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彼が生きたその世界で
「リュート・ディーゼルツェ。宜しくお願いします」
教壇の上、校舎の玄関口で彼を出迎えここまで案内した教師の隣に立ち、そう自己紹介をして頭を下げると教室内はざわめいた。そのざわめきはリュートを歓迎しているというよりはどちらかというと畏怖を抱いているように聞こえた。だが、なぜそんな感情が彼らの声に孕まれているのかなど当の本人は知らない。彼が過ごした数十日はディーゼルツェ家の権力の巨大さを自覚するには短すぎた。
指示された通り教室窓側の一番後ろの席に座ったリュートに、座学が終わった後でも話しかける人はいなかった。リュート自身も既に形成されているグループに無理やり入り込もうなどとは思っていない。前の記憶でもあまり友人は多い方ではなかったし、誰かと行動することもあまり多くはなかった。それにここに来たのは友達ごっこをするためではない。この世界での就職においてあまりコミュニケーション能力は重要ではないということもあってリュートは休み時間を適当に外を眺めて過ごした。この世界には携帯電話は存在しない。コンピュータもスマートフォンもない。明日からは本でも持ってこようと思ったその時だった。
「なあ!リュート…えっと、ファミリーネーム忘れた!まあいいや!俺と友達になろうぜ!」
ばあん、と。
一体何の衝動に駆られたのだろうかその男子生徒はリュートが頬杖をついていた机に両手を叩きつけながらそう言った。突然の出来事に思考回路はショート寸前。今すぐ会いたいよ。ってそうじゃない。リュートはこのタイミングでボケをかまし始める脳を揺さぶって回路を復旧させると、目の前の男子生徒の顔を見上げた。
「…あっ!俺?俺の名前ね、アスカ!アスカ・アミーコ!アスカって呼んでいいぜ!」
「何も言ってないけど」
「宜しくな、リュート!」
「言葉通じてないのかな…」
目をキラキラさせながらリュートの手を握り、ぶんぶんと振り回すような握手を交わしてアスカは屈託のない笑顔を浮かべた。文字通り、悩みのなさそうな奴だとリュートは失礼なことを考えたが、折角自分に話しかけてくれたのだ。アスカの手を握り返し、笑顔を浮かべる。
「…まあ、いいや。宜しく、アスカ」
「おう!」
――――――――――――――
「諸君。キミたちが今こうしてここにいてくれることに感謝と敬意とを贈ろう。私はこの学園の校長、マリナ・スカーレットだ。私は回りくどい話は嫌いでね。大切なことだけをこの場を借りて君たちに伝えようと思う。魔物について君たちはどれくらい知っているだろうか?あいつらは遥か昔、君達が生を受けるよりもずっと前から存在している。これまで人間はずっと魔物と戦ってきたが、奴らについてわかっていることはあまり多くはないのが現状だが、一つだけ確実なことがある。それは奴らの弱点についてだ。魔物には基本的に弱点はない。というより全身が弱点のようなものだ。刃の部分が届けばダメージをを負わせられる。だが、だからといって油断してはならない。奴らの恐ろしいところはむしろその後だ。奴らは痛みを感じない。どれだけダメージを負おうと心臓を止めない限り這いずってでも向かってくる。命を落とす兵士はこれに恐怖を抱き、剣を振れなくなる。魔物と対峙するとき必要なのは何よりも精神力の強さだ。どれだけ学生時代実技の成績が良くても、いざ戦場に出て剣が触れない奴もいる。魔物の血を浴びておかしくなってしまう奴もいる。…だが、剣を持てなくなってしまった彼らを責めることができる人間は一人もいないということを君たちには理解ってほしい。人には向き不向きがある。それは当たり前の事なんだ。ここで学んでほしいことは自分自身を守れる程度の技術と自分には何ができて何ができないのかを見極める力だ。さて、長くなってしまったな。最後にこれだけ言わせてくれ。格好悪くてもいい、往生際が悪くてもいい……絶対に死ぬな。以上だ」
まるで入隊式のような長い挨拶を終え、遥か遠くの檀上の上から屈強な女性の姿がなくなった。数千人という生徒をすっぽりと収容できてしまうこの巨大な校庭もすごいが、何よりも先ほどの言葉を拡声器のアシストがあったからとはいえ数千人のほぼ最後尾にいた自分の耳にまでしっかりと届けてしまった彼女にリュートは唖然としていた。張りのある頼もしい声の持ち主である壇上の上にいた彼女は、確かにこの学園の長たる素質を持っているに違いない。
そんな感じで朝礼を終え、本で既にインプットしてしまった内容を再確認しつつ講義を受け、やっと迎えた昼休み――リュートはアスカと共に食堂へと向かって歩いていた。
「いやあ…相変わらずここの校長はすげえな。リュート、お前も驚いたんじゃないか?」
「ああ。凄かった。声だけであんなに説得力のある人なんて初めて会っ――」
「ちっげーよ!さてはお前後ろの方にいたな?!そんなんじゃこの学校にいる意味ねーよ!」
「…どういうこと?」
「校長がすごいのな……おっぱいだ!」
白昼堂々廊下で何を叫びだすんだこいつは。セルフエコーをかけ、胸を張るアスカから視線を外し、他人のふりをする。そんなリュートをばたばたと追いかけながらアスカは「あれー?」と腕を組んだ。
「リュート、お前もしかして尻派か?」
「……お前戦場で真っ先に死ぬタイプだろ」
「なんだよー。そんな怒るなって。俺がおっぱいの何たるかを教えてやるからさ」
力説を始めてしまったアスカをどうしてやろうかと思ったその矢先、曲がり角を曲がったその瞬間――リュートは吐きかけた溜息を飲み込んだ。アスカのおっぱい談義など最初から聴いてはいなかったが、もはや彼の声どころか廊下のざわめきすら聞こえなくなるほどにリュートの視界は一点を見つめて動かなくなる。もはや懐かしい、記憶の中の最期に血の海の中で微かに感じた香りがふわりと鼻孔を犯した。甘たるくて溺れてしまいそうなその香りは真横を走り抜けていった藍色から発されているらしい。振り向きながら伸ばした手は残念ながら日を浴びたら溶けてしまいそうな白い肌ではなく空を掴み、藍色はまるで逃げるかのように廊下の奥へと消えていった。
「いま、の…」
幻かと思った。蜃気楼かと思った。だが。
「あっぶねーな。大丈夫か?リュート。今の奴、先生に目つけられてる問題児だから気を付けろよ」
その言葉を聞き終わる前に、リュートは走り出していた。
「えっあ?!リュート?!どこ行くんだよ!」
「悪い!急用!後で行くから先食ってて!」
そう言い、藍色を追いかけて廊下の奥へと消えてしまったリュートを見届けたアスカは数秒考えた後、ぽんっと両手を合わせる。
「……トイレか!」
勝手にそう納得し、うんうん、と頷いてアスカは一人食堂へと向かうのだった。
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