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天に響く君の声は
リュートの記憶の中では祭りや宴といえば、藍色の夜空の下で提灯が揺れ踊り、夏の生温い風が惜しげもなく通り抜ける屋台セットが列を成し、人々は涼しげな浴衣に身を包み、足元ではカランコロンと下駄が地を蹴る、そんな景色で―――今、目の前に宴を名乗りながら広がっているそれは絵本や漫画の中でしか見たことがないもので。
ざわつく人の群れは皆鮮やかに装飾が施されたドレスやタキシードに身を包み、色を持たないグラスの中で揺れる赤黒い液体に口をつけている。そしてもちろんその中に紛れている自分もまた華やかな衣装に身を包み入場時に燕尾服に身を包んだ使用人に渡された赤黒い液体が注がれたグラスを手に、ただ突っ立っていた。説明された通りなのだとしたら、これは剣術大会の前夜祭というものらしい。溶け込むことも壁の花を決め込むことも出来ずに、いつの間にか料理に釣られていなくなってしまったアスカを恨んだ。どうやらこの前夜祭、学生の親族だけではなく一般人の参加も許されているようで、だだっ広い会場の中でクラスメートを探すことは至難の業だ。
さてどこへ避難しようかと周囲を見渡したその時、突然腰の辺りに衝撃と重み、同時に柔らかい感触を覚え、視界の端にある透明なグラスの中で液体がぐらりと揺れた。
「やっと見つけた!兄さん!」
腰に回っている細く華奢でありながらとんでもないパワーを秘めているその腕を優しく解いて振り返ると、数ヶ月ぶりの愛しい妹の顔があった。
「久しぶりだね、兄さん。元気だった?」
彼女の花の咲くような笑顔がなんだか懐かしくて、リュートはそっと彼女の額に唇を押し付ける。すると彼女はくすぐったそうに頬を緩め、お返しと言わんばかりに少し背伸びをしてリュートの頬に口づけた。
「元気だよ。クユキこそ元気そうだね、安心した。一人部屋が寂しくて毎晩泣いているんじゃないかと心配していたんだよ」
「も、もう!兄さんったら!」
いつもより華やかに結い上げられた髪が、ぷいとそっぽを向いた彼女を追うようにふんわりと揺れる。
「そうだ!ねえ、兄さん聞いて!僕、クラスで実技の成績一番取れたんだよ!」
「へえ。すごいじゃないか、クユキ。入学する前からずっと頑張って稽古してたもんな」
髪を梳くようにして撫でてやるとクユキは満足そうに笑った。その様子がまるで犬のようで、思わず顔が緩む。ボールを投げてやれば喜んで持ってきてくれそうだ。怒られるからやらないが。
「ねえねえ兄さん。お願いがあるんだけど。剣術大会、僕が一位取れたらね」
肩をこちらに寄せ、悪戯っぽく彼女は笑う。そうしてそっとリュートの腰にある剣の柄に手を掛け、指先でなぞった。ぞくりとしてしまいそうな程艶やかな手つきと悪魔のような微笑みを孕んだ彼女。うちのクユキにこんな顔を教えたのはどこのどいつだと殺意すら覚えた。
「本気で稽古つけて欲しいの」
「…気付いてたんだ」
「バレバレだよ。だって兄さん、稽古中なのに優しい目してるんだもん」
そう言ってクユキは不貞腐れたように頬を膨らませる。
「剣術大会で一位取れたら、きっと兄さんは僕に手加減はいらないってわかってくれるかなって」
「え、えっと、い、意地悪でやってたわけじゃないんだよ?」
「わかってる!でもやっぱり僕、兄さんと本気で戦ってみたいの!お願い!」
「……はあ、我儘なお姫様だ」
「もう!またそうやって!いい?約束だからね!僕が一位取れたら絶対ぜーったい本気で稽古つけてよね!」
「わかったわかった」
そう言って頭を撫でるとクユキの膨らんでいた頬は萎み、嬉しそうに笑った。
―――――――――――――――――――――――――――――
悩んだ。ここ数日、まるで恋に恋する乙女の如く悩んだ。そりゃあもう数十年伸ばした髪がすべて抜けてしまうのではないかと思うほどに悩んだ。そうして辿り着いた答えは。
「よしっ…今日こそちゃんと言うぞ……"最初から少しも怒ってない"って」
あの時は少し驚いてしまっただけだ。疑ってしまっただけだ。今は少しも彼に対してなんの疑念も抱いていないし、何よりも彼に会いたい。彼と顔を突き合わせないこの数日は酷く心が荒み、何の影響か真面目に授業を聞いてノートまでしっかり板書して、教員に病を疑われたほどだ。まあ授業の内容はその日のうちに忘れてしまったけれど。
だが、そうして悩んだ数日間が目の前に映った景色によって一瞬で塵と消えた。見たこともないような美少女と並ぶ彼の姿。黄色掛かった緑色の髪が派手な照明の明かりを浴びて輝いている。これまで彼が女生徒に声を掛けられているところは何度も見たことがあったが、あんなに親し気な女性は初めて見た。
