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君が望んだその世界で

『なん…で…』 『アンタ、誰なんだよ…なんで、なんで…?』 『人間って…こうじゃないだろ?』 『知らない…知らないよ、こんなの』 『…待ってろ…待っててくれ…』 『死なせない。絶対に、死なせないから――!』  果たして、その声は夢だったかあるいは現だったか。だが鳴り響く救急車と警察車両とのサイレンの中、まるで頭の中で直接響くかのようにその声が木霊したのを確かに覚えている。廊下を走りながらリュートは脳裏で勝手に再生される記憶の中を泳いでいた。  先ほど廊下ですれ違った彼が、自分の記憶が作り出した幻ではないのなら。見間違いかもしれない。他人の空似かもしれない。だけれど。霞む視界の中でぼんやりと見つめただけの藍色の彼の顔を思い出す。雨を吸ってしっとりと濡れた藍色の髪が夜の光を浴びて光っていた。  藍色を追いかけてやっと辿り着いたのは屋上だった。乱れる呼吸を直さないまま、屋上の扉を乱暴に押し開き――目の前に広がった景色にリュートは息を飲む。広がる空色の中、ぽつんと藍色は確かにそこにいた。まるで空に置いて行かれたかのようにあまりにも孤独に見える彼は、それを意に介さないとでもいうようにこちらに背を向けて小刻みに揺れながら鼻歌を歌っている。  一歩を踏み出して―――リュートは動きを止めた。あり得ないはずなのだ、そんなことは。だって彼は死んでいない。仮に、もし仮に目の前にいる彼が記憶の中の彼だったとして……だから、どうだというのだろう。自分は見返りでも望んでいるのだろうか。  急に足が竦み、ここまで来たことを後悔したその時、背後で大きな音を立てながら屋上の扉が閉まった。びくりと目の前の藍色の背中が震え、そっと振り向く。瞬間、記憶が脳裏をよぎった。屋上の真ん中、空に包まれながらぽつりとそこに存在している彼は間違いなく藍色の彼だった。だが。 「アンタ、誰だ?」  藍色の彼が紡いだその言葉で、リュートははっと我に返る。同時に泣きたくなった。気付いてしまった。なぜ自分が躍起になって彼の背中を、藍色を、追いかけたのか。  17年も過去を飛ばしていきなり知らない世界で始まってしまった自分の人生。記憶の中にしか存在しない空白の17年間を彼ならば認めてくれるかもしれないと思ったから。何の色味もない人生だったが、無いよりはずっとマシだ。だから、追いかけた。無意識に。  膝から崩れてしまいそうになったリュートを支えたのは他の誰でもない、藍色の彼だった。 「おっとと。大丈夫か?てかなんでそんなに息切らせて……はっ、も、もしや!ナンパか?!」 「……え?」  雰囲気ぶち壊しの彼の言葉を聞いてリュートは体勢を持ち直した。 「こんなに息を切らすほど必死になって俺の事追いかけてきてくれたんだな?!俺、レイジ!レイジ・ファレル!アンタの名前は?」 「は、え?」  どえらい勘違いをされてしまった。ナチュラルに腰に回って来た藍色の彼――もといレイジの腕を振り払うこともできずリュートは混乱する頭の中、あることを思い出した。 「アンタ、めっちゃ可愛いな!大歓迎だよ!とりあえずどうする?キスでもしとく?」  この世界では、同性愛は淘汰されないということを。 「違う…」 「ん?なんて?」 「イメージと違うぅ…!」  ついに臀部を撫で始めたレイジの顔面を殴り、リュートは屋上から逃げ出した。 「…ふっ……恥ずかしがり屋さんなんだな…」  そんなレイジの言葉を、聞くことなく。  結局彼から逃げた後人気のある所に行きたくなった彼は校内を走り抜けて、アスカのいる食堂へと向かう。食堂の奥側、窓際に座って口いっぱいに食事を頬張るアスカの正面にリュートは顔を覆って座り込んだ。 「どーした、リュート。人でも殺したかのような顔して」 「…まだ殺してない……」  とんでもないことをしてしまった。というか、とんでもないことになってしまった。マジでどうしよう。  よく考えれば彼には失礼なことをしてしまった。