3 / 10

第3話

     3  眼が覚めると彼はいつもいない。  外はすっかり暗くなっており肌寒い。全開になっていた窓を閉めて、夕食なのか夜食なのかわからない食事を採る。これが今日の私の身体に与える唯一のエネルギィ源ということになるがこれで充分である。むしろ多いくらいだ。  一人分だけ作っているはずなのに必ず残してしまう。それにラップをかけて冷蔵庫に入れておくと知らないうちになくなっている。きっと冷蔵庫の一番下の棚はブラックホールなのだろう。  ポケットから財布を取り出す。見るまでもないのだがつい確認してしまう。彼がすでに帰ったということを他の視点からも確かめておきたいのだ。  案の定、紙幣がごっそり抜き取られている。ごっそりというと大量の札束が入っていたように思われてしまうかもしれないがそんなことはない。私の頼りない記憶によるなら、全部で五枚にも満たなかったと思う。入っていた紙幣の価値は別として。  彼は絶対に硬貨には手をつけない。小銭には興味がないというわけではなく重い、かららしいが基準がよくわからない。  どうせなら財布ごと持っていけばいいのに。わざわざ私のポケットから財布を取り出し紙幣だけを持っていく。そしてまた何事もなかったかのように財布をポケットに戻す。まるで手品で紙幣だけを消してしまったかのようだ。  いいですか?いまからあなたの財布の中からお札だけを消して見せます。ほら消えた、という具合に。  確かに彼の手口というか方法は鮮やかだと思う。  私は彼がいつ、どこから来て、いつ、どこへ去ってしまったのかを知らない。  もしかしたら何らかの薬品を使われているかもしれないが、それにしてもすごい。彼は私の家を訪問したという証拠を何一つ残さずに帰ることができる。飲んでいた麦茶のグラスも洗って定位置に戻し、においや存在感といった無形物の名残も消していく。  もし彼が私を殺すとしたら絶対に完全犯罪にできる。彼がいなくなったあとの部屋は横たわった私の死体しか残らない。  実際、私はいつも横たわっている。眼醒めるまでは死体も同然だ。  私が彼について知っていることといったら名前くらいだ。しかしその名前だって本名だという証拠はなにもない。  本名と偽名の違いは何か、と訊かれれば返答に困ってしまうのだが、少なくともこの関係において丁寧に本名を名乗る必要も意味もないからこれは偽名なのだ。名前などどうでもいいと思うのだが抱くときに名前がないと盛り上がらない、という彼の親切から彼の名前が知らされるところとなった。  ヨシツネ。  この音で思いつくのは鎌倉幕府を創始したあの征夷大将軍の弟くらいしかないのだが、漢字は幼少時に天狗と戯れたあの天才的武将とは違うらしい。  それならばどういう字を書くのだと訊いたのだがうまく誤魔化されてしまった。今度、といわれたがそれは断るときの手だったのか、単にすっかり忘れているだけなのか。  彼はいつも白いワイシャツの上に黒い学ランを羽織っている。だがそれが彼の制服ではないらしい。  しかしながらどう見ても中高生にしか見えないし、どうしてわざわざ制服でもない学ランを着ているのだろう。その利点ともいうべき理由は尋ねるたびに違う答えが返ってくる。  どこをウロウロしていてもさほど怪しくない。危なくなった場合の言い訳の信憑性が段違い。学ランはウケがいい。  適当にはぐらかしているのではなくどれも本当のように聞こえる。知り合いの制服を借りている、ということなので実在する学校のものなのだろう。それも本当かどうか疑わしいが。  彼の見た目は、ごく普通のどこにでもいるような中高生。雑踏に紛れれば一瞬で見失ってしまう。  しかしそれは、彼が自分を目立たせないために手に入れた精巧な人工膜のように思える。一対一で顔を合わせればすぐにわかる。  彼は決して、ごく普通のどこにでもいるような中高生ではない。  確かにごく普通のどこにでもいるような男子はカネと引き換えに身体を売らないのかもしれないがそのような意味ではない。彼が含有しているのは、眼に見えるような実質の行動における差異ではないのだ。  うまく説明ができないのだが、うまい説明というものは基本的に危うい。彼は他人からカネをもらってその代わりに寝る、という行為に慣れている。  しかしそれはカネをもらうために外部から習得し学習したサーヴィス的演技ではない。  彼はその行為に関して何も感じていない。  習慣的に身についた行為であって、朝起きて顔を洗うのとなんら差がない。そこには意志も意識もない。そうするのが当然だからという因果律も、そういうものだからという運命論もない。あたかも自然に、違和感なく実施されるだけの行為。  彼が求めるのは肉体の接触から来る安心でも、ひょっとしてそこから生まれるかもしれない愛のようなものでもない。  