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第11話 決別のために
ガチャリと重いノブを回して、ドアをグッと押した。開けた空間に出ると、目の前にはドクターが立っていた。
「ドクター、待っててくれたの?」
僕がそう声をかけると、強張った笑顔を返し、「ああ、お疲れ様。睡蓮」と応えてくれた。
でも、僕の姿をしっかり目にすると、一瞬でパッと目を逸らした。その瞬間、なぜか僕の胸がズキンと痛んだ。
「……僕、汚い?」
思わず言葉が口をついて飛び出した。でも、僕は僕を汚いなんて思ったことは無いはずだ。どうしてそんなことを訊いたんだろう。思わず首を傾げてしまった。
でも、どうしても悲しかった。きっと、ドクターが僕を避けたからだ。ご主人様は見惚れていたのに、目を逸らすなんて、なんだかプライドが許さない。
「なんで目を逸らすの? 外においでって呼んだのドクターでしょ?」
足元から膝まで、悲しみが積もっていくような気がした。それがどんどん上まで上がってきて、僕の体を埋め尽くしていく。いい気分で出てきたのに、なんだか一気に嫌な気分にさせられてしまった。
——寂しい、悲しい、辛い。痛い、苦しい、助けて……。
「あれ……?」
じん……と僅かに何かを感じた。少し間隔をあけて、またそれを感じる。そしてそれが、つま先や指先、二の腕、肩、胸、背中、足の付け根、お尻……じん、じん、じんと疼くような痛みとなって増えていった。
それはまるで、トンネルの中で反響する声のように、あちこちから生まれては跳ね返り、身体中に鳴り響く騒音のように僕を襲って来る。
「え……い、たい……痛いよ……なんで? 痛いのは気持ちいいでしょ? 痛い……苦しい……痛い! や、やだあ」
身体中を猛烈な不快感が襲ってきた。それがあまりにも苦しくて、自分の体を両手で抱えるようにして、その場にしゃがみ込んだ。
「い、痛い! やだ! 助けて、ドクター! ……あ、なに、コレ! いやだ!」
睡蓮は、まるで気が狂ってしまったかのように、身体中を手でさすり続ける。肌をムカデやヤツデのような虫が這っているのが見えているはずだ。その全てを払い落とすように、必死に腕で体を摩っている。
睡蓮と同じ体の中にいる僕には、虫はそれは見えていない。でも実際にある傷は見えるし、不快感だけは共有している。今すぐ皮膚ごと削ぎ落として逃げ出したい欲求に駆られていた。
——入れ替わる時に、結城様に抱かれるのは強烈に嫌な事だと思わせるようにしてあるから。
ドクターがそう言ってた。半分になった時に、僕がすること。それは……。綾人さん抱いてってお願いしなさいって言われてた。ドクターは、綾人さん? 綾人さんが、ドクター? ドクターは……。
「ドクター! 抱いて! ねえ、お願い! 僕のこと助けて! 綾人さんっ!」
綾人さんは、半分戻りかけの僕を優しく包み込むと、ぎゅっと優しく抱きしめてくれた。その長い腕で抱き竦めたまま、優しくて、甘くて、長くて、深いキスをくれる。何度も、何度もくれた。
「睡蓮、よく頑張ったね。ご主人様は満足してぐっすり眠ったよ。今日はお疲れ様。ゆっくりおやすみ」
そう言って、僕の後頭部を優しく撫でてくれた。そして、もう一度深く口付けながら、そっと耳朶に優しく触れてくる。
——キスも耳も優しくてあったかくて気持ちいい。痛くないのも幸せかもしれない。痛くないのが幸せかもしれない。痛いのは嫌かもしれない。
「じゃあな」
ドクターがそう囁いた時、耳元でブツっと音がした。
カチャっとケースにしまう音がした。ピアスが外され、僕は元に戻された。
その音が聞こえると同時に、僕は綾人さんの匂いと感触に気がついた。鼻先を大好きな人の香りが包む。甘い温度がある。触れるとわかる。大好きな人だ。ここに戻ることが出来たのが、嬉しくて仕方が無かった。
「綾人さん。もう戻りました。戻るのは早いんですね」
僕はその厚い胸板に抱きついたまま、綾人さんを見上げた。そこには、うっすらと涙を溜めた瞳が、悲しげに微笑んでいる姿があった。無言のまま、僕の髪を撫で続けている。
「どうして泣いてるんですか? 睡蓮のままが良かった?」
僕と話しているのに泣いていることが理解できなくて、僕は拗ねた。すると、綾人さんは瞼に溜まった涙を零しながら、被りを振った。