しかもあの反応だと明らかに自分の事を以前から知っていたわけではなさそうだし…。 「隣失礼するよ、ハニー」 「あ、はい。どうぞ………は?」  かたん、という音と同時に視界の中に香しい香りを放つ料理の乗ったお皿とそれを乗せたトレーがすべり込み、同時に料理の匂いを凌ぐほどに懐かしく先ほどこれどもかと嗅いだばかりの甘だるい匂いが鼻孔を突いた。優雅な仕草で座り、そしてこちらを見て、隣の彼…レイジは、ばちこーん☆とウインクをしてみせた。 「逃げるだなんて酷いじゃないか、ハニー。まあそんな恥ずかしがり屋なところもかわい――」 「い、いやあああああ」  自分でも聞いたことのない程高い悲鳴と同時に、リュートは拳をレイジの顔面に叩きつける。椅子ごと彼がひっくり返り、大きな音が鳴った。食堂の殆どの視線がこちらへと注がれる。勿論アスカの視線も。背筋が凍り、顔に熱が集中する。リュートは鼻血を出しながら目を回しているレイジの腕を掴み、食堂を飛び出した。ざわめく廊下を走り抜けて、屋上へと繋がる階段の踊り場でやっと足を止める。乱れる呼吸を直しながらレイジに向き直った。 「お前っいきなり、何なんだよ…!」  レイジの肩を掴み揺さぶった。直後、状況が呑み込めないのかぽかんとしている彼の顔を見上げてリュートははっとする。自分で顔が青ざめていくのがわかった。 「あっ…いや、その、ごめん…」 自分を恥じる。彼の肩を掴んでいた腕を離して下を向いた。バツが悪くなり、制服の裾を握りしめるとレイジの鼻先を拭う。鼻血はとっくに止まっていたが、真っ赤に染まった裾が戻ってきたのを見て思わず、うわ、と声を上げた――その時。 「なあ」  低い声でそう突然言われてリュートは肩をびくりと震わせる。自分よりも背の高いレイジは天井に吊り下げられている照明の逆光を浴びて顔が良く見えない。だが、険しい顔をしているのだろうということは想像に難くなかった。この案件についてはほぼ100パーセント勝手に期待して勝手に外した自分のせいなのだけども。リュートはゆっくりとレイジが腕を持ち上げるのを見て思わず目を閉じた。せめて優しく殴って――なんて、思わず失笑してしまいそうなことを考える。同時に。  耳の近くで…というか、頬で。一瞬聞き逃してしまいそうなほどに小さなリップ音がした。 「え」  離れていく吐息と、先程よりも近い藍色の彼。薄く弧を描く彼の唇が頬に押し付けられたのだと気付くのにはかなりの時間を要した。 「アンタ、怒ってても可愛いな」  耳元で艶めかしくそう呟かれ、リュートは身体が固まるのを自覚した。人間、困惑すると本当に動けなくなるものなのだなあなんて呑気に考える。同時に、背筋を走る謎のゾクゾクとした感覚からも目を逸らした。 「どうした、抵抗しないのか?…なあ、ハニー」 「っひ…!」  が、まるでちゃんと見ろとでもいうようにレイジはリュートの腰に手を回す。ゆっくりと指先で腰から背までを撫で上げられて、身体が跳ねた。 「お、おれ…別に、お前のことナンパしようとしたわけじゃないからな!その、そ、そう!昔の、友達に似てた、から…つい追いかけちゃっただけ、なんだよ…だから、その」  距離を縮めて来る彼の胸を両手で押し返すが、びくともしない。どころか先ほどよりも近くなっている。距離に比例するかのように心臓が少しずつ煩くなって、リュートは熱が集中した顔を隠すようにふいと顔を逸らした。 「離してよ…」  まるで熱を押し付けられたかのように火照る頬を彼のひんやりとした指が伝う。何も言わなかったがどうやらリュートの要望を受け入れる気など毛頭なさそうだった。 「もうっいい加減に――」  そう言い、拳を振り上げると思ったよりも余裕がなさそうなレイジの顔が目に入る。行かないで、と。ここにいて、と。まるで縋りついていまにも泣いてしまいそうな表情に思わず心臓が跳ね、リュートは行き場を無くした拳をどこへやるともなくこっそりと息を飲んだ。

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