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第7話 違うんです

「蓮?」  カーテンの向こう側で、衣擦れの音が聞こえた。シーツを動かして、小さく呻く声が聞こえる。その声は、この二週間の間ずっと耳で探していた声だった。 「あやと……さ……あや……と……」  急に立つなという世理の声を無視して腕を振り解き、フラフラと心許ない足取りで、隣のベッドのカーテンを開け放った。 「蓮! ……お前、その顔……」  ホテルマンである蓮の仕事のことを考えて、彼は顔には手を出さないと言っていた。それは蓮の仕事を尊重してくれているのだと思っていた。それなのに、こんな顔になるまで酷い扱いを受けていたのかと思うと……気がつけなかった自分が情けなくて、前が見えなくなるまで泣いた。 「お前……そんなにやつれて、目の下クマで真っ黒じゃないか! そんな顔で仕事してたのか? 出来ないだろう、それじゃ。どうして俺に連絡してこなかったんだ! どうして……」  俺は蓮の顔にそっと触れると、その痩せこけた頬を包み込んだ。蓮は俺に目を合わせてはいるが、目の前の俺が俺だと認識出来ていないようで、譫言のように俺を呼び続けていた。 「蓮、俺だよ。綾人だ。ほら、本物だから」  俺は蓮の唇に、ゆっくり深くて甘いキスをした。それは、俺のうちに初めて蓮が来た時にした、蓮が一番喜んでいた時と同じキス。両手を握って、唇を食みはするのに、舌を使わない、唇だけでゆっくり交わすキス。 「んっ」  それを、何度も。 「んう」  思い出して欲しくて、何度も。 「ふ、ン」  何度も繰り返した。  段々蓮の手に力が入り始め、ぎゅうっと握り締め始めた。そして、その目に涙が溢れて、頬を濡らしていく。  ゆっくりと唇を離して、視線をぶつけた。 「蓮。大丈夫か? 辛かったのか? ごめんな、力になれなくて」  俺は蓮の髪に指を差し込んで、ゆっくりと梳いた。「もう大丈夫だから」と言い続けていると、蓮は嗚咽を漏らし始めた。 「あ、やとさん、は、悪くないで……僕が、こ、んな、だから……」  蓮は手で顔を覆って泣いている。父が再婚した相手の父親が、自分を蹂躙していることを知られたことに絶望している。昨日いた場所を思えば、関係性が明るみに出たことはわかるだろう。だからこそ、ここはすぐに話をまとめる必要があると思った。 「蓮。いいんだよ。もう、いいんだ。お前をこうしていた人が誰なのか、悪いが聞いてしまった。どんな扱いをどれほど長い間受けていたのかも。それでも、俺はお前が好きだよ。あの男からお前を引き離すから、俺と一緒にいてくれないか?」  蓮は黙っていた。眉間に皺を寄せて、唇を噛み締めていた。どうしても首を縦に振ろうとしない。どうすべきなのかわからなくなり、俺は俯いた。  俯いて目に入れた視線の先に、後藤さんの革靴が目に入った。隣には世理のシューズも見える。俺が顔を上げると、後藤さんは俺の頭を軽く小突いた。 「蓮さん、俺は部外者だけど、昨日あんたを介抱したよしみと義弟としてここにいさせてもらいますね」  後藤さんの声を聞いて、蓮は小さく頷いた。それを確認した後藤さんは、蓮と俺の手をとり、握手させるような形にして、上から自分の手で握り込んだ。 「今困ってることを全て話すんだ。どれほど恥ずかしいことであっても、包み隠さず話せ。蓮さん、あんたは昨日死んだんだ。もう今更恥ずかしいことなんて一つも無いよ。いいな? 有木から離れたのはなんでだ? 有木はなんで蓮さんから離れたのか、ちゃんと本人に言え」  そういうと、俺に視線で先を促した。  俺は迷っていた。何から話せばいいのかがわからなかった。ただ、間違いなく言わないといけないことが、一つあることはわかっていた。 「最初にこれをいうべきかどうかはわからないが……俺が蓮に会えなくなったのは、俺が抱くとすごく痛がるようになったからだ。それまではそんなこと……」 「だって、嫌そうだったじゃないですか!」 「え?」  まだ体に力が入らず、起き上がることさえ出来ないのに、信じられないほどの大声で蓮が割って入って来た。その目は怒りに燃えていた。俺はその反応を予想していなかったので、驚いてしまった。 「拘束や噛みつきをし始めたかと思ったら、すごく嫌そうに抱き始めて……そんなの痛いに決まってるでしょう? 玩具だって使いたくもないのに……」 「いや、待て待て待て待て!」  今度は蓮に俺が割って入った。蓮が怒っている理由がわからなかった。記憶を辿っていくけれど、俺は言われた通りにしていただけのはずだ。それなのに、なんで……。 「だって、お前が言ったんだぞ? 傷跡を辿って、同じことをしてくださいって。だから……それが嫌だったのか?」 「確かに同じことをしてくださいって言いました。でも、そうじゃ無いこともしてたでしょう? それは自分から始めたはずです。