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第9話 地獄をぶっ壊せ
「後藤さん、これはなんですか? 二人の反応をみる限り、優希くんのものとは違うんでしょう?」
すると、後藤さんは苦しそうに俯いた。言いにくそうにグッと一瞬唇を結び、辛そうな目を僕に向けた。そして、ツウっと涙を流しながら、ある宣告をした。
「あー思い出すだけでも腹が立つけどな……、うん。これは、研究所のピアスを悪用した、娼年娼女人格育成用のピアスだ。ちょっと前に、これをつけた子供が大人に買春されて大騒ぎになったのを覚えてないか? 今回は、それをこちらが利用させてもらうんだ。これをつけて、もう一度だけ結城様に抱かれてくれないか? そして、相手が完全に油断したところで眠らせてほしい。躊躇っちゃいけないよ? 相手はずっと一線で活躍していたビジネスマンだ。気がつかれたらもうチャンスは無い。絶対に眠らせるんだよ。そうじゃないと、指輪を嵌めるなんて無理だから」
そう言って、僕の手のひらにそのピアスを乗せた。僕はそれをじっと見つめた。こんなもので、本当に完全に人格の入れ替えが可能なんて、信じられない。
でも、数ヶ月前にこれを使った事件があったことも事実。僕もそれは知っている。それを信じてやるしかないと思った。
——これをつけて、違う人として、結城様に抱かれる……。
「これをすれば、苦しまずに済むからって事ですよね?」
「……そうだ。それに、結城に心から油断してもらうためには、夢中になってもらうしかない。あの男は、盲目になる程蓮さんを愛しているんだよ。万が一、途中で気が付かれたとしても、今のあの人は、誘惑してくる蓮さんに抗えるほど強くない」
「それで、この指輪を嵌めれば、その後は結城様から触れられることは無くなる……」
「そうだ。そのためにプログラムの書き換えもしなくてはならないけれど、それは有木がやる」
僕は綾人さんの方を見た。小さく顎を引いてそれを肯定してくれた。ただ、彼の目には複雑な色が宿っている。終わらせるためだとはいえ、もう一度あの人と関係を持たせなくてはならないことが、彼の心を乱していた。
僕だって、しなくていいならしたくない。それでも、自分たちの社会的立場を考えると、このままでは結城様を止める事は出来ない。地獄は永遠に続くことになる。それだけは嫌だった。
「蓮……」
綾人さんは僕の頬に手を触れた。僕は、その手に上から手を重ねた。
「僕に罪がないのなら、あんな思いはもうしたくありません。一度だけなら我慢します。だって、これまで何度でも耐えられました。ピアスをして、立ち向かいます。綾人さん、それは許してくれますか?」
綾人さんが僕を見る目が、どんどん涙で濡れていった。パタパタと音を立ててシーツに落ちていく。空いている方の手でぎゅっと拳を握り、それを何度かさらに握りこんだ。
そして、無言のまま頷くと、嗚咽を漏らして泣き始めた。
「後藤さん、父さんはどうしたらいいですか? 父さんが自由にならない限り、自分だけ助かるなんてことは……」
「おーそうだった! そのことを言ってなかったな」
後藤さんは、ポンと手を叩きながら、目をキラキラさせていた。とても楽しいことを知っていて、それを告げたくて仕方がない小さな子供のような顔をしていた。
「ホテル咲耶荘は、もう二度と結城グループの援助を受けないことにした。だから、頼子が偉そうに出来る理由が無くなった。お父さんは、別のスポンサーを見つけてくれたんだよ。良かったな」
そう言って、ニコニコと笑う後藤さんは、とても楽しそうだった。それに、どこか安堵しているようにも見えた。それほどまでに僕の身を案じてくれていたのだろうかと思っていると、コンコンとドアがノックされた。
「どうぞ、スポンサー様」
ガーっと音を立てて、スライドドアが開いた。そのドアが開き切る前に、体をドアにぶつけながら中に飛び込んで来たのは、沙枝姉さんだった。その後ろから葵が小走りについて来る。
「蓮!」
綾人さんを吹っ飛ばす勢いで僕の方へと飛び込んできた姉さんは、僕の首にしがみついた。そのまま力を入れるから、僕は危うく窒息しそうになってしまう。背中を叩いても気がついてくれなくて焦っていると、葵が引き剥がしてくれて、後藤さんへと預けた。
「兄さん、そんなにやつれて……。俺のことを心配しながら、ずっと一人で苦しんでたんだね。なんで言ってくれなかったの……俺だって兄さんのために何か出来たかもしれないのに……してもらってばっかりで、何も返せてないよ」
「葵……」
葵は真っ赤に泣き腫らした目を僕に向け、さらに涙を溜めていった。僕の手を握りしめ、それを額に当てながら「ごめんね」と繰り返した。
