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第8話 あんなやつでも
「信じられないようなことなんですか?」
僕が後藤さんに尋ねると、後藤さんはとても真剣な面持ちになった。
「蓮さん、あなたは弟のこともあって、割とセクシャリティに寛容な姿勢を持ってるだろう? それでも信じ難いとは思うんだが……結城巌は、あんたを本当に愛しているんだよ。本気で好きなんだ」
「え? ……うそ、ですよね? あんな酷いことしておいて……?」
僕はにわかには信じられず、後藤さんがよくわからない言語を話している人のように見えた。あんなに毎週傷つけられて、何度もやめて欲しいと懇願して、市販のものとはいえ痛み止めを乱用するほど傷ついていた僕を、愛してる? ……そんなバカな話があるかと驚いた。
「よく思い出して欲しいんだ。結城様は最初からあんたを痛めつけていたか? それなら、サディストだと言われればそれまでだ。だけど、そうじゃ無いだろう? 最初はメチャクチャに優しかったんじゃないか? そうでなければ、たとえ罪があったとしても、もっと早くあんたは潰れてるはずなんだよ」
「最初……?」
僕は後藤さんに問われて、初めてその頃のことを思い出そうとしていた。いくら優しかったとしても、僕にとっては好きでも無い人に毎週抱かれると言うことは苦痛でしか無かった。だからずっと変わらず地獄だったわけだけれども、結城様にとっては何かしらの変化があった時があるらしい。
よく思い出してみる。初めて結城様に呼び出されたのは、二十三歳の時だった。あの事件から五年が経とうとしていた頃。僕は大学を卒業して、父との約束を叶えるために、ホテルマンとしての修行のため、とあるホテルにベルボーイとして就職した。
仕事の帰りに結城様から連絡があり、奴隷になるように言われた。『息子を失った痛みが癒えない。お前だけが社会人になったことが許せない。俺の傀儡になれ』と言われた。
「そう言われれば、毎週抱かれていたのは変わりないですけれど、嗜虐傾向が出たのは、数年経ってからのような気がします。僕もいつも忘れていたくて、仕事以外ではずっとお酒か痛み止めを飲んでいたので、記憶も曖昧ですけれど……おそらく五年くらい前だったように思います」
「そう。その時期にあったことはまた別に話すけれど、最初は優しかっただろう? 嬉しかったはずなんだよ。さくらさんを事故死に見せかけて殺してまで手に入れたんだから」
「え?」
何を言われたのかが、全くわからなかった。母さんはバイクに撥ねられて死んだ。それは僕が道路に突き飛ばしたから起きた事故だったはずだ。それが……殺人?
「あれは事故じゃ無いんですか? 僕が母さんを突き飛ばしたから死んでしまっただけで……」
「違うんだってさ。ずっとそれを調べていた刑事がいたんだよ。真実がわかっても、相手が相手だ。何度も金で揉み消されてきたらしい。証拠の類はもう全部無くなった。それでも、このことを知れば、蓮さんは精神的な支配からは抜け出せるだろう? だから話してもらったんだ。可能性の全てを」
後藤さんが刑事さんから聞いた話は、大体こうだった。
結城様は事故が起きた十五年前、息子さんを迎えに車で大学に来ていた。そこで僕を見かけ、一目惚れした。
それ以来、何度か両親に僕を養子にしたいと申し出ていたらしい。ただ、そこに邪な思いがあることに気がついていた母が、頑として首を縦に振らなかった。
それに剛を煮やした結城様は、ろくでなしの息子に「あの女を殺せば一生遊んで暮らせるようにしてやる」と言い、酒を飲ませてバイクで襲わせた。
そして、僕が母の死を自分の責任だと思っていることを聞きつけ、それを利用して傀儡になれと言い、僕の父には「兄を失った妹」である自分の娘を嫁にして、一生面倒を見ろと押し付けた。二人の邪魔者を排除し、二人の奴隷を得たと言うところらしい。
——それを、愛だというの?
