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彼が背を向けたその世界で
まるでこの世のすべてを牛耳る様にその橋は堂々とそこに存在していた。ここへ来るまでに降り始めた静かな雨に濡らされたのであろう、街灯に照らされてどこか妖艶に橋は光を放つ。幅で50m走ができてしまいそうなほどに巨大なその端はまさにこれからリュートとクユキが入学する学園への入り口だった。本に記載されていた情報のまま改装などが行われていなければこの橋を渡り切った先に巨大な校門があるはずだ。
この世界には三つの大陸がある。この世界の秩序を守る機関が置かれている首都部、三大陸の中で一番巨大な中心部、そして学園が置かれている学園部。首都部にはこの世界における政治家が住んでおり、人口は百人ほど。百人が住むには広大すぎるその大陸にはまるで背比べをするかのように政治家や名家の巨大な屋敷が立ち並んでいるらしい。ディーゼルツェ家の屋敷は中心部にあるため実際に見たことはないが文献の内容から察するに前の世界ほど政治は複雑ではなく、また政治家も民に選ばれたでもなくただ金持ちが道楽ついでに権力を主張しているだけのようだ。
むしろ重要なのは政治家ではなく、この世界を見下ろすかのように聳え立つ巨大な城、そして各ギルドの拠点がそこにあるということだ。この世界において魔物は人間の最大の敵であり、そしてそれに対抗するために作られたギルドは政治家たちよりもずっと政治家らしい。むしろこの世界の決まり事などは殆どギルドのリーダー達によって決められたものらしい。ギルドのメンバーや幹部は大半が元一般人や普通の家の出身者などであるため、なかなか金持ちたちも独り善がりの勝手な主張は通すことができないようだ。
馬から降りてふと背後を振り向く。この世界のどこからでも望めるであろう巨大な城はぼんやりと雲の奥に隠れながらもこれでもかと自分の存在を主張している。首都部に存在するあの城には人間はいない。むしろ入ったことがある人間はいないのではないかと伝えられているほどだ。どこにも入り口がないその城は魔法の原動力である魔力を生成するもので、伝説上では精霊たちが作ったのだと言われているらしい。伝説とはいえその仮説は間違っていないのかもしれない。今現在人間たちが自慢げに使っている魔法はあの城から生成された魔力を使っているもので人間がもともと持っているものではない。あの魔力を使うにはどうやら素質なども必要らしい。そしてその素質は精霊との相性に直結する。
「行こう、兄さん」
るんるんと歩き出すクユキの背中を追いかけながら橋を渡っているとふと手のひらサイズの宙に浮かぶ人魚のような生き物とすれ違った。艶やかな笑みを浮かべたそれは、楽しそうにくるくるとクユキとリュートとの周りを飛び回る。
「わ…マーレだ、綺麗…」
マーレとはこの世界の精霊の種類の一つ。水を司る精霊だ。他にもこの世界には火を司るフィアンマ、土を司るテッラ、植物を司るヴェルヂ、光を司るルーメ、闇を司るネーロと数種類の精霊が存在している。各種類色や見た目に大きな差異はないが細部が異なり、同じ見た目の精霊は存在しない――らしい。なにか根拠に基づいて証明されているわけではないが現段階では少なくとも全く同じ見た目の精霊は確認されていないのだという。
やがてマーレはクユキとリュートとの頬にキスを落とすと海のような蒼い空に溶ける様に飛んで行った。
「知ってるか、クユキ」
「え?」
「精霊からのキスは祝福。…きっといいことがあるさ」
クユキが馬車の中から出た後からずっと震える手を握りしめていたことにリュートは気付いていた。マーレにキスをされた彼女の頬を優しく撫で、マーレがキスをしたのとは反対の頬にそっと唇を押し付ける。
「兄さんはやっぱり僕が思っているよりもずっと兄さんだね」
「はは。まだ添い寝は必要かな?」
「も、もう!兄さん!」
そんな話をしながら二人は巨大な橋を渡り終え、橋よりも強大な存在感を持つ巨大な校門を見上げる。一体いつ誰が開閉を行うのか不思議になるほどに大きな校門は警戒など微塵もしないとでもいうように開け放たれていた。だが、この敷地内に魔物は入ってこないし、発生もしない。門の開閉が必要ないのは既に壁があるからだ。人間には無害で、魔物には有害な壁が。人類によって進歩してきた魔法により形成されたその壁を、今しがた橋を渡りながらクユキとリュートとも通り抜けてきた。