「…っ」
レイジは唇を噛んでその場を去った。
もしもこの時、図太い女のように、獲物を狙う獰猛なハンターのように、リュートの肩に腕を回し、一緒にいる少女を睨みつけていればもっと事態は簡単だっただろう。それができないからこそ彼なのだが。結局彼は自室に逃げ帰り施錠をしてベッドに潜りこんだ。
そうして、気が付けば朝で、そうこうしているうちに剣術大会が始まってしまった。
「諸君!今日はこれまで学んできたことを存分に発揮してほしい!これは学園行事とはいえ実戦だ!それを忘れずに皆携えた剣を振るって欲しい!以上だ!諸君の健闘を祈る!」
最悪のコンディションの中、鼓膜を破りそうな学園長の大声を聴いたのち、控室に移動する。
「なあレイジ、お前のブロックも今日じゃないだろ?観覧席行こうぜ、ディーゼルツェの試合が始まるんだってよ」
「え、あ、ああ」
クラスメイトに半ば引きずられるようにしてレイジは観覧席に連れ出された。容赦なく照り付ける陽の光が痛い。禿げるかも、なんて思ったその時だった。観覧席から黄色い歓声が上がり、フィールドにリュートが姿を現す。彼は相手と二言三言言葉を交わした後、律儀にも頭を下げてにこりと笑う。
ああ、だから。そんなことをしてくれるな、リュート。またライバルが増えてしまうだろう。自分を炎天下の下に引きずり出したクラスメイトですら「あれ、なんかアイツよく見たら可愛くね?」なんて話しているくらいだ。
―――だめだ。あれは、俺のだ。
スタートの合図と共に緑を纏った彼はフィールドを舞う。蝶のように。
剣術大会はトーナメント制だ。中等部、高等部、大学部それぞれ部ごとに頂点を決める(学園創立初期は部をすべてごちゃ混ぜにしてトーナメントを行っていたようだが、中等部と大学部とでは体格差が目立つため廃止されたようだ)。だがそれにしても人数が多いため、剣術大会は部ごとに一週間ほどの期間で長期的に行われる。試合に時間制限は無いため期間が延びることも縮むこともある。千数人をブロックに分け、一回戦は人数が多いため数日かけて行う。
今年も長くなりそうだ、なんて思ったその時だった。
殆ど相手は何もできずスタートから数分、リュートが握っている銀色の切っ先が相手の喉元を捉えた。どうしようもないほどに圧倒的だった。
合図が鳴り響き、歓声が上がる。するとリュートは剣を柄に戻して尻餅をついている相手の腕を引き立ち上がるのを手伝うと、また相手ににこりと笑い掛けた。彼の事だ、お礼でも言っているのだろう。ありがとう、たのしかったよ、と。そうして相手がフィールドから姿を消し、リュートも踵を返したその時。
「俺、狙ってみようかな、ディーゼルツェ。めっちゃ可愛くね?結構前から気になってたんだよね」
「え?まじ?実は俺もさー…」
いきなり背後から聞こえてきた名も知らぬ男子生徒の会話に背中を押されるかのように、ざわつく会場に負けじとレイジはフィールドの彼の名を叫んだ。
「…レイジ?」
恐らく口はそう動いた。きょろきょろと辺りを見回し、そうしてやっと自分を見つけてくれたらしい彼は、ぱあ、と音が鳴りそうな程に嬉しそうな顔をしてこちらに手を振る。その様子がどうしようもないほどに愛らしくて、若干キレ気味になりながらレイジは声を上げた。
「リュート!この間はごめん!俺、ぜんっぜん怒ってないからー!」
そう叫ぶと彼はふわりと微笑み、よかった、と口を動かす。周囲がざわめくのを気にせず、自分のものに目の前で印をつけるかのようにレイジは続けた。
「俺、お前も倒して絶対優勝する!そしたら…っ」
もうだめかもしれない。もしかしたら昨日一緒にいた彼女にもう取られているのかもしれない。そんな不安がのうりをよぎる。だが、それでも。諦めきれなかった。昨晩逃げ帰った自分に喝を入れる。
そんなこちらの心配など露知らず、リュートはこてんと首を傾げてレイジの次の言葉を待っている。いますぐフィールドに飛び降りて唇を奪ってしまいたい衝動を抑え込み、自分でもこれまで聴いたことのないほどの大声で――。
「俺と…付き合ってくれー!」
しん、とした静寂の後、ぽかんとしていたリュートは少しずつ赤くなり、ばかー!と叫んでフィールドから姿を消してしまった。
一見フラれたようにも見えるが一方のレイジはといと、昨日までの悩みが嘘のように決意に満ちた顔をしていた。今まで行動はともかく、口説き文句だけはさらりと流されていたが、先程彼は初めてレイジの口説き文句(というか告白だったが)に頬を染めた。
「はは、なんだよ…脈しかないじゃん?」
嬉しそうに呟いたレイジは観覧席を飛び出して稽古場へと向かった。
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