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雨に光るこの世界で
「この世界には数千年もの間守られている決まりがある。…いや、あった、という方が正しいだろう」
そう言って教官は教壇に両手を付いた。彼女の額には汗が滲んでいる。視界の端、黒板の横に立てかけられている指し棒が何やら寂し気に風に揺れていた。まさに真夏と言うにふさわしい陽気に照らされ、窓を全開にした教室の中ではしきりに分厚い制服をぱたぱたと仰ぐ音が鳴る。
「ついこの間まで守られていたその決まり、わかる奴はいるだろうか?」
知っている。歴史の文献で読んだ記憶がある。
「人口だ。この世界は、決して人口が変わらない。これには学術的根拠は未だ発見されていないが、この世界で誰かが死んだその時、その瞬間にこの世界では新たな命が生まれているということは長年の研究と観察によりほぼ立証されている」
ふと板書をしていた手を止めて前の方に視線を向ける。するとアスカが眠りこけているのが見えた。よく怒られないものだと思って教官の方に視線を移すと何やらアスカの方を見ながら手帳に書き込んでいる。…バレバレじゃん。ありゃ後で呼び出されるな。南無参。
「しかしほぼ決定事項と思われていたこの法則が、突如破られた。17年前のことだ」
びゅう、と。一際強い風が入ってきて教科書をぱらぱらとめくった。
「長年変わらなかった人口が、変わった。増えたんだ。一人だけ。たった一人、この世に増えた」
見かねてか窓際の席に座った生徒が窓を少しだけ閉める。風は教科書をめくることには飽きたらしい。今度はカーテンを揺らし始めた。
「当時は大騒ぎになったものだが17年経った今まで特に異常は見られていないため、現在は特に問題視されていない。観察や調査などは引き続き行われているようだがな」
あっという間に聞きなれてしまったチャイムが鳴り響き、寝こけていたアスカは涎を拭こうともしないまま飛び起きる。教室の中、どこかから小さく笑い声が聴こえた。
「わからないことがあったら聞きに来るんだぞ。特にアミーコ!落ちたら承知しないぞ!」
笑いながらそう言い、教官は教室から姿を消した。
それが数十分前の出来事。数十分経った今、リュートは向かいに座るアスカの声すら聞こえないくらいのざわめきの中、小さくなりながら食事をしていた。一度食堂で騒いでしまったので申し訳なさもあったのだがアスカに無理やり連れ込まれたため仕方なく席についている。前回はあまり味がしなかった食事を今回は味わって食べることにしよう。
「なあ、アスカ」
「んー?」
「お前、アイツの名前知ってるか?問題児だかなんだか」
そう言うとアスカは口の中に詰めてあった食事をむぐむぐと飲み込んだ。
「なんか名乗られた気がするんだけど…あの時は必死で全く覚えてないんだよなあ…」
「んぐ…。ああ、えっと、この間ぶつかりそうになったやつだろ?なんだったかな…確か、そう、れ、れ…レンゲ?」
「確実に違うことだけはわかる」
「レイジ。レイジ・ファレル」
かたん、と。隣で音がしたと思ったら視界の端に藍色が映り込んだ。一度同じようなシチュエーションで殴られたのに懲りない奴だ。
「なあ。名前教えてくれよ。俺、本気でアンタに惚れたんだ」
「考えておく」
そう言って最後の一口を含んだ。瑞々しい野菜の甘さが校内に広がる。何度か咀嚼して飲み込んだところでふいと相変わらず隣に座っている藍色の彼を盗み見た。彼はどうやらずっとこちらを見ていたようで、ちらりと見ただけなのにばっちりと目が合ってしまった。
「っぶは…変な顔」
まるで捨てられた子犬のような顔でこちらを見つめる彼にリュートは思わず噴き出す。
「リュート・ディーゼルツェ。何度も逃げてごめん、レイジ」
そういって微笑むと藍色の彼もといレイジは、わかりやすく表情を輝かせて勢いよく立ち上がった。反動で椅子が倒れて食堂内に音が響く。…ああ、デジャヴ……。
「俺、絶対落とすから。期待してろよ、リュート」
「…受け身の練習しといてよね、レイジ」
―――――――――――――――――――――――――――――
朝から降り続いている雨は、より一層強くなっているようだった。地面に乱暴に叩きつけられた雨粒は煌めきながら粉々に割れる。一歩でも屋根から出ようものなら一瞬でずぶ濡れになってしまうであろうこの天気の中、湿気でしっとりと張り付く衣服を鬱陶しく思いながらリュートはふと横を見た。
なにやらソワソワしているレイジが目に入る。その姿はまさに青春そのもので。だけどそんな彼の隣にいるのは可愛い女生徒でもセクシーな女教師でもない。どうやら彼は本当に自分の事が好きらしいということを改めて自覚したリュートはレイジに気付かれないよう小さく溜息を零した。
人間とはおかしなもので、好きだと言われるとその相手のことを無自覚のうちに好きになってしまうものだ。相手は男。それでも心臓がいつもよりうるさいのはやっぱり――。そこまで考えてリュートは首を振る。アスカの奴、こんな時に限って呼び出し喰らいやがって。なんでいきなり自分のことが好きとかいう野郎と一緒に雨の中放り出されなきゃならないのか。
「リュート」
「なんだよ、レイジ」
「今ふと思ったんだけどさ」
そう言ってレイジはリュートよりも高い位置にある腰を曲げて、ぐいと顔を近づけて来た。突然すぎて思わずびくりと肩が跳ねる。心なしか顔も熱い。嘘だろ、俺…なんて思いながら一歩後ずさった。が。
「どっかで会ったことないか?」
次に跳ねたのは肩ではなく心臓だった。心拍数が上がる。後ずさった距離を戻って、レイジの腕を掴んだ。
「まさか、覚えてるのか?!」
「え、マジで会ったことあるのか?どこで?!」
「あの駅前の交差点で――」
そこまで言って、リュートは口を噤んだ。
この世界には駅も電車も車も…信号機すら存在しない。それどころかコンクリートの道路すらない。そもそもの話、周囲の人間の話を聞くに自分は17年もの間眠っていたのだという。この記憶が、空白の17年間の代わりとばかりに脳内にぽつんと置かれた"前世の記憶"が本物だという確証すら、自分は持っていない。17年間の間に見ていた夢だという可能性も捨てきれないのだ。
「…リュート?」
レイジは突然黙り込んでしまったリュートの顔を覗き込む。
「いや、なんでもない。やっぱり気のせいだったみたいだ。忘れて」
「え、あっ…ちょっ…!リュート?!待てよ!」
静止の言葉も聞かず、雨の中に飛び出した。泥が跳ね、靴に水が染み込んでくるのすら気にならないほどリュートは必死に雨の中を走った。形容しがたい不安から逃げるように。
自分は今、"誰"なんだ?
両親が、クユキが呼んでいた名前は――"リュート"は、本当に俺なのか?
「…こわい、俺、俺は…」
どれだけ走っても前世の記憶の中にある景色など見えない。寧ろ食べ物や植物、存在する動物などが類似していることでこの世界の現実味が強くなっていく。寂しさが体温を奪い、全身から力が抜ける。もう嫌だ、と足を止めたその時。どこかから小さく、蝶番が軋む音が聞こえてきた。ふいと周囲を見渡すと、右手にある古民家のような建物のドアが少し空いている。雨で霞む視界の中、リュートは吸い寄せられるようにその建物へと歩き出した。
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