学園部、首都部にはその地方一体を覆うほどにクロシュのような大きな結界が張られているが、中心部は学園部や首都部に比べて大きすぎるため各街に一つずつ張られている。そしてここへ来るまでにリュートたちが襲われたのはその結界の外――つまり都市間を繋ぐ街道だった。
「さて、俺は高等部だけどクユキはまだギリギリ中等部だもんな。ここでお別れか」
リュートは持ってきた地図をクユキに手渡し、ふわりと笑う。この学園には中等部、高等部、大学部と三部門が置かれており、それぞれ履修内容は変わらないが犯罪などを防ぐために年齢別で区画されている。中等部は12歳から15歳、高等部は16歳から18歳、大学部は19歳以上だ。
「そういえば地図一つしかないけど…兄さんは大丈夫?」
「ああ。俺はもう地図覚えたから。それよりクユキは方向音痴なんだから気を付けろよ」
「わ、わかってるよ」
クユキは口を尖らせ、不貞腐れたように地図を開きセピア色の紙面と睨めっこを始めた。自分の現在地と目印と目的地とを確認しているようだ。
「ぐぬぬぬ…ここが、こう、で……あれが…あそこで…」
たった数十日されど数十日。妹だと名乗っていた少女は気が付かないうちにリュートの中でちゃんと妹という地位を獲得していた。記憶の中にクユキ以外の妹は存在しない。いつでも会えるとはいえずっと同じ屋根の下に住んでいただけに別れを目前にしてなんだか寂しさが込み上げてくる。余所余所しい使用人や結局あれ以降顔を合わせられなかった両親のことなどどうでも良くなるくらいにクユキはリュートにべったりだったのだ。突然彼女がどうしようもなく愛おしくなったリュートは緩く編まれた彼女の髪を撫でる。
「クユキ」
「ん?」
金色に縁取られた長いまつ毛がゆっくりと持ち上がり、ばちりと視線がぶつかる。
「何かあったらすぐ連絡するんだぞ」
リュートのその言葉に、クユキは花の蕾が綻ぶような可憐な笑みを浮かべて嬉しそうにうなずいた。それから遅れるといけないからと地図を見ながら歩き出した彼女の背を見送り、リュートは彼女が行った方向とは反対側に歩き出す。中等部と高等部とは大陸内において正反対の場所にあるのだ。
その時目の前で小さく火花が散り、リュートは思わず足を止めた。
『チャオ!我らがメシア。元気にしてるかい?』
「…フィアンマ?今日は随分と精霊に出会うな」
『そんな顔するなよ、我らがメシア。俺たちは気まぐれなんだ。さっきは誰と会ったんだ?ま、俺たちはお互いを認識していないから言われたところでどいつなのかはわからないがな。そうそう、そんなことよりもだ、我らがメシア。俺は忠告をしに来てやったんだぜ、我らが愛するメシアのために』
歩き出したリュートの背を火花を散らしながら追い、フィアンマは続ける。
『気を付けた方がいい、我らが愛するメシア。アンタが来たことでこの世界は救われる可能性が発生したが、アンタが来たことでこの世界の均衡は今にも崩れそうになっている。まあ原因はアンタではなくあのアホだからアンタには何の罪もない。どっちかというとアンタは被害者だ。だがアンタは救わなければいけない。この世の中を、そして、アンタをこの世界に送り込んだ原因を作ったアイツを』
頬の横で火花が散る。
「何を言っているかわからないが…さっきから言ってるメシアって何なんだよ」
『俺にもわからん。ただ、主様がお前をそう呼ぶから俺たちもそれに倣っているだけさ。ともかく、忠告したからな。死ぬなよ、我らが愛するメシア。お前が死ぬときは、この世界から人間という存在が消え去るときだ』
リュートは思わず足を止め、振り返る。と同時にフィアンマは小さな音を立てて火花となり散った。
殆ど音がなくなった広大な檻の中でリュートは背筋を走った寒気と責任とを振り払うように、これから自分が通うであろう校舎へと小走りに駆けていった。
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