで、シャドー、ミレイナ」
リュートはそう言い、両手を広げた。すると二匹の馬はおずおずとこちらへ近付き、鼻先をリュートの頬に擦り付ける。
「おい、大丈夫か?!」
次の瞬間少し遠くからそう声を掛けられて、二匹の馬はびくりと身体を震わせた。いまにも逃げ出してしまいそうな馬たちを宥めてリュートとクユキは声のした方を見る。
声の主はどうやら馬に乗って銀色に太陽を反射する甲冑を身にまとった男性のようだ。彼はこちらへ近付いてくると馬から降り、魔物の血を浴びているリュートに駆け寄った。
「きみ!すぐ医療班に…ッ」
「え、あ、いや。これ、俺の血じゃないです。どこも怪我してないですよ」
男性の尋常ではない慌てっぷりにリュートは思わず両手をばたつかせながらぴょんぴょんと飛び跳ねた。少しも痛まない身体に、尚更座り込んでしまったことを思い出して少し悲しくなる。
「もしかして、あそこで死んでる魔物もきみが?」
「まあ、はい。一応」
「ほう…。制服を着ているところをみると学生かい?」
男性は興味深そうに自分の顎を撫でるとリュートの目を見つめる。そして漢くさいニカリとした笑みを浮かべ、リュートの肩をばしんと叩いた。
「将来が楽しみだ」
彼の目には一点の曇りもない。剣を握ることを誇りと思っているようにさえ見えるその様子にリュートは感心すると同時に身を震わせた。少し視線を動かせばかつて人だった肉塊がそこにあることを思い出す。あんな光景、これまでの記憶の中には少したりとも残っていない。しかし鮮やかなほどに強烈なその光景を初めてインプットした脳は少しもエラーを起こすことはなかった。改めて彼は自分は既に記憶の中の自分とは全く違う人間なのだと気付く。
「後の処理はこちらに任せなさい。きみなら大丈夫だと思うが一応学園まで送ろう。馬には一人で乗れるかい?」
「…はい。大丈夫か、クユキ」
「うん。大丈夫だよ。兄さんが守ってくれたから」
無邪気に微笑む彼女の背後に血だまりの中で辛うじて原形を留めている人間の腕が見えたが、心臓が一瞬跳ねただけだった。
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