「そうよ。あんた何も言わないから、私も葵も自分たちだけが不幸みたいな顔して生きてきたのよ。恥ずかしいったら無いわ。こんなになるまで苦労して……一人で背負い込んで悲劇のヒーローぶっってんじゃ無いわよ。飛び降りたりしてなくて良かった……」
後藤さんの腕の中で泣き崩れた姉さんは、化粧がボロボロになっていた。長い時間泣き続けているのだろう。顔がパンパンに腫れていた。こうなることがわかっていたから、姉さんには知られたく無かった。
僕を地獄に落としていたのは、姉さんの実母と祖父だ。血のつながった二人がそんな鬼畜だと知ったら、ただでさえ傷つきやすい姉さんがどうなるかと思うと、そんなこと絶対に言えなかった。
葵に言えば、姉さんに隠すのが辛くなるだろうと思って、二人には一度も話さなかった。
「まあ、話してもらえなかったのは辛かっただろうけれど、話せるわけもないだろう? 母さんに命令されて、じいさんにヤられてますなんて、俺だって言えねーよ。だから、それはもう言うな。な?」
ぐずぐずと泣く沙枝姉さんと葵を宥めながら、後藤さんは優しく二人を抱きしめていた。
「ごめんね、二人とも。ありがとう。でも、スポンサーってどういうこと?」
戸惑う俺に、後藤さんが詳細を説明してくれる。
「咲耶荘のオーナーは市木幸彦さんのままで、運営を俺の会社でやることにするんだ。まだ打診を受けただけなんだけどな。最初に会った時の印象がよっぽど良かったんだろうな。すぐ俺に連絡くれてたんだ。近いうちに、運営をお願いしたいってね。二人ともちゃんと残ってもらうから、安心して」
「それで、母さんは納得したんですか?」
頼子さんの話をすると、まだ体が震える。彼女たちが僕の精神を支配していた期間は、あまりにも長い。その名前を口にするだけで肌が泡立ちそうになる。
そんな僕の様子を見て、後藤さんがカラカラと笑った。
「蓮さん、すこーし冷静になってみろ。あの人になんの権限がある? ただの秘書だろ? 幸彦さんの配偶者だから何か特別に見えるかもしれないけれど、あの人は社会的には普通の人だ。今のうちに運営方針を変えておけば、実力でついてこれないならそのうち居場所が無くなる。そうなれば、ただのオーナー夫人ってだけの人だよ。後ろ盾が無くなったオーナー夫人にオーナーが振り回されるようなら、それまで。でも、幸彦さんは大丈夫だろう? 俺たち三人で、これからの咲耶荘の資金は支える。だから、もう一度だけ頑張って、自分の力で地獄を吹っ飛ばしてきてくれ」
そう言って、ニッと口の端を吊り上げて笑った。イタズラずきの男の子が、勝ちを確信した時のような顔をしている。
「地獄を……吹っ飛ばす……」
僕がそう呟くと、僕の肩に手をポンと乗せて繰り返した。
「そうだ。吹っ飛ばせ。全部粉々にぶっ壊して、跡形もなく吹っ飛ばして、有木のところに帰ってこい」
その手の力強さが、熱が、感触が、僕は一人じゃないんだと言ってくれていた。姉、弟、友人、そして、好きな人。その全ての目が、僕を支えると言ってくれている。
「わかりました。もう一度だけ、頑張ります。じゃあ、明後日またあのホテルにいくことになると思うので、その時に」
僕は覚悟した。これは人生で最も大きな事件になる。地獄を吹っ飛ばして、幸せに生きるか、吹っ飛ばした先に新たな地獄が生まれるか、まだわからない。
『全ての行動が規約に触れる。辞める覚悟が必要になるぞ。いいのか?』
カーテンが開けられる前、少しだけ聞こえたこの言葉。後藤さんの提案は、少しでも表沙汰になれば、誰も無傷でいられなくなる危険なものだ。関わるなら、一生分の覚悟が必要になってくる。
「綾人さん。本当にいいんですか? これ、プログラムから組み直すんでしょう? そうなると、バレた時に辞めないといけなくなる……」
「もちろんいいよ。いいに決まってるだろう? これで蓮が守れるなら……誰も守れないなら、こんなもの研究してたって意味がない。俺はお前が守れるなら、後悔はない。でも、世理、お前はやめておけ。理由はわかるだろう?」
綾人さんが問うと、サトルが苦しそうに「ああ、わかる」と答えた。
「俺は優希を守らないといけない。里井の居場所を確保しておかないといけない。だから、この研究を守るためにも、俺はこの件には関与しない。蓮、ごめんな」
そう言って、その目を潤ませた。僕はこれまで、サトルが泣いているのなんて、見たことが無かった。どんな苦境に落とされても、飄々と乗り越えてきた男が、初めて涙を見せた。それが自分と優希くんのためであるのだろうと思うと、不思議と強く腹が据わった。
「ありがとう、サトル。お前に心配をかけないためにも、頑張って先へ進むよ」
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