それなのに、すごく嫌そうな、つまらなさそうな顔をして……土日の地獄の後に、大好きな人に地獄を見せられて、正気でいられるわけないじゃないですか! だから、ずっとラムネを食べてました。もう全部がどうでも良くなって。死のうが生きてようが、どうせ地獄なんです。だから……」 「……あんなに気持ちよさそうにしてたのに?」  俺は蓮の言葉が信じられなかった。だって、蓮はすごく善がっていたんだ。俺が恋人に嫉妬して、手首を強く握り締めてしまった時、強い劣情を滲ませたんだ。体の反応もあった。だから、被虐を望んでるんだと思った。 「違うんです、違います! 僕が痛いのを喜ぶのなら、結城様とのことを嫌がるわけないでしょう? 言ったはずですよ、僕はマゾではありません。それなのに、どうして勘違いしたんですか?」  蓮は半分怒りながら、困惑していた。そして、批判の色を示していた。俺が都合よく逃げようとしていると判断したのかもしれない。俺は慌てて説明した。 「俺は、人を痛めつけることは、相手がどんなに望んでも出来ない。必要であっても出来ない。だから病院じゃなくて研究所で働いてるんだ。俺が自分から嗜虐することは無い。俺がソフトでもSMを提案したのは、俺が恋人に嫉妬してお前の手を強く握り込んだアクシデントの時に、めちゃくちゃ気持ちよさそうにしてたからだよ! あの日、初めて中イキしただろ? ドライまで……だから、痛いのがいいんだと思ったんだ。お互いに何か勘違いしたってことか?」  ガックリと力なく崩れ落ちた俺を見て、蓮はベッドから首を持ち上げた。そして、俺の目を見ながら尋ねる。 「でも、そんなに痛めつけるのが嫌なら、どうやって続けてたんですか? 気が狂うでしょう? あんな頻度で会ってたら……」 「狂ってたな」  ポツリと世理が零した。冷ややかな口調に、一瞬ドキッとした。珍しく世理が感情を露わにしている。 「何やってんだよ、お前らは。ああかもしれない、こうかもしれないって思い込んで。ちゃんと相手に確認しろよ。大人の基本だろうが。蓮、有木はしたくもない嗜虐に精神が狂って向精神薬のお世話になってたぞ。俺がそれを止めて、恋人に会うのをやめろって言ったんだ。まさかお前だと思わなかったからな。有木、お前はもっと冷静になれよ。蓮が気持ちよさそうにしてた時の理由。今話を聞いただけでわかったぞ! 蓮は、お前に嫉妬されたのが嬉しかったんだよ! 気持ちが通じた後のネコは感じ方が強くなるんだよ! ゲイと付き合うならちゃんと勉強しとけ! ったく、ほんっとうに鈍いんだな、お前」  そこからしばらくは、いつも冷静沈着な世理が大声をあげて、ゲイのセックス事情を説明してくれた。俺はそれを呆然と聞きながら、あの日の勘違いを悔いた。 ——それなら、あの日に気持ちが通じてたってことじゃないか。  そう考えると、悲しくなってしまった。俺があの時、きちんと気が付いてさえいれば、蓮は昨日のような目に遭わずに済んだ。そこに至るまでの苦しい日々も無かったはずだ。  後悔が次々と押し寄せる。涙が溢れそうになっているところを、今度は後藤さんに背中を思い切り叩かれた。 「落ち込んでるところ悪いな。そろそろ結城様を傀儡にする話を進めようぜ」  そう言って、再びポケットからアンクレットと指輪を取り出した。それは、最近欠番になったものだ。ネームタグにはy.sの跡がある。 「それ……優希くんのものだよね? 指輪も?」  蓮がサトルに尋ねると、「そうだ。これは返却して、結婚指輪は作り直した」と言って、左手のシルバーリングを見せてくれた。 「この指輪は、嫌子になる。してはいけない行動をとった場合、電流が流れるようになっているんだ。これを結城様に着けさせる。アンクレットはGPSだ。これでもう結城様と遭遇することはない」  蓮は、手のひらに乗せられた行動抑制用の装具を、不思議そうに見つめていた。指輪をとって、不思議そうに眺めている。 「これを結城様に着けさせたらどうなるの?」  その問いには後藤さんが答える。ここから先は経営のトップに任せるのが適任だ。 「あの人に蓮さんを触らせないようにするんだ。そうすれば、もうあなたは傷を作ることも、これから先の自分を汚いと思うこともなくなる。有木と幸せに生きていけばいい」  蓮は、手のひらの装具をじっと見つめていた。「これが、僕を自由にするんですか?」と訊いていくる。後藤さんは「そうだ。それを開発したのは有木だからな。有木が蓮さんを解放するんだよ」と言った。 「綾人さんが、僕を……? でも、僕の罪はどうなるんですか?」  すると、後藤さんはニヤリと笑った。この人は本当にすごい。おそらくその問題も解決して来たのだろう。 「もうあんたが気にすることは一つもない。俺がこれから話すことを、全部信じてくれるならな」

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