カネだ。  彼はカネが欲しいからカネを出した相手にお返しをしているだけなのだ。誕生日にプレゼントをもらってありがとう、と言うのと変わらない。  そして彼は、どういうわけか私が留守のときに訪ねてくる。 「遅いよ」  初めて会ったときからずっとそう言われている。  だが遅いといわれても彼を待たせていた憶えはないし、彼がその日に訪問するといった予定もなかった。それにもかかわらず彼はそう言った。  抑揚が私の育った地方のものではない。  東日本、西日本という曖昧な分け方を許してもらえるなら彼は西日本出身なのだろう。尋ねたことがないのでわからない。もし尋ねたとしても答えてくれない可能性のほうが高い。言葉というのは接触している人間から感染るということもある。 「俺、カネ欲しいんやけど」彼はそう言って笑った。  例の、口の両端だけを上げるという笑い方だ。片側だけを上げるという笑い方もあるのだがそのときはそんなこと知る由もない。  ちょっと出掛けて帰ってきたら玄関の前に中高生らしき少年がいたこと自体驚きなのに遅いよ、と聞き慣れない抑揚で言われ挙句の果てに笑われてしまった。  私は手に持っていたわけのわからないダイレクトメールと、差出人不明の手紙を残らず地面に落としてしまった。拾おうとも思えなかった。  しばらく見ていたと思う。 「カネ、くれへんかな」  意味がわからなかった。  どうして私に?カネが欲しい? 「おっさん、カネ持ってそやから」  読まれた。  おそらく慣れているのだろう。この発言の次に来る質問に厭き厭きしているかのような口調だった。 「えっと君は? どうしてこんな」 「せやなあ、おっさんからカネ巻き上げるだけなら可哀そやね。代わりに何でもするわ。往ねとか、俺を彼岸に送るんはあかんよ。よう考えて」 「あのさ、援助交際の類だったら」  彼はまた笑った。  予想された応答だったのだろう。切り替えしが著しく早かった。 「おっさん、俺の話聞いてへんね。俺はカネが欲しい。せやからそのお返しになんでもするゆうてるだけやん。エンコーがええんやったら俺は構へんけどね」 「僕じゃなきゃ駄目なのかな。その、僕はこういうことは」 「厭なん?」  厭、とは言えなかった。厭と言うには情報が足りなさすぎた。 「とりあえず中、入れてくれへん? 脚、疲れたわ」  家に上げても彼の調子は変わらなかった。むしろ、玄関先よりもずっと強引になった。  彼の主張は依然としてカネが欲しい。  私はどうすればいいのかわからない。会話は永久に交わらない。  彼を家に上げたのは間違いだったのだ。  私はポケットから財布を取り出して中身を畳の上にぶちまけた。好きなだけ持っていけ、と伝えたつもりだった。  もうやめてほしかった。  私に関わるのも、私の安寧を壊すようにずかずかと玄関先まで押し入るのも。何もかもうんざりだった。  その時は私はひどく混乱していた時期で、人の顔を見るのも人の声を聞くのも苦痛だった。ようやく外の世界と折り合いをつけようと意気込んで、或いは諦めて外に出掛けて、絶望して帰ってきたのだ。  安心できる我が家に逃げ帰ってきたのに、そこに待ち構えていたのはわけのわからない中高生。脳がおかしくなりそうだった。すでにおかしくなっていたのかもしれない。何が幻で何が本物なのかもわからなくなっていたのだから。  そして彼と寝たのだ。  理由は何でもよかった。このときの心情をどうしても解明したいのなら心理学者でも精神分析医でも、とにかく勝手にすればいい。彼に与えた幾ばくかの紙幣の代わりだったのか。理性と感情がごっちゃになってなにか新しい概念を作り出してそれのせいで少年を犯してしまったのか。もしかしたら彼と寝たということが実は虚構だったという可能性だってある。そのほうが健康にはよかったのかもしれない。眼が醒めたとき私はそれが夢や幻の類だと思った。彼が家のどこにもいなかったからだ。帰ったのでもいなくなったのでもない。いなかったのだ。  私は何十年かぶりに泣いた。臓器という臓器が文字通りからっぽになるまで泣いた。からっぽになると生命維持ができないものもあると思うのだが細かいところはどうでもいい。泣き終わって、私は本当にからっぽになったのだ。体液でぐしゃぐしゃになったシーツを剥ぐということすら思いつかなかった。  なぜ畳の上に財布が落ちているのかも、紙幣やら硬貨やらクレジットカードが散らばっているのかも思い出せなかった。革とアルミニウム、銅とニッケル。亜鉛とスズ。紙とプラスティック。それらはそもそもそこにあったのかもしれない。途切れ途切れの意識の中でそう思い込めてきたときに電話が鳴った。電話は隣の部屋にあったのだが取りに行く気力はなかった。出たくもなかった。  次に彼が訪ねてきたのは、それから一週間後だった。

ともだちにシェアしよう!