「蓮の体が……傷が出来た日に会ったのは初めてだから。まだ血が出てる。手当をしよう。でもその前に、一つやるべきことがあるよ」
綾人さんはそう言うと、僕を連れて今出てきた部屋の中へと戻っていく。手を引かれてベッドへと近づくに連れ、どんどん動悸が激しくなっていった。
「大丈夫か? でも、これをつけるまでは終わらない。頑張ってくれ」
綾人さんは僕の手のひらに、小さな金属の破片とアンクレットを握らせた。アンクレットはGPSだ。もう僕とすれ違うこともないようにプログラムされている。ただ、この金属片がなんなのかがわからない。
「これは、耳の下の部分に左右一つずつ打ち込んで、埋没させる。善人プログラム用のチップだ。手で差し込めるようになってる。その二つを蓮の手でやることが重要なんだ。おいで」
綾人さんが僕の手を引いて、結城様の眠るベッドの方へと歩いていく。よほど幸せな思いをしたのか、幼子のような顔をして眠る結城様は、とてもいつもの鬼畜には見えなかった。
「いつもこんな風でいられたらいいのにね」
綾人さんはそう言うと、結城様を抱き起こした。かなり強い麻酔が使われたのだろう。全く起きる気配が無かった。僕は、結城様の後ろから、耳の下の窪みの部分に、チップを指で差し込んだ。
一瞬、ビクッと体が動いた。でも、それ以外はまた幸せそうに眠っているだけだった。
「よし、こっちは大丈夫。じゃあ次はアンクレットな」
僕は、結城様からすぐに手を離し、綾人さんの言う通りにアンクレットを持って足元へと移動した。自由になれるのだという逸る気持ちを抑えきれず、ガチャガチャと音を立ててアンクレットを取り出した。
「蓮、落ち着いて。大丈夫だから。ローションに仕込んでおいた睡眠薬は、結構強いからね。それに、身体中に同じものを塗っていたから。めちゃくちゃに舐めまわされただろう? しばらく起きれないよ」
「あ、そうか……そうなんだ。でも……怖くて」
僕は焦っていて、手が震えていた。アンクレットを持つ手が痙攣しているように揺れて、なかなかロックを外すことも出来なかった。だから、外れた瞬間に慌ててそれを取り付けた。
ガチャンとロック音がした瞬間にパッと手を離すと、その内径がすうっと縮んで外れなくなった。それがこれからの僕の自由を証明してくれていた。
「よし、これでもう大丈夫だよ」
綾人さんはそう言って、僕をきつく抱きしめた。そして、僕の名前を呼びながら、たくさんのキスを降らせてくれた。僕は嬉しくて、信じられなくて、これからの未来にあの絶望は無いんだと思うと、涙と震えが止められなかった。
十年間失っていた感覚が戻ってきたようだった。抱きしめられて、キスを受けて、それだけで叫び出したいくらいに幸せを感じられた。
「蓮、蓮……俺の蓮……」
「綾人さ……あり、ありがと……」
二人でしがみつきあって泣いた。二人で声を殺し合った。お互いの体にその叫びをぶつけて、出せるだけの大声をあげた。そして、不安の全てを吐き出し切った頃に、乱暴にキスをして、やるべきことを思い出した。
「さあ、戻ろう。蓮、これを着てくれ」
綾人さんはそう言って、オフホワイトのコートをふわりと肩にかけてくれた。僕はその時、自分がものすごく大胆な格好をしていることを知った。ほぼ紐しか身についていない。繊細な刺繍だったのであろうシルクの生地は、ところどころが裂けていた。そうでなくても布面積なんて無かったようなものだったのに、今やほぼ裸だ。慌ててコートの袖に腕を通した。
「よし、じゃあ急ぐから、俺がおぶっていくからな」
そう言うと、僕を背中に乗せて「落ちるなよ!」と叫びながら豪奢なホテルの廊下を走り出した。
「わあ! こ、こわい!」
背の高い綾人さんにおぶられると、僕の視線は二メートル以上高いところにある。その状態でゆらゆらと揺れるのは、恐怖でしか無かった。
「しっかり捕まってろ。お姫様抱っこで救出が良かったかもしれないけれど、時間がないからこれで我慢してくれ」
そう言うと、従業員用の通路から車の待つ裏口まで猛スピードで駆け抜けていった。
僕たちは、出会って以来初めて、心の底から大きな声を出して笑い合った。
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