僕はショックで言葉が出なくなった。混乱が過ぎて、涙が音もなく流れていくだけだった。
「腐りきったやつなんですね、結城」
サトルがポツリと呟く。綾人さんも後藤さんも、頷いた。僕もそう思う。そんな人に愛していると言われても、僕には応えられない。理解することも、受け止めることも不可能だ。
「執着が激しくて気に入ったものは手に入れないと気が済まないし、手放さない。それが結城巌だ。蓮さんは、まさにその通りの扱いを受けているんだよ。その蓮さんの中でも唯一、結城の自由にできないものがある。それが、心だ。その心が誰かに向いたのに気がついて焦った。それが五年前だろうな」
「五年前の変化に……結城様が気がつかれていた……?」
僕はそれを聞いて焦った。自分でも気がついたのが最近だったのに、結城様は気がついていたんだろうか。ちらりと視線を送る。綾人さんが不思議そうにこちらを見ていた。
「あー、あれか。蓮と有木がお互いにちょっといいなあと思ってた時」
なんでも無いことのように、サトルが口を挟んだ。
「えっ! 世理、何それ? お互いに?」
「サトルっ! それ今言うなよ!」
僕は確かに五年前、研究が評価されようとしていた時期の決起会にたまたま顔を出し、紹介された綾人さんに一目惚れした。それ以来、遠くから見るだけで満足していた……。サトルにも詳しくは話していないはずだ。それなのに、なんで気がついていたんだ……。
「はい、はい。その話はまた後日な。それでな、そのことに気がついた人は、サトルだけじゃ無かったわけよ。蓮さんが誰かに心を奪われたことに、結城様も気がついた。だから力で縛りつけることに固執した。その結果が、暴力になったみたいだ。奪われたくなくて必死だったらしいぞ。これは、うんざりした秘書たちが噂話をしているのを、ホテルの従業員たちが聞いてたんだ。昨日の件で、蓮のことが心配になったんだろうな。あの後、こっそり俺に教えてくれたんだ」
僕は絶句した。結城様は僕を愛している。その僕が他の人を愛しているから、奪われたくなくて、痛めつけていた……。そんなの、簡単に信じられるわけがない。
世の中には、そう言う人もいるのかも知れない。僕が被害を受けるわけでなく、被虐嗜好の人がされるだけなら問題はないだろう。
でも、僕は違う。自分が痛めつけられるのを嬉しいとも気持ちがいいとも思った事が無い。なんと言われようと、それを受け入れたくはない。
「まあ、だからと言って望んでいない人を痛めつけていいわけはない。結城様を蓮さんから引き離すことに変わりは無いよ。ただね、わかってると思うんだけど、この指輪を嵌めるためには……」
言いにくそうにしている後藤さんの言葉尻を、僕は引き取った。
「もう一度、結城様と過ごさなくてはならないんですよね」
僕は、二本の指でつまむようにして持った、銀色の指輪に視線を落とした。そこに埋め込まれた人工ダイヤが、僕を痛めつけてきた人に牙を剥く。
そのためには、あの男の指にこれを嵌めないといけない。それが可能な人物は、僕しかいない。僕がそれをできる時間は、あの時だけだ。それも、完全に油断させてからでないと……。
「蓮さん。結城様を完全ノーガードにする一瞬を作るために、一つあなたには大変なことをして貰わないといけない。そして、それを有木にも同意してもらわないといけない。ただしこれは、蓮さんを早期に救うためには仕方がないことだ。割り切って行動してほしい」
後藤さんはそういうと、右のポケットから大ぶりの宝石がついたピアスを一組取り出した。優希くんが付けていたピアスによく似ている。でも、宝石の色がピンク色だった。
おそらく研究所の行動抑制ピアスだろうとは思うけれども、僕自身はそれに見覚えがなかった。
「後藤さん、それ……!」
綾人さんとサトルはそれがなんなのかがわかったらしい。酷く狼狽えていて、二人はお互いを見たまま言葉を失っていた。
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